2001年4月週報より
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 (ヨハネ伝4章24節)
不景気で失業者も増加しているそうですし、新卒者が情熱を傾けられるような魅力ある求人も少ないようです。その結果、フリーターと称して「いつか来るチャンス」に備えている若者たちが増えていると聞きます。
また、金銭的な利益につながらなくても、確かな価値を感じる仕事にヴォランティアする人たちのこともよく耳にするようになりました。老若男女を問わず、人は心の満たされる仕事を求めます。
2000年前、イエス様はサマリヤの女に対面した時、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」と語られました。有名企業からの求人どころではなく、この世界を創造し、歴史を導かれる偉大なお方が求人広告を出し続けておられるというのです。
その具体的な仕事はイエス様のご名代として生きることです。今イエス様はこの世におられませんが、クリスチャンたちの中に住んでおられます。そして、私たちを用いて神の教会を建て上げておられます。
また聖書は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とも語っています。日曜日の朝、礼拝を捧げるために教会に足を運ぼうとする時、いくつもの妨げが起こってきます。それらはどれもこれも大切なことに思えます。その中で毅然として礼拝に向かえる人は神の特別な恩寵を味わった者と言えるでしょう。
よく礼拝は「聖なる義務」と表現されます。しかし、私は「喜びの献身」だと思います。神の恵みを感謝し、その日を待ちわびて集い行くのが礼拝ではないでしょうか。それはイエス様の愛に打たれた者たちが進んで捧げる愛の応答だからです。