悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
(マタイ伝5章4節)
人間のみならず、生命あるものは皆、ストレスを感じます。耐え切れないほどの大風が吹けば、頑丈な木の枝でさえ折れてしまいます。極端に気温が下がれば、枯れる植物も、凍死する動物もあります。これらは、ストレスが限度を超えた結果、死にまで至らしめる例です。
私たち人間は、これら自然界からのストレスに、ある程度の対策を施す知恵を授かっています。寒冷ストレスに対しては暖房で対処し、大風に対しては、室内に避難したりします。しかし、それもまた、限度を超えれば、平穏な生活に悲惨な破壊をもたらします。
よく「仕事のストレスで病気になった。」などと聞くことがありますが、失業もまた深刻なストレスとなります。人との関わりでストレスにつぶされる人も多くありますが、孤独の苦悩は更に深いものです。こうしてみると、ストレスをほどよく感じて、快適に暮らすのは容易なことではなさそうです。
そのように、人が常に幸福であることは難しいのですが、聖書に学ぶ時、それは可能です。箴言には、「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく。」(8-35)とあります。また逆に、「わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」(8-36)とも記されています。
人が神様を求める時、ストレスはその人を真剣な祈りへ導きます。そして、イエス様の十字架の愛を知った人は、物事の見方が一変し、「患難さえも喜んでいます。」(ローマ5-3)とさえ言えるようになるのです。
聖書は更に、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(第一テモテ6-6)と教えています。これは与えられた情況を愚痴るのでなく、感謝して受け止めることの幸いを説いているのでしょう。
今の時代、人はさまざまなストレスにさらされています。また、その量もしばしば限度を超えがちです。そんな状況の中で満ち足りて生きるためには、神によって、まずその人の罪の赦しが宣言されなければなりません。
真の神が、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」(イザヤ41-10)と約束しておられることを覚えましょう。どのような窮地に立つことがあっても、この約束は、私たちに安んじる心をくださるのです。