イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 (ヨハネ伝9章3節)
何か困ったことが起こるとつい口を突いて出る言葉が「どうして!」です。現在起こっている不幸の原因を過去の何かと結びつけようとする姿勢です。確かにはっきりとした原因があって起こってくる病気や不幸もあります。食生活の乱れや不摂生であれば、それを改善することにより健康を回復できます。
また、お父さんの不在が家庭不和の原因であれば、家族の団らんを努めることによって結束が強められるでしょう。ムダ使いをなくすことによって家計も好転できます。
しかし、はっきりとした原因を特定できないものも多くあります。たとえば、なぜ神戸の人たちをあの震災は襲ったのでしょうか。テロの犠牲者たちにそうなる落ち度が何かあったのでしょうか。何かの病気や障害を負って生まれてくる人がいるのはなぜでしょうか。
このような場合に私たちはイエス様の冒頭のみことばを思い起こすべきです。その不幸が礎となって、すばらしい未来が開かれていく、残骸の中から愛が芽吹いていくことに期待すべきです。
私たちが過去の成算にばかりエネルギーを使ってはもったいないです。イエス様の十字架を見上げましょう。私たちの罪も失敗も、神の御子が身代わりに負ってくださったのです。私たちの過去はもはや赦されているのです。
その後に何が起こったでしょうか。イエス様は死を打ち破ってよみがえられたのです。私たちはここに希望を持っています。どんなに問題がこみいっていて、お先真っ暗なように見えても、イエス様は「神のわざが現れる」と語られたのです。
キリスト信仰に生きる人にはいつも期待があります。次の瞬間に神様が何をなしてくださるかを心待ちにします。そして、そのわざを実現するために、私たちは神に協力して全力で働くのです。