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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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罪はこうして解決される!
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ書6章23節)

 先礼拝は大雨警報が発令されていたので、各自ご家庭で礼拝を捧げていただくよう連絡させてもらいました。ところが、J姉御夫妻がメールに気づかれなかったそうで、集ってくださいました。そのおかげで、御夫妻の思わぬ賜物が発見されました。初めてベルを手にしたT兄がきれいな音を出され、4人で美しい讃美をお捧げできたのです。御夫妻の喜びようを見て、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15-7)というイエス様の御言葉を思わされました。

 近隣の町々には浸水の被害もあったようで、心よりお見舞い申し上げます。また、京都で起こった放火事件の犠牲者、負傷者、関係者の皆様に、愛の神の深き御慰めをお祈り申し上げます。聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、」(ローマ3-23)と人間の罪性を明らかにしています。また、「罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1-15)とも警告しています。ですから、ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と指し示した救い主イエス様を信じて、罪の解決をいただく必要があるのです。

 もし、私たちの心の奥に、根深い妬み、憎しみ、恨みがあり続けたら、どうでしょうか。しばらくは紛らわすことができても、いつかは暴発するときがくるでしょう。そんな危険を抱えていた私たちに、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)という神の赦しが宣言されたのです。

 そして、私たちは「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)であるイエス様に接木されました。もはや「罪の奴隷」(ローマ6-17)ではありません。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)の聖霊の身を結ぶ「神の子ども(ローマ8-14)です。

 車も自動運転され、AIによって管理された工場で野菜が造られ、支払いもお金の不要な時代が間近だと聞きます。しかし、そのような環境において、果たして人間は幸せな生活を手に入れることができるのでしょうか。私たちは、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6-33)、主イエス様への礼拝の歩みを続けてまいりましょう。



未分類 | 23:17:11
「愛の人」に変えられる!
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4章10節)

 今日は参議院議員選挙の投票日です。聖書は、「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため」(Ⅰテモテ2-2)に、国、自治体などに立てられる人たちのために、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(2-1)と教えています。日本史を顧みても、キリシタン禁令、踏み絵、迫害などの史実を見ることができますし、今日でも、世界には自由に聖書を読むこと、イエス様に礼拝を捧げることのできない国があります。そのような中にあって、私たちは日本国民として、「信仰の自由」が保障されていることを感謝し、政体の中に、神のみこころが為されるよう祈り、選挙権を行使しましょう。

 先週、私たちは、「互いに熱心に愛し合いなさい。」Ⅰペテロ4-8)と教えられました。かつて、私たちは自分中心であり、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き」(ローマ12-15)などということはできない者たちでした。しかし、イエス様を信じて以来、次第に人を思いやることのできる者へと変えられてきています。それは「御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3-18)とあるとおりです。

 愛を身につけるための道場は教会です。神のみことばを共に拝読し、イエス様の愛を讃美し、神の助けを祈っていくとき、私たちは次第に「主と同じかたちに姿を変えられて」(Ⅱコリント3-18)、悲しむ人を慰め、弱った人を支えることができるようになっていきます。イエス様が私たちの罪を負い、十字架の苦難を耐えてくださったのですから、私たちも「赦しの愛」を実践していきましょう。

 道場である教会で愛を身につけると、社会のいたるところで、キリストの愛を実践することができます。私たちは施設を訪問して、「歌のプレゼント」をしていますが、それもまた教会で養われた愛が身についているからできることです。また、朗読奉仕の皆さんとの交流会に出たところ、何名かの方々から、「いつも短歌を楽しみにしています」と言っていただきました。そうした詩作を続けていることも、社会へ向っての、キリストの愛の実践です。

 痛ましい犯罪のニュースを聞くことが多いことを悲しみます。それだけ、罪に捕えられた人が多いのです。しかし、私たちは知っています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Ⅰテモテ1-15)ことを。聖霊の実を結ぶことにより、教会の内でも外でも、キリストの愛を実践し、人々がイエス様を仰ぐことができるよう、証しを続けてまいりましょう。




メッセージ | 23:44:33
「いのち、祝福」を選び取ろう!
 私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30-19)

 大学生の長男が帰省し、どんな将来を思い描いているか訊いてみました。挑戦的な意気込みで学んでいるようなので、祈りで支え、見守っていこうと思わされました。聖書に、「若い男は幻を見る。」(ヨエル2-28)とありますが、自分の未知の可能性に賭けているようです。箴言に、「心を尽くして主に拠り頼め。」(3-5)とあるように、教会で聴き育った主イエス様に祈りつつ、与えられている幻を実現していってほしいと願います。引き続き、応援の祈りをお願いします。

 人生にはこうした道の選択を迫られる場面があります。そうしたとき、必要な能力が「識別力」(ピリピ1-9)、物事を見極め、最善の道を選び取る能力です。福岡へ行くには福岡方面行きの道を熊本へ行くには熊本方面の道を選ばなければならないように、私たちは「いのちに至る門」(マタイ7-14)であるイエス様を信じ、その御教えに導かれて進まなければ、祝福の人生を歩むことはできません。

 そのためには、「滅びに至る門」(7-13)の誘惑の招きを断固として拒む必要があります。私たちが「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」(ヘブル12-2)いれば、誘惑を見聞きすることは少ないのですが、礼拝をおろそかにし、みことばを求める生活を止めてしまうならば、滅びに至る道の門口に立つことになります。

 神は人を創造されたとき、自由な意思を授けられました。その自由を神をお喜ばせすることにも、悲しませることにも使えます。最初の人アダムとエヴァはその自由を誤用して罪を侵し、神の祝福を失い、エデンの園から追放されました。私たちは進んで、私たちの自由を「神をお喜ばせする」ことに用い、祝福を相続する者としていただきましょう。

 八十路を過ぎた大楠兄姉がみゅうじっくベルに挑戦し、美しい調べを奏でてくれています。障害と闘いつつ、礼拝に集っておられる兄姉にも励まされます。いずれも「いのち」を選び取る生き方です。この夏も、皆そろって主イエス様の証し人としての歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 02:30:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
水害は何を警告しているか?
 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
(ヨハネ伝10章9節)

 朝倉の豪雨災害から二年、今年もまた南九州に雨が降り続き、災害となりました。被災された皆さんに心よりお見舞い申し上げます。これからも大雨、台風、地震など、災害が起こり得ますので、主イエス様のあわれみと守りを祈り続けましょう。
 こうした水害を経験する度に思い起こされるのがノアの時代に起こった大洪水です。聖書はその時代を、「地上に人の悪が増大し」(創世6-5)と表現しています。人々の考えが「みな、いつも悪いことだけに傾」いていたというのです。それは神が人を創造された目的に大きく反れた状態でした。

 そして、遂には神に「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」(7)と決心させるまでに悪化していきました。「神のかたちに」(1-27)に創造され、「「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(28)と祝福されたアダムとエヴァでしたが、その子孫たちは「人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(6)とあるほどに、神を悲しませる者へと堕落していったのです。
 やがて、その悪の時代は洪水によって滅ぼされ、「全き人」であり、「神とともに歩んだ」(9)ノアと彼の家族だけが箱舟に入り、難を逃れて、罪の一掃された新天新地を受け継ぐ者となりました。彼らは神の警告を信じ、周囲の人々のあざけりにもかかわらず、神に従う義人たちでした。

 イエス様は、世の終わりについて、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」(マタイ24-37)と語られました。確かに今の時代、人々は神の教えを脇に追いやり、人間の欲望の追求に走っています。このような豪雨を神の警告と受け止め、私たちはノアの家族がしたように、「いのちに至る門」(マタイ7-14)である救い主イエス様を信じて救われるよう、周囲の人たちに証しを続けてまいりましょう。


無題 | 21:04:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
イエス様を愛する!
 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32篇1、2節)

 先日、二つの講習会があったので出席しました。一つは非行少年の更正にたずさわっておられる「少年サポートセンター」の指導員の講演でした。子どもたちが健全に育っていくために、家庭、地域、学校などが良き働きをしていますが、それでも悪の道へ迷い込む子どもたちがいます。そういう子たちの補導、更正のために働いておられる方の話には説得力がありました。教会も罪人の救いのために来られたイエス様を紹介し続けなければなりません。

 もう一つは障害者のための防災の講習会でした。豪雨、台風シーズンに入る前に、いかに身を守り、減災するか、皆さん心構えになったのではないでしょうか。聖書に出てくる避難の例としてはソドムに下ったイオウの火から逃れたロトの家族が上げられます。そのとき御使いが告げた、「「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」(創世19-17)は今日の災害においても覚えておくべき警告です。これから幾度か避難情報が流れるようなことがあるでしょうが、まずは、生命を守る行動を第一としましょう。

 先週、私たちはイエス様の「罪の赦し」のメッセージを聴きました。パリサイ人のシモンはイエス様を食事に招待しましたが、その動機はイエス様を試そうとするようなものでした。一方、「罪深い女」(ルカ7-37)と名指しされていた女性はイエス様に出会い、罪を悔い改めた人でした。女性は人々の蔑みの目も気にせず、イエス様の御足に口づけし、持って来た高価な香油を塗りました。女性の行動はイエス様への深い愛と感謝に動機づけられていました。
 その女性に対しイエス様は、「「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」(50)と告げられました。このことはイエス様が罪の赦しを宣言できる神であることを示し、その赦しが罪の悔い改めと救い主への信仰に基づくものであることを明らかにしています。また、女性に、「安心して行きなさい。」とも告げられたのですが、女性はどこへ行ったらいいのでしょうか。

 このように罪を悔い改め、イエス様を信じた人を受け入れ、信仰者として育てていくのが教会です。聖書の教えに基づいて、その人を導き、イエス様に奉仕する者として育てていくのです。私たちの教会もイエス様から、「安心して甘木教会へ行きなさい。」と推薦していただけるよう努めてまいりましょう。


無題 | 08:22:56 | トラックバック(0) | コメント(0)