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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「仕える」生き方!
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ伝20章28節)
 回復を祈りましたY兄が去る2月14日、主のみもとへ召されました。N姉が人吉へ帰省した際、出席していた教会でYご夫妻との出会いがあり、長い歳月を経た後、4年程前、再会に導かれ、それ以来、親しき信仰の交わりをさせていただきました。召される2週間前、病状重きにもかかわらず、訪ねてくださったのは、このような別れを感じてのことではと思うと、感謝が溢れてきます。
 長年、ふすま業を営んでおられた兄は、教会の引き戸の修理をしてくださったり、音楽祭の奉仕のためにS姉をお連れくださったりして、小さな群れを励ましてくださいました。「みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20-26)と語られた主イエス様の御教えとおりに歩み通された兄でした。深い悲しみの中にあるS姉をはじめ、御遺族のため、主の御慰めを祈らせていただきましょう。
 もう一つ、兄の召天は、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」Ⅱテモテ4-7)という御言葉を思い起こさせてくれます。発足に尽力された益城の教会が震災に遭われたとき、兄は単車で教会を見舞われ、翌日、本震を経験されるということもありました。主は歩みを全うされた兄を、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)とお迎えくださったにちがいありません。
 私たちも日々、苦難を経験しながら歩んでいます。祈っても祈っても、暗雲の立ち込めたような状態が続くこともあります。しかしイエス様は、「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16-33)と、私たちを励ましていてくださいます。
 先日、視覚障害者のための老人ホームをお訪ねし、「音楽のプレゼント」をさせていただきました。40名くらいの方々が集ってくださり、共に歌ったり、質問に応えたりして、良き交流を楽しみました。これからも、主イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちもますます周りの人々にお仕えしてまいりましょう。


無題 | 09:14:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
私が弱いときにこそ、私は強い!
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章9節)
 先週の小郡音楽祭では、練習を重ねてきた10名のメンバーで、三曲の賛美コーラスを歌うことができました。急にアカペラになりましたので、ハーモニーに難があったかもしれませんが、賛美歌の中に込められているメッセージを証しすることができました。翌日、1人の御婦人が練習日などを尋ねる電話をしてくれました。御本人は聴かれなかったようですが、誰かから好評を聞いてのことだったのではないでしょうか。次の機会には、共に賛美に加わっていただけるよう、祈って待ちましょう。
 私は、ヨシュアに導かれたイスラエルの民がヨルダン川を渡って、エリコに入って行く場面の、「祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、」(ヨシュア3-15)という言葉が好きです。川は岸いっぱいに溢れていて、渡れそうもなかったのですが、信仰をもって進んだとき、その流れはせき止められ、民は渉ことができました。教会に託されている福音の宣教においても、強いガードによって、門が閉ざされているように見えることがありますが、恐れず、信仰をもって前進するとき、少ないながらも、開かれている門があることに気づきます。
 初代の宣教において、教会が迫害され、ペテロが捕えられたとき、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12-5)という言葉にも励まされます。その熱心な祈りに応え、主は御使いを遣わし、ペテロたちを獄の囚われから解放されたではありませんか。彼らの働きは主御自身の働きだったからです。
 イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28-20)と約束しておられます。パウロも、「御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5-25)と促しています。私たちは高齢であったり、障害があったり、外国人であったり、弱さを負っています。しかし、復活の主が共にいてくださること、聖霊に導かれていることを思うとき、私たちはパウロとともに、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12-10)と告白できます。
 今度はイエス様の復活を記念するイースターに向って、良き集いを準備しましょう。召天された方々の御家族、友人たちもお招きしようではありませんか。私たちは主の御国で、兄姉たちと再会する、すばらしい希望をいただいているのですから。


無題 | 20:19:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
「働ける今」を感謝しましょう!
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ伝5章16節)
 今日、私たちは小郡音楽祭に出演し、3曲の讃美コーラスを歌います。イエス様が、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」(マタイ5-15)と語られたように、私たちがいただいた信仰の宝は教会の中だけに閉じ込めておくべきものではありません。イエス様を信じ、「死からいのちに移った」(Ⅰヨハネ3-14)驚くべき経験は、多くの人たちに証されるべきです。
 いつもピアノ伴奏に来てくださるY姉が、御主人の重篤な病状のために集えません。Yご夫妻を励ますためにも、祈りを込めて讃美させていただきましょう。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5-16)とあるのですから。
 イエス様は、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9-4)と語られましたが、その厳粛な事実を実感します。私たちはいつでも働けるのではありません。いくら働きたくても、働けないときが来るのです。だから、讃美できる今、祈ることのできる今、奉仕できる今を大切にします。「明日しよう」、「来年しよう」ではなく、感謝して今日、神をほめたたえ、イエス様の救いを証しさせていただくのです。
 今月は二つの視覚障害者の集いで「歌のプレゼント」をさせていただくことになっています。イエス様は生まれつきの盲人を癒されるとき、「神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9-3)と語られましたが、今の時代、私たちを用いて、どのような御栄光を現してくださるでしょうか。
 あの癒された盲人は、「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25)と証ししました。イエス様は私たちをも「滅びの穴から、泥沼から、引き上げ」(詩篇40-2)、神をほめたたえて生きる者としてくださいました。その喜びをもって今日、素直に主を讃美させていただきましょう。


無題 | 19:52:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
救いへの「神の招き」
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2章4節)
 先日、知り合いの方々が教会で二十年ぶりの再会を果たすことになりました。長年、会社の同僚として親しくしておられたそうですが、一方の方が失明され、それ以来、お付き合いが途絶えていたそうです。ところが私たちを介して互いの音信が伝わることとなり、今回の涙の再会となりました。この方々が今度は、イエス様のもとへ立ち返ることができるよう祈りましょう。
 先週はイエス様が語られた「ぶどう園の主人の労務者雇用」のたとえ話(マタイ伝20章1~16節)を学びました。過労の問題などから、「働き方改革」が叫ばれている昨今、朝早くから暑さに耐えて働いた人と、就業間際に雇われ、わずか一時間しか働かなかった人に、同じ賃金が支払われたというのですから、誰もが理解に苦しむところです。しかし、この話は世の雇用についてでなく、神の御国建設の働き人の雇用について語られたものであると知れば、神のあわれみと恵みを感謝せざるを得ません。
 朝早くから雇われるとはクリスチャンホームに生まれたような人達、朝9時とは中高生の頃、昼頃とは青壮年期、午後5時頃とは老年期にさしかかってから救われた人たちと解釈できるでしょう。これらいずれの働きにも一デナリの報酬が支払われました。それはイエス様を信じる者に約束されている「罪の赦し」(エペソ1-7)と「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)です。
 そうであるならば、人生の終わり頃、天国へ滑り込んだ方が得だと思う人がいるでしょうか。私は19歳のときイエス様の救いをいただきましたが、「もっと早く聖書を読み、賛美歌を歌い、真の神に祈ることができていたら」と思います。神との親しい交わりの中に生きることは、「なんというしあわせ、なんという楽しさ」(詩篇133-1)でしょうか。教会でイエス様の働きを担わせていただいていることは感謝と喜びでしかありません。
 私たちの周りにも、「だれも雇ってくれないからです。」(マタイ20-7)と嘆きつつ、神の御国の外で佇んでいる人たちがいるはずです。そのような人たちがイエス様の救いをいただいて、神をほめたたえる者とされたら、どんなにすばらしいことでしょうか。喜んで、この尊い神様の招きをお伝えする働きを続けてまいりましょう。


無題 | 19:31:39 | トラックバック(0) | コメント(0)