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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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なぜ、「私が弱いときにこそ、私は強い。」と言えるのか?
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章9節)
 先日、長男からのメールに「審判をしているよ。」と書いてあったので、ネットで調べてみると、大学二部リーグの三塁審判として名前が載っていました。何をしているか心配でしたが、名前を見つけて安心しました。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)とあるように、甘木から巣立っていった若者がイエス様への信仰に堅く立って、成長していけるよう祈り続けましょう。
 先週、私たちは、キリストの力は「弱さのうちに完全に現われる」ということを学びました。その秘訣を会得したパウロは、「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」とまで言い切っています。私たちがスポーツなどで見慣れているのは、勝者が強さを誇っている姿ですが、パウロは、どのようにして、あえて「弱さ」を誇るようになったのでしょうか。
 彼は律法の専門家として、自分の学識を誇っていたときには、イエス様の弟子たちを迫害する者でしたが、復活のイエス様にお遭いし、その光に撃たれ、目が見えなくなるという弱さの中で、始めて、「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3-19)を経験しました。だから彼は、「私が弱いときにこそ、私は強い」(10)と言うことができたのです。
 現代のクリスチャンで、この「弱いときにこそ強い」を実証してくれた人としては作家の三浦綾子さんや、詩画作家の星野富弘さんが良く知られています。三浦さんはカリエスをはじめ、いくつかの難病を患われましたし、星野さんはけがによって、頸から下、すべての身体機能を失いました。その絶望の中で、イエス様を信じ、生まれ変わって、弱さの中に現れる神の愛と力を証しし続けています。
 私たちも病、障害、家族の問題など、弱さを追わされています。しかし、私たちには神への讃美と感謝があります。それは、主イエス様が私たちの罪を負ってくださり、「永遠のいのち」の救いへ招き入れてくださったからです。自分の弱さに目を留めるのでなく、イエス様の十字架と復活の希望に目を留め、「私が弱いときにこそ、私は強い」と告白する人生を歩んでまいりましょう。


無題 | 15:53:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
罪を赦される幸い
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル書10章22節)
 先日、ボランティアの研修で、桂川にある障害福祉事業所「ひなの家」をお訪ねしました。グループホームに住んでいる方々と、送迎を受けて通所している方々がおられ、パン工房と軽作業所で働いていました。中心施設は木のぬくもりを感じる建物で、食器なども陶器、木の器が使われており、思いやりが伝わってきました。
 工房で作られたパンも大変おいしく、また買いに行きたいほどです。B型ですから、軽いとは言えない障害なのですが、適切な指導さえあれば、あのように、しっかり社会に貢献できることを見て、生まれつきの盲人について、「神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9-3)と語られたイエス様のみことばを思い起こしました。
 さて、先週は主の晩餐式をしましたが、その歴史は出エジプトの「過ぎ越し」に辿ることができます。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、鴨居に塗られた子羊の血によって、神の裁きを免れ、約束の地へと旅立ちました。私たちは今、罪なき神の御子イエス様の十字架のご業を信じる信仰によって、罪の奴隷状態から、「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)の救いへと導かれました。
 教会は「歌とトークのプレゼント」のボランティアもしますし、音楽祭で賛美歌コーラスもします。しかし、バプテスマを授けることや、「主の晩餐式」を執り行うことは、主イエス様のみことばに基づく第一の務めです。これらの「定め」を執り行うことによって、私たちは罪の赦しを確信し、今、天の御国への途上にあることを実感するのです。
 人は皆、罪を侵す者ですから、どこかに負い目を感じています。そして、それは人の思いを暗くします。イエス様によって、「あなたの罪は赦された。」(マタイ9-2)と宣言していただくとき、その赦しは神の権威に基づいています。教会でバプテスマを受け、主の晩餐に与る方々が多く起こされるよう祈りつつ、証しを続けてまいりましょう。


無題 | 18:57:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
究極の問題(罪)を解決するお方!
来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(詩篇95篇6節)
 私たち夫婦は健康のためにスロージョッギングをしてきましたが、さすがに今夏の猛暑では出かける気になりませんでした。しかし、涼しくなったので、久しぶりに公園へ行ってみると、驚くなかれ、桜が数輪咲いていました。きっと、一年前の災害で全国から応援をいただいたので、いま被災しておられる皆さんを励ます朝倉市民の気持ちが咲かせたのでしょう。各地で被災しておられる皆さんの日々が守られ、一日も早く、普段の生活を回復されますよう、お祈り申し上げます。
 アメリカの大統領中間選挙が近づき、選挙を妨害するハッカーの攻撃が深刻であると報じられています。それを防ぐために、多額を投じて、選挙システムを一新する州もあるそうです。災害対策に奔走する日本でも、ミサイルを迎撃するシステムが配備されるそうです。これらはみな、人災対策であり、多額の費用を要します。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6-23)とありますが、人間の心に巣くう罪は、人を傷つけ、社会を分断し、世界を破滅へと誘い続けています。
 ヨハネはイエス様を指して、「「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と叫びました。この言葉に、昔も今も変わらない、究極の問題解決が示されています。人間の心から罪を取り除いてくださる救い主がイエス・キリスト様であることを明らかにしているからです。
 2001年9月11日のテロから17年が過ぎました。その後、アフガン、イラク、リビアへとテロリスト征伐の戦争が拡大していきました。数知れないほどの犠牲者を生み続けてきましたが、世界は平和へ向っているでしょうか。私たちは今日、主の晩餐に与り、イエス様の十字架を感謝し、罪の赦し(エペソ1-7)を確認することができます。
 「来たれ。」と神は私たちを主イエス様への礼拝へと招いておられます。神を喜び讃えることは、私たちの力の源泉です。罪と災害の世にあって、イエス様から豊かな「いのち」をいただき、道に迷う人たちに救いの道を証してまいりましょう。


無題 | 20:15:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
神の導きに従って歩み出そう!
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。(詩篇57篇1節)
 台風21号は関西空港の閉鎖をはじめ、各地に甚大な被害をもたらしました。その直後、今度は北海道に大地震があり、全道が停電する事態に陥っています。神のあわれみと助けにより、被災地の都市機能が復旧し、人々の安全が確保されますようお祈り申し上げます。こうした災害を通し、イエス様が語られた、「この天地は滅びます。」(ルカ21-33)という警告を真剣に受け止め、キリストの「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)に至る人たちが起こされるよう祈りましょう。
 先週、私たちは合唱団の皆さんが催された故I姉の「思い出の会」に集い、心安らぐひとときを過ごさせていただきました。また、わたしたちにも聖書朗読、讃美、祈り、メッセージの機会が与えられ、キリストの救いについて証しすることができました。「信仰は聞くことから始まり、」(ローマ10-17)とあります。聴かれた皆さんのたましいの救いのため、お祈りさせていただきましょう。
 さて、私たちは先の礼拝において、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムについて学びました。彼が神の示す地へ出発したのは75歳のときでした。住み慣れた地を離れて、新天地を目ざすには歳をとり過ぎていました。しかし、彼は、それが「神のみこころ」と信じ、従いました。実にシンプルな信仰でした。打算も駆け引きもなく、ただ神の御言葉を聴き、素直に従ったのです。
 同じように出発したという点では、モーセに率いられた出エジプトのイスラエルの民も同様でした。しかし、両者には大きな違いがあります。アブラハムは、「望みえないときに望みを抱いて信じ」(ローマ4-18)とその信仰が称賛されていますが、イスラエルの民はモーセに逆らい、繰り返し不平をつぶやき、その結果、約束の地へ入ることができませんでした。
 このように、信仰をもって進むことと、神のみこころに逆らうこととには大きな違いが生じます。私たちはこの地で、イエス様の教会を立て上げるために召されました。そして今、その働きにたずさわっています。この地に灯された希望の光を輝かせ、不安の時代に生きる人々に、揺るがない人生の土台、イエス・キリストの救いを証してまいりましょう。


無題 | 16:54:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
揺るがない巌に碇を下ろしましょう!
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6章2節)
 先主日にはH姉が久しぶりに来会され、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」Ⅱテモテ4-2)という教えを日々、実践しておられる様子を証してくれました。K姉、V姉も共に礼拝をお捧げすることができました。秋に入り、ますます励まし合って、主の日の礼拝を尊んでまいりましょう。
 今日午後、私たちは故I姉の「思い出の会」に出席し、I姉を支えて来られた「キリスト信仰の希望」を証させていただきます。I姉は、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」(ピリピ1-20)を願っておられたキリスト者です。合唱団の皆さんやご友人たちが、「まことの神」(ヨハネ17-3)を知る機会となるよう祈りましょう。
 パウロによって書かれたローマ書には、キリスト信仰の勝利が高らかに宣言されています。妬みからイエス様を十字架に架けたユダヤ教指導者たち、使徒たちを迫害したローマ皇帝ネロ、それらの苦難に遭いながらも、クリスチャンたちが「圧倒的な勝利者」(ローマ8-37)であったとは、驚くべきことです。
 今の時代、私たちを「キリストの愛から引き離す」(35)誘惑は何出しょうか。地域の行事、部活動、レジャーなどが挙げられるでしょう。事実、このような活動に加わって、主日の礼拝を捧げることは容易なことではありません。協会も、そうした人たちに、別の礼拝の機会を提供する責任があるでしょう。
 今年も大きな震災もありましたし、豪雨、熱波と苦難のときが続いています。このような自然の猛威に怖れるとき、イエス様が語られた、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4-17)という御言葉を心に留めましょう。イエス様の十字架のもとに、すべての人のたましいの安息があるのです。


無題 | 19:54:38 | トラックバック(0) | コメント(0)