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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「失われた人」を捜す愛!
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ伝15章7節)
 次礼拝の後、Mホールにおいて、故I姉の「思い出の会」が開かれます。教会からも8名が参加し、聖書朗読、メッセージ、祝祷などを担当します。主催の合唱団の皆さんと共に、在りし日のI姉を思うとともに、姉を支えたキリスト信仰を証させていただきます。集われる方々の中から、イエス様の救いを求める方が起こされるよう祈りましょう。
 さて、今、「時の人」となっている1人が、山に迷い込んだ弐歳児を救助した78歳のボランティアさんです。行方不明のニュースを聞いて、いたたまれず、大分から駆けつけたとのことです。このニュースから思い起こされたのが、イエス様が語られた、いなくなった一匹の羊を捜し歩いて見い出した羊飼いの例えです。そこには、「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、」(ルカ15-5)とありますが、ボランティアさんの気持ちもそのとおりだったにちがいありません。
 私自身、この例えからのメッセージを聴いて、自分が迷い子であることに気づき、私を救うために来てくださったイエス様を信じ、不安の中から救われました。今でも、自分の道を失って、助けを求めている多くの人がいます。イエス様は、「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(15-4)と、私たちが為すべき務めを示しておられます。
 見い出された童子は家族のもとへ帰りました。健やかに育っていくことでしょう。イエス様に救われた人は教
会へ加えられます。教会は「キリストのからだであり、」(エペソ1-23)イエス様の愛が満ちているところだと言われています。これもまた責任のあることです。イエス様を信じた人は、教会で奉仕することを通して、「神の子ども」(ピリピ2-15)として成長していくのです。
 イエス様は「種蒔きの例え」において、良い地に落ちた種が、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13-8)と教えています。教会がいつも、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、」(ガラテヤ5-22 )などの、聖霊の実を豊かに実らす場であるよう祈り、努めてまいりましょう。


無題 | 17:08:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
赦されている幸い!
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5章17節)
 K教会主催の夏季キャンプに5名で参加させて頂きました。講師のS先生ご夫妻の美しいデュエットの讃美が心に残っています。第一集会では「祈りの交わり」、第二集会では「喜びの信仰生活」が語られました。歌もテーマに合わせて、「この日を喜ぼう」という讃美が歌われました。甘木でも覚えて歌いたいと思います。
 朝、同室の皆さんで「祈りの交わり」ができたことも良き思い出として残っています。また、各教会の讃美も、それぞれに味わい深いコーラスでした。甘木が歌った「恐れることはない」の讃美も皆さんの霊勢を高めるものだったと聞き、感謝しました。これからも讃美を通し、主イエス様の救いのすばらしさを証してまいりましょう。
 クリスチャンの喜びの理由は何でしょうか。パウロはそれを、「罪の赦しを受けている(エペソ1-7)からだと教えています。私たちは振り返ってみれば、多くの失敗、挫折の経験を、容易に思い起こすことができます。その中には、いまさら詫びることもできないようなことも多くあります。いつも、そうした失敗の記憶にさいなまれ続けるとしたら、どうでしょうか。喜びどころか、鬱々として生きなければならないでしょう。
 しかし、イエス様は私たちが受けなければならない罪の罰を身代わりに受け、私たちを罪の呪縛から解放してくださいました。もはや私たちを訴える者はありません。私たちの信仰に基づいて、罪の赦しが宣言されているからです。
 神は主イエス様を信じる全ての人に、「あなたの罪は赦されました。」(マルコ2-5)と罪の赦しを宣言してくださいます。神による罪の赦しこそ、キリスト者の喜びそのものです。ますます、神の子どもとされている者として、感謝の歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 17:21:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
世の腐敗を防ぎましょう!
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ伝15章7節)
 先日、健康福祉館で「真夏の歌プレゼント」をさせていただきました。猛暑の中でしたので、避暑に来ておられた方々もあったのでしょう、多くの皆さんが加わってくださいました。災害の多い時代に、温泉に入り、冷房の効いた広間で音楽を楽しめることは感謝に堪えないことではないでしょうか。十月もまた、幸いなひとときをプレゼントさせていただきましょう。
 私たちはこの季節、73年前、広島、長崎に投下された原爆の悲劇を思い起こします。豪雨や台風は抗しがたい自然災害ですが、「殺してはならない。」(出20-13)と戒められた人間が、互いに殺戮を繰り返していることは、明らかな神への反逆です。それどころか、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13-34)と命じられていることを思い起こすべきです。
 アメリカと北朝鮮との間に紛争が勃発しかねない状況が続いていましたが、急転直下、融和へ向い始めました。ところが今度はアメリカとイランの関係が厳しくなってきています。このような状況の中にあって、私たちは「キリストによる平和」の証人として、堅く立つときです。
 こういうと、ずいぶん難しいことのように聞こえるかもしれませんが、まずは主の日の礼拝を尊び、主イエス様を讃美し、イエス様の御名によって祈ることです。この祈りは必ず聴かれます。なぜなら、私たちは主イエス様を信じることにより、「神との平和」(ローマ5-1)を持っているからです。
 自然災害の猛威や、人間間の争いの根深さを見るとき、無力さに打ちのめされますが、イエス様は、「あなたがたは、地の塩です。」(マタイ5-13)と弟子たちに告げられたではありませんか。キリストの御名による祈りには、世の腐れを防ぐ力があります。大いにこの特権を用いて、神と人にお仕えしてまいりましょう。


無題 | 14:15:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
神に感謝を捧げることは祝福の源です。
善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ書6章9節)
 視覚障害者クリスチャンの全国修養会が福岡で開かれ、参加してきました。アフガニスタンの枯れ地を農地へよみがえらせる働きをしておられるN先生を講師にお迎えし、争い多き地における国際支援についてお話を聞かせていただきました。災害多き時代に、助けを必要としている人々に、どう関わっていくべきかを問われるひとときでした。
 私の担当は夜の「讃美の時間」のリードでしたが、暑い中、全国から集まられた皆さんに「来てよかった!」と思っていただけるよう、いつものようにマラカスを振りながら、思いっきり盛り上がっていただきました。I兄をはじめ、半年間にわたって準備してこられた皆さんの労報われる集いでした。
 また、いくつかの合唱団を主催しておられるM先生が来会され、9月2日の午後、故I姉の「思い出コンサート」を計画中とのことで、教会にも協力依頼がありました。生前、良き関わりのあった方々に集っていただき、姉の生き方の根底にあった聖書の教え、キリスト信仰について知っていただく良き機会です。祈りつつ準備してまいりましょう。
 冒頭に掲げた「善を行なうのに飽いてはいけません。」という御言葉が心に響きます。主イエス様の救いを感謝し、聖名を讃えて礼拝をお捧げすることは明らかな善です。「永遠のいのち」と「主への礼拝」は不可分ですから、聖霊を宿している者は、喜んで主を礼拝します。そのことによって、たましいは神の恵みに満たされるのです。
 ネヘミヤが民に語った「あなたがたの力を主が喜ばれる」(8-10)という言葉は、「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」と訳した方が意味が伝わります。神御自身を喜ぶことが礼拝であり、私たちの力の源です。大いに神を喜ぶ礼拝を捧げてまいりましょう。


無題 | 20:40:45 | トラックバック(0) | コメント(0)