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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「悲しむ者が幸い」とは?
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ書2章13節)
 朝倉市の災害支援に入っていただいた九州キリスト災害支援センターから吉村美穂姉(そぷらの)と野田常喜兄(ピアノ)の支援コンサートの申し出をいただき、月曜に杷木の仮設住宅の集会所、水曜に卑弥呼の湯で「復興支援コンサート」をすることができました。仮設には25名、温泉には60名が集われ、賛美の歌声から力をいただきました。そのときの録音の一部を教会のホームページにアップしましたので、お聴きください。
 一週間足らずの準備期間でしたが、ボランティア仲間の後援もいただき、主催の役目を果たすことができました。冒頭の御言葉に「志を立てさせ」とありますが、一つチャレンジを終えると、次のビジョンが与えられます。今、心に抱かされている思いは、被災の皆さんと共にクリスマスをお祝いすることです。どのような道が開かれるか祈ってみましょう。
 イエス様が語られた御言葉の中には、即座に意味するところがわからないものがあります。その一つが、「悲しむ者は幸いです。」(マタイ5-4)ではないでしょうか。普通、「喜ぶ人」こそが幸せ者だと思っているのに、なぜ、「悲しむ者が幸い」だと語られたのでしょうか。それは、慰めてくれる友を持つ可能性があるからです。
 もし、病気になっても心配してくれる人もなく、直してくれる医者もないとしたら、それは不幸なことです。そのような状況に陥ることがあったとしても、心配し、慰めてくれる家族が、友がいて、回復の手立てを施してくれる医者がいてこそ、「幸いです。」ということができるのです。
 私たちにはその友がいます。私たちの最高の友であり、救い主であるイエス様は、「子よ。あなたの罪は赦されました。」(マルコ2-5)ト私たちの弱さに同情し、生き抜く力を回復してくださる神です。だから、私たちは失敗をしたり、災害に遭ったりしても、「幸いです。」と言うことができるのです。
 私たちの周りにも多くの「悲しむ者」がいます。その人たちが「幸せです!」と言えるためには、私たちの慰めが必要です。イエス様の御言葉が真理であることを証明するため、私たちが「慰める者」とならせていただきましょう。


無題 | 17:13:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたの悩みを共に負ってくださるお方がいます!
イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ伝5章31、32節)

 教会の隣地が分譲地になるということで工事が進められてきましたが、ついに完成したようです。途中、境界線のことや、ブロックの埋め戻しのことでハラハラしましたが、立派な環境に回復していただきました。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩篇127-2)とあるとおりです。近々、18軒の家族が住むようになるそうですが、主の祝福を祈らせていただきましょう。
 最近の痛ましい事件を受けて官房長官が、悩みを持つ人たちが適切なカウンセリングを受けられるよう検討するとの談話を発表しました。華やかな表舞台の蔭に、多くの若者たちが助けを求めて苦悩している現実があります。イエス様はそうした病む人たち、忘れ去られた人たちを「かわいそうに思われた。」(マタイ9-36)とあります。そして、イエス様は同情するだけでなく、その状態から「完全に救う」(ヘブル7-25)ことのできる真の神です。
 私は毎朝、ある受験生にメールを送り続けています。彼にそうした援助が必要だと感じたからです。しばらくぶりに返信があり、「あせっている」と書いてありました。私は「ベストを尽くせばいいよ。」と書きました。ただ、自分の存在を肯定して生きていってほしいと願うだけです。
 また、大刀洗の工場に配属になっていたフィリピンの研修生たちが小郡へいてんすることになったそうです。教会から遠くなりますし、皆ショックを受けています。しかし、彼女たちにも、これを成長の機会にしてほしいです。聖書は、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)と教えています。小郡からでも礼拝に集って来れるような、真の信仰者に育てるよう祈りましょう。
 確かに今の時代は便利な世へと変貌を続けているかに見えますが、いたるところにワナや落とし穴が仕掛けられてもいます。ですから、教会はあらゆる方法で「永遠のいのち」の道を示していく責任を負っています。深い悩みの中におられる方々が、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ1128)と招いておられるイエス様にお会いできるよう、証を続けてまいりましょう。


無題 | 18:47:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
心から「神を讃える」人生へ!
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。(詩篇40篇3節)
 先の朝倉音楽祭では、ジョイフルクワイヤは11名で3曲の讃美コーラスをさせていただきました。「会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」(詩篇22-22)とあるように、多くの皆さんに賛美歌を聴いていただくことができました。イエス様が、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」(マタイ5-15)と語られたように、これからも、教会の内外を問わず、真の神を誉めたたえてまいりましょう。
 旧約聖書の中心的な教えに、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6-5)があります。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ19-18)とも教えられています。これらはいずれも神の戒めであり、良きことにちがいありませんが、すぐに「はい、わかりました。」と言ってできるような容易いことではありません。では、神をお喜ばせする生き方とは、どのようなものでしょうか。
 それは、「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3-16)とあるような、神の愛を信じ、感謝することです。私たちは神をも、人をも愛せない罪人ですが、イエス様は私たちの罪を負って、十字架刑を受けてくださいました。この神の愛にこそ、私たちは救いの希望を置くことができるのです。
 ただイエス様の福音を信じることにより、私たちは、「神の子どもとされる特権」(ヨハネ1-12)をいただきました。その特権とは、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(詩篇23-6)と言えるような、至れり尽くせりの恩恵です。
 私たちの周りには多くの病む人、苦悩する人たちがいます。「神の子ども」とされている私たちは、そうした人たちのために祈る特権をも授かっています。天でとりなしの祈りを続けてくださる主イエス様と共に、失われた魂の救いのために、救いの福音を証してまいりましょう。


無題 | 18:57:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
最初の教会に学ぼう!
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2章42節)

 今、31年前に教会が宣教した地はニュータウンに生まれ変わるための造成工事が進んでいます。時代は変わりましたが、教会だけはこの地に立ち続けています。それは「神のみこころ」(ローマ1-10)によることです。教会(エクレシア)とは「呼び出された者たちの集まり」という意味ですが、主は御計画のままに救われる人を起こし、奉仕する人を教会へと導いておられます。著しい成長を遂げた初代の教会から、その秘訣を学びましょう。
 第一に、彼らは、「使徒たちの教えを堅く守り、」(使徒2-42)とあります。まだ、新約聖書は未完成でしたが、使徒たちは聖霊に満たされて、イエス様の教えを守り、救いの福音を宣べ伝えました。聴いた人々は、「私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)と救いの道を尋ねたのです。
 次に、彼らは「交わりをし、」とあります。会員同士、互いに気遣い合い、助け合っていたのです。その真実な愛をん見た人々が、進んで教会へ加わっていきました。
 そして、彼らは「主の晩餐式」を行い、イエス様の十字架を記念しました。主が全人類の罪を負って、救いの道を開いてくださったことを、教会の教えの中心に据えたからです。
 初代教会の第四の特徴は彼らの「祈り」でした。彼らは教会の働きは聖霊によるものであることを知っていましたから、熱心にその助けを祈り求めました。その結果、救われる人々が起こされ、教会は進展していったのです。
 イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14-6)と語られました。事実、主は教会の「いのち」です。イエス様に信頼し、成長を目ざして進んでまいりましょう。


無題 | 19:12:11 | トラックバック(0) | コメント(0)