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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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どうぞ、御用のために用いてください!
信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10章14節)

 先日、中途失明者の会(双葉会)の音楽発表会があり、教会の4名がコカリナ、フルート、デュエット、讃美コーラスをさせていただきました。視覚障害をお持ちの方々とガイドの方々、合わせて90名くらいが集われていたのではないでしょうか。お二人の方々に福音トラクトを差し上げることもできました。これからも、こうした出会いを大切にして、私たちの賜物や経験が皆さんのお役に立つことを願っています。
 また、過日出演した小郡音楽祭でのジョイフルクワイヤの讃美をフェースブックにアップしたところ、F先生が、「力強い歌声に両手いっぱいの拍手を送ります。我らが主の偉大さがよく表れていて大変うれしくなりました。」という書き込みをしてくれましたし、たくさんの人たちから「いいね!」の反応をいただきました。ビデオ撮影をしてくださったTさんの娘様にも感謝します。
 イエス様は良い畑に蒔かれた種について、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」と語られましたが、私たちの心もまた、イエス様の福音が芽を出す「良き地」であったことを感謝します。そして、イエス様の救いのすばらしさを証する器として、何倍にも増して用いていただきましょう。
 では、どのようにして私たちは実を実らせるキリスト者になれるのでしょうか。パウロは、「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」(エペソ3-17)という表現を用いています。ここで言われている「愛」は「イエス様の十字架の愛」を指しています。イエス様を信じ、礼拝する生活を始めていくとき、私たちは神をお喜ばせし、人に役立つ者へと変えられていくのです。
 パウロは更に、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」エペソ5-16)とも勧めています。神の教えに耳を貸そうとしない「悪い時代」にあっても、私たちはイエス様の福音を土台として、神に栄光を帰す歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 21:31:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
開かれる道最善の道!
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8章28節)
 長男の受験のためにお祈りいただきましたが、とりあえずD大学から合格通知をいただくことができました。皆さんのお祈りを感謝します。25日には第一志望のT大を受験しますので、最善の道に導かれますよう、引き続きお祈りをお願いいたします。
 受験はいつの時代でも、プレッシャーのかかるものですが、私はいつも息子に、「開かれる道最善の道」と伝えてきました。イエス様は、「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7-7)と教えられましたが、それは、たたく全ての門がひらかれるという意味ではありません。その人がどんなに切望する道であっても、結果的にはその人を不幸へと導く道もあり得るのです。そのような場合、私たちを愛しておられる神様はその門を閉ざして、私たちを守ってくださいます。
 今回の受験に際しても、不合格になる学生もいます。しかし、それは「最善の道」を見い出すまでの過程にすぎないことを知ってほしいです。私自身、視力の悪化のために、すべての進路が閉ざされ、考えもしなかった道へと追いやられたように感じていました。しかし、その道で、実に驚くべき神の恵みの数々を経験してくることができました。
 ダビデは、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23-4)と言うことができました。妬まれて、サウル王に終われ、逃亡を続ける日々であっても、彼はいつも、共にいてくださる主から慰めを受けることができたのです。
 先週も小郡音楽祭において、教会は良き讃美をもって、主イエス様のすばらしい救いを証しすることができました。これからも、「あなたの真実は雲にまで及びます。」(詩篇36-5)と告白しつつ、主イエス様に栄光を帰す歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 20:40:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
差別の心から解放されるには?
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ書8章1節)

 先日、健康福祉館で今年最初の「歌のプレゼント」をさせていただきました。今回からT姉も加わられ、7名での「早春のコンサート」でした。「元気をもらいました!」と言ってくださった方、「また四月に来ますね。」と帰られた方、暖かい手拍子で応援してくださった皆さん、ありがとうございました。
 また、今日の午後、ジョイフルクワイヤ(聖歌隊)が小郡音楽祭で二曲の賛美歌コーラスをします。昨年、F先生ご夫妻に紹介いただいた曲を10か月近くかけて練習してきましたが、いよいよ大衆の前で、信仰の証しとして歌わせていただきます。「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(詩篇40-3)とあるように、主イエス様の救いに心を向ける方々が起こされるよう祈りましょう。
 今、アメリカ社会に犯罪を犯す可能性のある人たちを受け入れるか、排斥するかの攻めぎ合いのニュースが、毎日のように報道されています。そして、この問題は私たちの身近なところでも、常にくすぶり続けています。それは「いじめ」や「差別」と呼ばれる類のものでもあります。私たちがそのような愚行からまもられるためには、どのような基準を持つべきでしょうか。
 まず、イエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と招いておられることに心を留めましょう。主は差別なく、すべての人を、しかも「疲れ」、「重荷に押し潰されている」ような人を、あえて招いていてくださるのです。この度量は人には持ち得ないもので、神にのみ属するものです。
 そして、人を赦し、受け入れていく「愛」や「寛容」、「善意」はイエス様を信じる者に与えられる聖霊の賜物です。私たちも生来、罪びとですから、自分が差別されれば怒りますが、案外、平気で人を差別しているものです。つまり、誰もが五十歩百歩の罪人であり、イエス様の救いを必要としているのです。
 私たちは自分の力不足を嘆く必要はありません。聖書は、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1-9)と約束しておられます。主イエス様が十字架の上で私たちの罪を負ってくださったことを信じ、愛の心を持つ者へと生まれ変わらせていただきましょう。


無題 | 17:50:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
「地の塩」としての役目を果たしましょう!
すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。(マタイ15章30節)

 先日、ある視覚障害の方々の集まりに参加してきました。この会は、ある特定の眼の病気で失明した、あるいはその途上にある方々の会で、世界的な団体の地方支部です。集まった方々は15名ほどで、それぞれの生活の障害や工夫を分かち合いました。私は牧師であって、点字で聖書を読むようになり、視覚の障害を克服する大きな力となったことを証しさせていただきました。持参していた教会のトラクトも、皆さん喜んで持ち帰ってくれました。この会にも、主が遣わしてくださっていることを感じました。
 イエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5-31 32)と語られました。また、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5-4)とも。自身満々の心にはイエス様の御言葉は入る余地がありませんが、病や逆境を経験することにより、人は初めて謙遜にされ、進んで神の御言葉に耳を傾けようという気になるのではないでしょうか。
 イエス様は、「あなたがたは、地の塩です。塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。」(マタイ5-13)と語られました。私たちキリスト者は世の腐れを防ぐ塩として、それぞれの場に置かれています。塩の価値は隠し味となって、料理の味を引き立てる役目です。
 今週は卑弥呼の湯、小郡音楽祭でキリスト者の味を発揮する機会が備えられています。イエス様のメッセージを語るわけではありませんが、もし私たちがしっかりと「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)に結びついていれば、私たちの中にある、「愛、喜び、平安」(ガラテヤ5-22)といった聖霊の実が聴く人たちに、イエス様を信じる者の希望のメッセージを届けてくれるはずです。
 過日、長年、神学校の校長として御奉仕されたA牧師が、「走るべき道のりを走り終え、」(Ⅱテモテ4-7)天へ凱旋されました。私たちにはまだ、走るべき道のり」が残されています。しっかりとキリスト者としての味を保ち、主イエス様の救いを証してまいりましょう。


無題 | 17:04:40 | トラックバック(0) | コメント(0)