FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

02 | 2016/03 | 04
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

イースター(復活祭)の希望について
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、"
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、(第一コリント15章42、43節)

 去る一週間、私たちはキリストの十字架の苦難を追想しつつ、受難週(passion week)を過ごしてきました。弟子たちを深く愛された主イエス様は何度も、「父よ。お願いします。」(ヨハネ17-24)と父なる神に彼らの守りを祈られました。しかし、最も忠誠を誓っていたペテロまでが、「そんな人は知らない。」(マタイ26-72)とイエス様を裏切ってしまったのです。妬みにかられた宗教家たちに煽動された群衆は、「十字架につけろ。」(マタイ27-22)と叫び続け、ついに主は十字架上で、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23-46)と言って、息を引き取られました。
 弟子となっていたヨセフはイエス様の御からだの引き渡しを願い、用意した墓に丁重に葬りました。人の活動や影響力は、この死をもって終わるのが普通です。しかし、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11-25)と預言されたイエス様にとって、それは御自身が救い主としての栄光を現わすときでした。
 女弟子たちが墓に行ってみたところ、墓は空っぽであり、天使たちが、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ伝24-5 6)という驚くべきニュースを告げたのです。皆さん、このイースターの朝、主イエス様の死を打ち破ってのふっかつと、私たち信じる者が持つ「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)の希望を共に喜びましょう。
 イエス様の弟子であることを否認してしまった意気地なしのペテロを大胆な福音の説教者に変えたのは、彼らの真ん中に立たれ、「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20-19)と語りかけられた復活のイエス様でした。落胆して部屋に閉じこもっていた弟子たちは、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2-32)と説教し、世界宣教へと出て行ったのです。
 これから私たちは病を経験し、弱くなって、やがて土に返っていきます。しかし、復活のイエス様を信じる者は皆、やがて主と同じ栄光のからだによみがえることが約束されています。このすばらしい希望の故に、心から主イエス様の御復活を賛美しましょう。


無題 | 16:14:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
なぜ、今週は「受難週」と呼ばれるのでしょうか?
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53章5節)

 先週の礼拝にスイス人のN兄が礼拝に集われました。九大で物理学の研究をしておられます。200名くらいが集っておられるジュネーブの教会で青年会のお世話もしておられたそうです。続いて集われ、良き信仰の交わりをいただければ幸いです。
 午後には故K姉の記念会が持たれ、まもなくイースターに祝われようとしている「キリストの復活」が、信じる者に天国の希望を約束していてくれることを、ご遺族の皆様にお伝えしました。故人が生前、視覚障害者のために朗読された童話や民話をI兄がCDにしてくださったので、その一つを式の中で流しましたが、その生き生きとした朗読ぶりにクリスチャンの香を感じました。生前の御奉仕が回り回って、深い悲しみの中にあるご遺族を慰めるものとなってくれることでしょう。
 今日、私たちは二千年前、イエス様がロバの子に乗り、「ホサナホサナ!」の歓声に迎えられてエルサレムに入場したことを記念し、「棕櫚の日曜日」の礼拝をお捧げします。しかし、その後、歓声は一転して、「十字架につけろ。」(マタイ27-22)の怒号と変わり、イエス様は捕えられ、不当な裁判によって十字架刑に処せられていきました。
 私たちは今週、イエス様が耐えて行かれた受難を追想しつつ、祈りの週を過ごします。二千年前、イエス様が十字架の上で祈られた、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34)という祈りは、この混乱の時代のためにも、今なお祈り続けられています。核戦争にもなりかねない朝鮮半島情勢、百万以上の難民を生み出し続けている中東の戦乱、テロの頻発、それらは人間にとって痛ましい悲劇であると共に、どれほど神を悲しませ続けていることでしょうか。
 そんな罪の増し加わる時代に立たされている私たちクリスチャンのためにイエス様は、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17-15)と父なる神にとりなしの祈りを捧げ続けていてくださいます。この神の愛に気づき、イエス様の十字架のもとに立ち返る人たちが起こされますよう、主の十字架の救いの道を証してまいりましょう。


無題 | 13:33:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
小さな奉仕が大きな実りと成る!

神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。(使徒3章15節)
 先日、日本FEBCというラジオ伝道の団体から電話があり、番組で甘木教会を紹介してくださるという提案をいただきました。それは毎夜、結構長時間放送されているキリスト教番組で、私たちも何度か聴いたことがあります。「田舎の小さな教会で」と言いますと、「今回特に、そのような開拓途上の教会を紹介したい」とのことでした。これもまた、開拓30周年記念の恵みの一つかと思い、4月7日(木)に取材していただくことになりました。
 でも、どうして私たちの教会に白羽の矢が立ったのだろうと不思議に思ったのですが、どうやらホームページやフェースブックを見られたようです。毎週、メッセージや賛美をアップしていますが、「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55-11)とあるように、それらは虚しく消え去ってしまうことなく、誰かの心に働きかけ続けていたのです。その結果、今回のような取材依頼に繋がったというわけです。
 最近、アインシュタインが予言した重力波が検出されたというニュースが流れ、世紀の大発見かのように話題になっています。何億光年も昔の天体の衝突の波紋が今検知されたというのですから、全く不思議な世界です。私には想像もできない分野のことですが、このことを通して、主を賛美したり、祈ったり、教会案内を配ったりすることの価値に気づくことができました。すぐ反応が聞けなかったとしても落胆する必要はないのです。必ず良い結果を見るときがくると信じることができます。
 今日の午後、イースターを前に、故K姉の記念会をします。これもまた故人が御主人に言い残された「私はクリスチャンです。」という一言が、ご遺族に慰めと希望を与え続けている実例の一つではないでしょうか。
 パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1-21)と語りましたが、私たちも残された貴重な日々、主イエス様のために何をしていくことができるでしょうか。日々、神の栄光を賛美し、みこころを祈り、主イエス様の救いを証する者として歩ませていただきましょう。


無題 | 16:59:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
貧困の真の解決者は?

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ伝25章40節)

 先日、ヴォランティアの集まりで「こどもの貧困」や「こども食堂」という話題が出ました。すると、年配の方が、「私たちの子どもの頃は、皆が貧困だった。今、者が溢れかえっている時代に、なぜ貧困が問題になるのかわからない。」と言われました。でも実際、給食だけで養われている子どもたちが相当数いることは事実のようです。
 そこで、私はフランスで賞味期限の切れた食品を廃棄することが法律で禁止されたというニュースの話をしました。年間800万トンもの食用可能な食品が廃棄されている日本で、栄養失調の子供たちが増えているなどという事態が放置されていてはなりません。このような事態が進むとすれば、人間の作っている社会の仕組みが、神の養いを妨害していると言わざるを得ないでしょう。
 また、他の方は、「自分のことで精いっぱいで、子どもたちの状況にまで気を回していられないような親が増えているんですよ。」と言われました。箴言に、「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(15-17)とあるように、人が健全な生活を営んでいくために、愛は極めて大切です。イエス様は、「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9-36)とあるように、人々の貧困に深い同情を寄せられました。
 そして今も天にあって私たちのために、「わたしは彼らのためにお願いします。」(ヨハネ17-9)と父なる神にとりなしの祈りを続けてくださっています。事実、私たちはこの祈りによって滅びから救われ、日々守られているのです。
 私たちは静まって思いみるとき、「あそこに者の欠乏で苦しんでいる人がいる。」、「こちらに慰めや励ましを必要とする人がいる。」と気づきます。そして、その人たちのために神の御介入を祈り、自分たちのできる助けをするのです。イエス様は御自身のいのちを捧げるほどの愛をもって、魂の貧困と飢餓の中にある人たちを救わんと招いておられます。この救い主を多くの人々に証してまいりましょう。


無題 | 15:00:46 | トラックバック(0) | コメント(0)