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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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あなたに寄り添って歩んでくださるお方がおられます!

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ伝16章33節)

 先日、中途失明者の会が音楽発表会を催されたので、Iご夫妻と共に参加してきました。結果的には、プログラムの半分は私たちの歌と演奏だったのですが、アンコールもあったし、「パワーをもらいました!」という感想も聞くことができました。イエス様が、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」(マタイ5-15)と語られましたが、人生の挫折を経験し、再起のために奮闘しておられる方々に希望のメッセージをお届けできたとすれば幸いです。また、ボンと花火を上げて終わりではなく、これを機に、皆さんと打ち解けた関わりをもっていけるようになれたらとも願わされました。
 今、私たちは「大祭司の祈り」と呼ばれている主イエス様の祈りを学んでいます。イエス様の信徒とされている私たちも、二千年前、主が祈られた弟子たちの中に含まれていたことを知るとき、ヨハネ伝17章の主の祈りは今もなお、イエス様が天において、私たちのために祈り続けていてくださるものであることに気づきます。
 たとえば、「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。」(9)という部分の「彼ら」とは、今イエス様の信徒とされている私であり、あなたでもあるのです。これほど確かな守護神がいつも見守っていてくださるのですから、私たちは勇気百倍ではないでしょうか。
 イエス様はこの祈りの前に弟子たちに、「あなたがたは、世にあっては患難があります。」と告げられました。クリスチャン生活とはルンルンで進む時ばかりでなく、多くの試練と闘い続けるものであることを予め教えてくださったのです。
 私たちは病気をしたり、災害に遭ったり、辛い別れを経験したりします。今まさに、そのような苦難の中にある人もあるでしょう。主イエス様はいつも、そのような人の傍らに寄り添い、「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と私たちを力づけていてくださるのです。


無題 | 20:52:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
私たちの口に授かった「新しい歌」

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33章1節)

 11日に開かれた北九州BBCの献堂式にガイドさんを含む6名で集わせていただきました。庭に下りたってみると駐車スペースは広く、会堂に脚を踏み入れれば天井も高く、椅子も50脚は祐に並ぶほどでした。その建物は20年前に建てられ、使用されないまま、今回、主イエス様を礼拝する会堂として用いられる日を待っていたのだそうです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道3-11)という御言葉が、お祝いに集われたすべての兄姉の心に浮かんだのではないでしょうか。多くの人々が新会堂に導かれ、主イエス様の「永遠のいのち」の救いに与りますよう、お祈りさせていただきましょう。
 また、先週は教会のジョイフルクワイヤが「ハーモニー イン おごおり」のコンサートに出演し、三曲の賛美をコーラスし、集われていた方々に、イエス様の救いのすばらしさを証しました。体調のすぐれない中、喜んで奉仕してくださったY兄姉、ありがとうございました。
 詩篇に、「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、」(2)とあるように、神は助けを求めてもがいていた私たちを見い出し、イエス様を信じる「永遠のいのち」の道へと導いてくださいました。つまり、「巌の上」とは、イエス様の十字架と復活の福音を土台とする人生を指します。
 更に、「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。」(3)と続きます。かつて私たちの口は、「のろいと苦さで満ちている。」(ローマ3-14)とあるようなものでしたが、イエス様を信じたときから、「讃美」という新しい歌が湧き出るようになったのです。
 このように、讃美歌は神からの賜りものですから、神様の御用のために大いに用いていただきましょう。その結果が、「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(3)と約束されているのもまた、驚きではありませんか。


無題 | 08:44:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
バレンタインデイは「神の愛を知る」日です!

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4章9節)
 先日、今年最初の対外「歌のプレゼント」を健康福祉館でさせていただきました。終わりのご挨拶をした後で、担当の方が、「いつも心がホッとするようなステージを、ありがとうございます!」と締めてくださいました。参加された皆さんの気持ちを代弁してくださった言葉のようで、嬉しかったです。テロが繰り返され、ミサイルが発射されるような争いの多い時代に、「平和をつくる者」としての奉仕が与えられていることを感謝します。
 今日はまた昨年に引き続き、「ハーモニー イン おごおり」で三曲の賛美コーラスをさせていただきます。たくさんの合唱が歌われるなかで、イエス様の救いの喜びを証するコーラスが流れることは、大きなインパクトがあるのではないでしょうか。讃美歌という最高のキリスト教文化遺産を用いて、今年も多くの機会に主イエス様の「永遠のいのち」の救いを証してまいりましょう。
 先週のS先生ご夫妻の宣教報告も感謝します。広大な東アジアに住む大勢の人々が、「純粋な、みことばの乳」(Ⅰペテロ2-2)を渇望している実態について知ることができました。私たちは当地へ赴くことはできませんが、後方より、聖霊の導きをお祈りさせていただきましょう。
 ところで、今日はバレンタインデイということで、チョコレートをもらえるか、もらえないかと一喜一憂した若者も多かったのではないでしょうか。しかし、それ以上に大きく、大切な愛を知らなければなりません。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3-16)とある、「神の愛」についてです。私たちは神に背を向け、不遜なふるまいをしていた者でしたが、神はそんな私たちを忍耐をもって、キリストの救いへと招き続けてくださいました。「ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4-10)とあるとおりです。
 もし今日、異性からプレゼントをもらえなかった人があるならば、神は特にその人に向って、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-4)と語りかけておられます。また、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、」(イザヤ54-10)とも。この特別な日を、感謝をもって「神の愛」を信じ、受け入れる日としましょう。


無題 | 21:47:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
人は神を知ることができます!

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ書10章17節)

 昨年12月3日にくも膜下出血を発症した後、入院し治療を続けてまいりましたE姉(N姉の母)は、去る1月31日正午、家族に見守られる中、90歳の生涯を歩み通し、逝去されました。N姉の証しにより、主イエス様への信仰告白に導かれていた義母と共に賛美し、聖書を読み、祈りを捧げる10数年が与えられたことを感謝します。「ひたすらに家族に仕えし母去りぬ 主イエスに救われ天に安かれ」
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-4)とあるように、神は全ての人をいつくしみ、祝福しようとしておられます。しかし、その神の愛のまなざしに気づかない人の何と多いことでしょうか。救い主イエス様についても、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(ヨハネ1-10)とあるように、多くの人々が神の救いの御計画に気づこうとしていません。これは世界の創造主に対する無礼千万な態度です。
 主イエス様は、「父は、すべてにまさって偉大です。」(ヨハネ10-29)と父なる神に栄光を帰し、常に「天にいます私たちの父よ。」と祈るよう教えられました。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)とあるように、神を畏れ敬う信仰の姿勢こそ、真に人間にふさわしいものです。
 イエス様は人の前には「いのちに至る門」と「滅びに至る門」の二つの選択肢があることを教えられました。そして、残念なことに、前者を見いだす者はまれです。(マタイ7-14)とも。では、何が不足していて、多くの人々が「滅びに至る門」から入って言ってしまうのでしょうか。
 それは、いのちの道を歩んでいるクリスチャンを見たり、イエス様の福音を聞く機会が少ないからです。私たちがイエス様に倣った生き方をしていくとき、私たちも「いのちに至る門」を指し示す良きモデルになることができます。周囲の人たちの良き信仰者のモデルとなれるよう、日々、聖書の御言葉に養われ、祈りの生活を深めてまいりましょう。



無題 | 17:56:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
聖霊は誰を、どのように助けるのでしょうか?

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ書5章25節)

 数十年に一度の寒波が来るとの予報がされていましたが、まさにそのとおり、大雪になりました。大牟田をはじめ、広い地域が断水になっているとのこと、復旧作業に当たっておられる方々の作業が守られ、早く通常の生活が回復されますようお祈り申し上げます。
 そんなわけで、先週の礼拝にはお近くにお住まいのI兄姉だけが集われ、16年半前、私たちが甘木へ遣わされてきたときのメンバーで礼拝をお捧げしました。ちょうど新しい点字の聖歌やマイクとスピーカーの装置が届いていましたので、試しつつ、集えなかった皆さんのため、とりなしの祈りを捧げさせていただきました。音響装置まで備えられたということは、礼拝堂に入りきれないほどの人が集うようになるということではないかと、期待が膨らみます。
 イエス様は十字架に向われる前、弟子たちに、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」(ヨハネ16-7)と語られました。イエス様に見い出され、声を掛けられ、弟子となった彼らにとって、師が去って行くということは、深い悲しみであり、喪失でしかないように思われました。しかし、主はそれが「益」になると告げられたのです。
 その理由は、「行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」とあるように、イエス様を信じる者には聖霊なる神の助けが与えられるようになるからです。更に、「あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(13)とも約束されました。絶望でしかないと見える事態の中から、新しい希望の夜明けが始まることを予言されたのです。
 今、イエス様を信じる私たちにも、聖霊なる神が共に住んでくださり、私たちが神を知ることができるように助け、祈りを導いてくださいます。主が弟子たちに、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネ14-18)と約束されたとおりです。共にいてくださる聖霊の導きをいただきつつ、残されたこの地上での務めを勇敢に果たしてまいりましょう。


無題 | 15:16:20 | トラックバック(0) | コメント(0)