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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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やみの中を歩んでいた人生が「光」に変えられます!

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ書9章6節)

 先日、福岡県の盲信徒会のクリスマスの集いがあり、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」(イザヤ9-2)から、「光の子どもらしく歩みなさい。」というメッセージを取り次がせていただきました。そこに集われた兄姉は、それぞれの経緯で失明を経験したのですが、幸いにも、イエス様の救いに与り、霊の眼を開かれました。しかし、依然として、やみの中に座し続けている失明者が多くあることを知っています。そのような方々にも、イエス様の救いが及びますよう、証人の責任を果たさせていただきましょう。
 また、その帰途には、バスで隣席した御婦人から御主人様の10年に及ぶ闘病について聴かせていただくこととなりました。企業戦士として、寝る間もなく働き通していた結果、発症した難病だそうです。まだまだ御苦労の日々が続くであろうことを想い、私の救いの経験を証させていただきました。主が難病と闘っておられる御夫妻をあわれみ、あのような出会いを備えてくださったのでしょう。

 さて、今日から教会はクリスマスに備えるアドベント(待降節)に入ります。苦しみの中にあった民に向かって、紀元前8世紀の預言者イザヤは、「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と救い主のお生まれを預言しました。今の時代でも、「死の陰の地に住んで」いるような人たちが多くあります。病、貧困、災害、差別、戦争など、人々を苦境に陥らせるような出来事はますばかりのように見えます。そのような時代にあればこそ、「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1-9)なる救い主イエス・キリストのクリスマスは正に、「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6-2)なのです。
 テロや侵略に関するニュースを聞かない日のない昨今、時代がどんなに悪い方に進んでいくのか恐れを感じます。しかし、クリスマスのメッセージが、「こわがることはない。」(ルカ1-13)という御使いの挨拶から始まっていることを思い起こすとき、私たちは平安と希望を取り戻します。この良きときを用いて、多くの人々に、クリスマスの恵みを証させていただきましょう。


無題 | 21:50:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
憎しみは破壊するが、愛は救う!

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ伝5章9節)

 対岸の火事と思っていられないような凄惨な出来事が頻発しています。そして、更なる脅しも発せられているとのことです。アメリカでの9、11事件から始まった「テロとの戦い」は14年を経ても、なお激しさを増すばかりです。今繰り返されているような報復の連鎖では、テロの温床を断つことはできないと気づきつつも、延々とそれが続いていくような気配です。

 そんな時代に、強く響いてくるのは、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13-34)という、二千年前に語られたキリストの御言葉です。「愛は神から出ているのです。」(Ⅰヨハネ4-7)ともあります。そして、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」(ヨハネ3-16)、私たち一人一人を愛していてくださいます。 この自爆テロだ、空爆だといっている時代に、「神の愛」を説くなどの生ぬるいことが「何の役に立つか」と言う人がいるかもしれません。しかし、聖書はそのような人に、「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3-18)と教えています。平和な世界を望むならば、人はまず、「神との平和」(ローマ5-1)求めるところから始めていかなければなりません。

 イエス・キリストを救い主として信じ、罪赦されて、「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6-9)と真の神に祈れることは、何にも増して幸いなことです。先が見えないような事態に立ち至ることがあっても、イエス様の十字架と復活に信頼して祈っていると、どちらへ進んだらよいかが見えてきます。
 とは言っても、イエス様ご自身が、「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16-33)と告げられたように、私たちの人生は決して容易いものではありません。だからこそ、私たちが集い合って、共に神の助けを祈り合えるように、主は教会を立てていてくださるのです。ですから、私たちは主の礼拝に集い、霊の力をいただきながら、主が備えていてくださる御国への歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 15:49:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
キリスト教葬の慰めと希望

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(第二コリント5章1節)

 先主日(8日)の朝、「クリスチャンであった母の葬儀をしていただけませんか?」との問い合わせの電話をいただきました。お越しいただき、お話をうかがうと、故AK様は中学生の頃、イエス様への信仰に導かれ、バプテスト教会でバプテスマを受けた方だったとのことでした。お引き受けし、準備を始めていくと、その方は視覚障害者のための朗読グループの中心的な働きをしておられたK様であることがわかり、なんとか深い悲しみの中におられるであろうご遺族の「慰めになるような葬儀をさせていただきたい。」という思いがこみ上げてきました。
 9日午後に御自宅で納棺式、夜、前夜式、そして故人の誕生日である10日に葬儀を持たせていただきましたが、合わせて500名以上の方々が御会葬くださり、それぞれが良き思い出を胸に、主のみもとに召されて行ったA様をお見送りさせていただきました。突然の発病から9カ月、治ることだけを信じて看病を続けてこられたご遺族の悲しみは深いですが、イエス様が語られた、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11-25)という御言葉が、弱りがちな心を強めてくれることを願います。
 聖書は、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道3-1 2)と教えています。私たちは限られた時の中で神を求めることや、人に出会い、家庭を築き、社会で働くことなどが許されています。その時は永遠に続くかのように思えるときもあるし、過ぎ去ってしまえば、あっという間であったようにも思えます。
 A様は、「走るべき道のりを走り終え」(Ⅱテモテ4-7)、イエス様が備えたもうておられる天の御国へと召されてまいりました。私たちはといえば、まだこの世に置かれており、果たすべき務めを委ねられています。主の約束の御言葉に励まされ、日々、キリストの愛を実践する者としての歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 15:53:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
自分の死に正しく備えましょう!
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(第二コリント5章10節)

 先日、朝倉音楽祭が開かれ、、ジョイフルクワイヤが4曲の讃美歌コーラスで出演しました。終わってから、連合文化会の事務局長さんから、「今年も、良いコーラスを、ありがとうございました。」と声を掛けていただきました。応援参加してくださった山下姉の心地よいピアノ伴奏に会わせ、イエス様の救いのすばらしさを、コンサートに集われた多くの方々に証することができました。そのときの賛美を教会のHPでお聴きいただけますので、アクセスしてみてください。
 その翌日ボード先生から、長島恵みバプテスト教会の岸本正也牧師が主のみもとに召されたという、信じがたいような知らせをいただきました。高校で書道の教師をしておられた先生がイエス様の救いに与り、その後、御夫妻そろって主に献身され、多くの方々をキリストに導いてこられたと聞きました。更に、その中から宣教師、牧師、伝道師となられた先生がたも多くおられます。そのような大きな働きを続けてこられた先生を、突然天に送ることとなったご遺族の皆様、ならびに御教会の上に、主の御慰めが豊かにありますようお祈り申し上げます。

 先日、「バイブルの集い」に集われたSさんが死について質問されました。そのとき私は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9-27)という御言葉を開き、やがて、この世でどう生きたかを問われるときが来ることをお伝えしました。そして、その日のために備えなければならない最も大切なことは、私たちを天の御国へと導いてくださるイエス・キリスト様を、救い主として信じることであることも
 誰もが、いつか死ぬであろうことを知っています。しかし、それが「いつ」であるかはわかりません。そして、その日への備えをおろそかにしています。病を免れ、災害を逃れても、人は遅かれ早かれ、この世の人生を閉じて、やがて、「大きな白い御座」(黙示20-11)とある、神のさばきの座に立つことになるのです。
 音楽祭では、日ごろから練習してこられた多くの立派なコーラスを聴かせていただきました。しかし、ジョイフルクワイヤだけが、天国の希望を、救われた喜びに溢れて歌っていました。これからクリスマスに向って、ますます、イエス様のくださる「永遠のいのち」の救いを証してまいりましょう。


無題 | 18:53:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
弱さのうちに現わされる「栄光」とは?

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章9節)

 先日、術後のI姉をお見舞いすることができました。そのときの印象を、「手術にて病みし臓腑を除かれて 末永く生きん 主の御名讃えつ」という短歌にしてみました。これから、更なる闘いが始まっていくかもしれませんが、主は、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5-10)との御言葉をくださっていますから、祈りをもって、和子姉を支えてまいりましょう。

 今、私たちはヨハネ伝13章を学んでいますが、ユダが主を裏切って出て行った後、イエス様が、「今こそ人の子は栄光を受けました。」(31)と語られた御言葉が、どういう意味であるか考えさせられました。普通、裏切られたり、苦難に遭遇することは失望であり、決して栄光とは受け止めないからです。しかし、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2-24)とあるように、主の受難によって、今、私たちが罪から救われ、神を誉め讃える者とされている恵みに気づくとき、なぜ主があの場面で、「今こそ人の子は栄光を受けました。」と語ってくださったかが解るような気がします。

 私たちは健康であることが栄光、病むことは敗北、出世することは栄光、失業は敗北というように、物事をとかく紋切り型に受け止めがちです。
 しかし、実際には、病や障害を負いつつ、懸命に生きておられる方々から勇気をもらったり、励まされたりすることが多くあります。ましてや、逆境の中にあっても、主の約束の御言葉に信頼して、ひたむきに前進している人の中に、「神の栄光」は大きく現わされているのではないでしょうか。

 今日、ジョイフルクワイヤは朝倉音楽祭で、私たちの身にも起こった主イエス様の救いのすばらしさを、4曲の賛美をもって証させていただきます。そこに歌われている内容は架空のことではなく、いずれも私たちが身をもって経験したことです。私たちの上に神の栄光が現わされたように、私たちの証の賛美を聴く人たちの上にも、神の栄光が現わされますよう、心を込めて主への賛美のコーラスをさせていただきましょう。


無題 | 18:58:44 | トラックバック(0) | コメント(0)