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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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恐れから私たちを解放してくれる御言葉!

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27篇3節)

 風薫る五月の午後、美奈宜の杜で、地元のバンド「音づくり」と共に、「そよ風コンサート」をすることができました。演奏者も含め41名が参加し、音楽を仲立ちに、新しい出会い、なつかしい再開のひとときとなりました。神を誉め讃える私たちの姿を通しても、主が聴かれたお一人一人の心に、大切なメッセージを語りかけてくださったことと信じます。当日のジョイフルクワイヤの賛美はホームページでお聴きいただけます。
 一つの計画が祝福の中に終わったところで、次の企画が動き出しています。例年、秋に行われる「住民福祉ボランティアの集い」で、「歌とトークのプレゼント」を続けている私たち「ヘブンリー・ドロップス」が時間をいただけそうなのです。私は今、このときを自分たちだけの活動の紹介というよりも、福祉のハートを持つ人たちが手を取り合う機会にできたらと願っています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-4)という御言葉は、福祉の集いにピッタリなテーマ聖句ではないでしょうか。
 イエス様は「良い牧者」(ヨハネ10-11)の例えで、「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。」(4)と、御自身が私たちのリーダーであることを教えておられます。導きに従って、この奉仕にもたずさわってみましょう。何か新しい出会いがあり、主を証する機会が与えられるかもしれません。
 何事でもしようとするとき、抵抗勢力が現れたり、恐れが生じたりします。そんなとき、先週学んだダビデの冒頭の詩篇の一節を暗唱して、励ましをいただきましょう。「私の心は恐れない。」、「私は動じない。」と告白するとき、確かに私たちは聖霊の強めをいただくことができます。
 私たちは滅ぶるばかりの者でしたが、イエス様を信じ、神と共に歩む「永遠のいのち」(Ⅰヨハネ1-2)を授かりました。この「いのち」を求めている人たちが、他にもいるはずです。これからも、主に導かれて、そのような方々に出会い、イエス様を紹介する務めを果たさせていただきましょう。


無題 | 18:24:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
明日に期待し、挑戦の一歩を踏み出しましょう!

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、(ピリピ書3章13節)

 二月に視覚障害者の人たちが大堀公園で走っているという話を聞き、「私も走ってみたい!」と思わされました。すると、私たちのためであるかのように、甘木公園にコースが整備され、今も超スローのジョッギングを楽しんできたところです。ジョッグを始めると一人の方が近づいて来られ、あれこれ話が始まりました。教会の近所の方々も知っておられたので、「そこにある教会の者です。」とお伝えしました。今度行くときは、どんな人にお会いできるか楽しみです。
 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、」(ピリピ2-13)とありますが、「走ってみたい」と思った日から、わずか三カ月後にそれが実現されているとは、このことを通しても「主のすばらしさ」(詩篇34-8)を誉め讃えています。
 とは言うものの、物事が思うように進んでいくことは、そう多くはないのです。「神様の導きかな?」と思って進んでみても、道が開けていかないこともあるのです。そんなとき、私たちは難儀をしている人たちのことを想い起こすべきです。今も戦乱のイラクやシリアから1600万人もの人たちが難民となって逃げまどっていると聞きます。その人たちも私たちと同じ人間です。私たちだけの願いがスイスイと叶えられては、そのような方々に申し訳ないではありませんか。
 イエス様は常に、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている」(ヨハネ10-15)と語られ、御自身の権威の拠り所が父なる神様との一体性にあることを証されました。私たちもイエス様を「救い主」と告白し、罪赦されて、「神のこども」とされていることを喜ぶだけで十分なはずです。私たちの内に主イエス様の御霊が住んでいてくださるとは、なんという光栄でしょうか。
 私たちは次に、月末に開かれる朝倉祭のステージイベントの準備を始めています。今回は手話コーラスとのコラボです。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28-19)と命じられました。これからも、私たちの内におられる聖霊の導きに期待しつつ、前へ向かって、信仰の歩みを進めてまいりましょう。


無題 | 15:09:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
「神様のすばらしさ」は、どう表現できるでしょうか?
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
(詩篇100篇3節)

 最近、障害者スポーツの話題を耳にすることが多くあり、私も何か初めてみたいと思っていたところ、朝倉市合併10周年記念の「スロージョッギング」があるというので参加してみました。甘木公園の池の周囲に一周650メートルほどのジョッギングコースが整備され、噴水の涼やかな音を聞きながら、心地よい走りを体験してきました。市民に運動を奨励して、医療費を削減するのは、実に賢い施策ではないでしょうか。良い趣味を見つけたようで喜んでいます。
 その午後、劇団の主催者を講師に迎えてのコミュニケーションに関する講習会があったので、これにも参加してみました。閉じた聖書からは神様のメッセージは聞こえてきません。しかし、信仰に生きている人は神様を証できます。そして更に、伝える技術が磨かれれば、より聴く人の心は開かれ、メッセージが心に沁みこむはずです。そうした点からも、演劇の手法をかじってみたいと思い、参加してみました。
 三人一組で五七五を出し合い、川柳を造ってみるのも面白かったですが、他のグループが、それを寸劇で表現してみたところ、驚くような展開があり、おかしいやら、感心するやらでした。他者との合作を現わす「コラボ」という言葉を耳にすることが多くなっていますが、確かに参加者全員が響き合うと、そこでしか味わえないすばらしいハーモニーが生まれるものです。
 詩篇は繰り返し「主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。」(103-22)と神への讃美を促しています。しかし、カラオケやコーラスで歌う人は多いですが、ほとんどの人が「神をほめたたえる」ことを知りません。そこで、私たちが「讃美コーラス」の喜びをお見せする必要があります。さっそく、木曜の「そよ風コンサート」は良い機会です。
 ルデヤという女性が救われたとき、「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」(使徒16-14)とあります。このコンサートにおいても、主イエス様が讃美の歌を聴く人たちの心を開き、神様を知ろうとする方々を起こしてくださるよう祈りましょう。


無題 | 20:51:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
母を強くするもの!

あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言23章25節)

 GWの一日、息子がレギュラーで出ていることもあり、思い切って佐賀県の小城市まで高校野球の応援に出かけてきました。監督が代わったせいか、チームの活気が増したようで、ついには、劇的な逆転さよなら勝ちをしてしまいました。故障者続出で暗いムードが漂っていたのですが、この勝利で夏の大会に弾みがつくことでしょう。五月晴れの中、打たれても、エラーしても、三振しても、また気を取り直して立ち向かっていく、あの球児たちのファイトぶりに、こちらが元気をもらって帰ってきました。
 試合を一緒に応援していたピッチャーのお母さんが、「息子の調子が悪い時には、私も思わず祈ることがあります。」と言われました。私が牧師であることを知って、言われた一言だと思います。今日は「母の日」です。お母さんのいない人は一人もいません。すべての人はお母さんを通して、この世に生を得、養育されていきます。そのお母さんの愛と労苦に感謝する祝日が、バプテスト教会から始まったとは、私たちにとっても誇らしいことです。
 イエス様は、娘の病の癒しを執拗にせがむ母親に向って、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」(マタイ15-28)と言われ、その結果、娘は癒されました。母の真剣な祈りが、娘の人生を変えたと言っても過言ではないでしょう。
 また、聖書は、「主を恐れる女はほめたたえられる。」(箴言31-30)と母親たちに、何にも増して、神に祈ることの祝福を教えています。ネパールでは震災によって十人に一人が戸外で生活しているそうです。そんな過酷な状況下で、子供たちを守ろうと闘っておられるお母さんたちのことも覚えて、とりなしの祈りを続けましょう。
 今年は母の日を記念して、美奈宜の杜でコンサートを計画しようというところから始まって、その準備が着々と進んでいます。人々に救い主を紹介し、真の神を証することこそ「母の日」にふさわしいプレゼントです。魂の救いを祈りつつ、地域の皆さんにお仕えさせていただきましょう。


無題 | 09:38:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
私たちは本当に「見えて」いるのでしょうか?

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2章4節)

 ネパールで大地震があり、懸命の救助活動が行われています。これまで幾多の災害を経験してきた日本からも救援隊が派遣されています。先ほども、震災発生から80時間後に、一人の青年が救出されたと報じられていました。更に、助けを求める多くの人たちに救援の手が伸べられますようお祈り申し上げます。
 私たちは今、ヨハネ伝9章に記されている、イエス様が生まれつきの盲人を癒された記事から学ばせていただいています。そこでイエス様が語られた、「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(9-39)という御言葉に考えさせられています。当時の宗教指導者たちは、生まれつきの盲人が物乞いをしているのは、罪の中に生まれた者が受ける当然の結果であって、その状態が改善されてはならないと思っていたかのようです。
 イエス様はこのような固定概念に縛られて、事象の深みを見ようとしない指導者たちに向かって、「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(41)と教えられました。何かの事情で一時的に不遇のときを過ごす人があっても、その人は周囲の援助と、本人の努力によって、祝福の道へと進んで行くべきであって、不幸な宿命に閉じ込められていなければならないなどという定めは、どこにもないのです。
 事実、生まれつき盲人であったがために教育の機会にも恵まれなかったであろうその人の口から、「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」(9-31)という真理の言葉が出てきました。指導者たちが決めつけていたように、この人は物乞いをして一生を過ごして当然だったでしょうか。そうではなく、今日に至るまで二千年間、「神のわざ」(3)を現わす人として選ばれていたのです。
 今の時代、もがいてももがいても社会の底辺から抜け出せないと感じている人たちが増えていると聞きます。イエス様は、そのような人たちの心の眼をも開いてくださるお方です。この月も、多くの人たちに、このすばらしい救い主を証してまいりましょう。


無題 | 16:26:39 | トラックバック(0) | コメント(0)