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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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狭い門から入りなさい!
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。(ルカ伝8章39節)

 先日、朗読の講習を受けた方々に、録音図書を利用する者の立場から話をする機会が与えられました。私は次第に視力を失いましたので、点字を読むのが遅く、学びは主に録音図書に頼ってきました。それなのに、きちんとしたお礼をしたことがありませんでした。今回、私の長年に及ぶ学びを支え続けてくださった朗読奉仕の皆さんに感謝の思いを述べ、その奉仕の価値について話すことができ、一つの荷が下りたような気がします。それと同時に、多くの皆さんの愛と労苦に支えられて、今の私があることを想い、なお一層、召された務めに忠実でありたいと思わされました。
また、その中で、私がどんなに深い失望の中から教会に導かれ、そこでイエス様の神様を知るようになったか、どのような経緯で牧師として立つようになったかについても証させていただきました。このすばらしい「たましいの救い」(Ⅰペテロ1-9)の事実を除いたら、私の人生、話すようなことは何もないからです。

イエス様は、狭い門からはいりなさい。」(マタイ7-13)と招かれました。なぜでしょうか?それが「いのちに至る門」(14)だからです。もし、あの日、勇気をもって信仰の道へと踏み出していなかったなら、もう今頃、私はこの世に存在していなかったかもしれません。そのまま、「滅びに至る」道を右往左往する以外なかったはずだからです。
二千年前、イエス様が「狭い門」と表現された「永遠のいのち」(Ⅰヨハネ1-2)に至る門は、今日、ますます見い出しにくくなっているように感じます。それは、「滅びに至る門」からの誘惑が、あまりにも多いからです。
しかし、そういう危険な時代だからこそ、「狭い門から入りなさい。」という、イエス様の救いの招きを、あらゆる機会に証したいものです。教会が「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保」(エペソ4-3)っているなら、多くの人たちが私たちの生きた証を通して、「いのちに至る門」を見い出すことができるのです。



無題 | 16:38:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の渇きを満たすもの

イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネ伝7章37、38節)

 先週、ジョイフルクワイヤが「ハーモニー in おごおり」という音楽会に出演し、3曲の讃美をさせていただきました。ステージを下りた後、ある合唱団で宗教曲を歌っておられるという御婦人が来られ、「胸が熱くなりました。信仰のない私でも入れてもらえるでしょうか?」とお尋ねになりました。「誰でも、そういうところから始まりますよ。」とお応えしました。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、」(とあるように、聖霊があの方の心の扉をノックされたのでしょう。一緒に歌える日がくるように祈って、お待ちしましょう。
また、先日は健康福祉館で、「早春の歌プレゼント」をさせていただきました。祝日だったこともあって、用意していった歌詞カードが足らないほど、多くの皆さんが集ってくれました。帰りがけにファンの皆さんからコーヒーのおもてなしをいただき、それぞれの歌談義に花が咲きました。4月の公演が楽しみです。

さて、礼拝で開いた御言葉に、「イエスは立って、大声で言われた。」とありました。これは珍しい表現です。きっと、イエス様の語気が荒かったのでしょう。人々のあまりの罪深さにイカっておられたのかもしれません。
ましてや、今の時代に向っては、どれほど語気荒く、その堕落ぶりを叱責されることでしょうか。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(創世1-27)とあるように、人のいのちは極めて貴いものです。それが虫けら同然に殺められるような惨劇が次々に報じられています。すべての人が、イエス様が立って、大声で語っておられるメッセージに耳を傾けなければなりません。
イエス様は大声で、道をわきまえないこの時代の者たちに向かって、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と招いておられます。神の道を見失ったままでいてはなりません、一人でも多くの人がその危険に気づき、イエス様のもとに立ち返ることができるよう祈り、証を続けてまいりましょう。


無題 | 19:02:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
愛の波紋を起こし続けましょう!

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4章9節)

 シリアの戦乱の中で教育の機会を奪われ、難民となった子供たちの惨状を伝え、救援の手を差し伸べ続けていたジャーナリストが、冷酷なテロリストによって殺害されました。世界中の心ある人々が、「神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。(詩篇83-1)と厳正なる神の御介入を切望していることでしょう。

一方、先日、ボランティアの研修で、メンバーー数名が糸島にある「MUKA(無価)」という福祉作業所の見学に参加させていただきました。「価値が無い」と書く作業所の名前を不思議に思いましたが、一人一人が「値段が付けられないほど貴い」という意味だと聞いて、納得しました。そこでは、身体、知的、精神的、社会的、さまざまな障害を持つ人達が集められ、良き指導者の下、与えられた能力を出し合って、ゴミ屋敷のかたづけ、木工細工、カラフルなパスタ作りなどの作業に汗を流しているとのことです。社会のお荷物と思われていたような人たちが、期待され、少しの手助けを得ることによって、地域に仕える有益な働き人となっているのですね。

イエス様は二千年前、道に迷っている人々に向って、 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7-37 38)と叫び、「永遠のいのち」への救いに招かれました。その招きに応えた人たちの心には、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)の美徳が備わるようになったのです。
近々にテロリストを糾弾する決議が国会で決議されるとのことです。しかし、私たちは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Ⅰテモテ1-15)という福音のメッセージを証させていただきましょう。罪によって屈折した心を正し得るのは、イエス・キリストによって示された「神の愛」だと信じているからです。
今日、「ハーモニー イン おごおり」の音楽会でイエス様の救いを証するコーラスをさせていただきます。人々の心の眼が、「そのひとり子をお与えになったほど」(ヨハネ3-16)の神の御愛に向けられるよう、祈りつつ讃美させていただきましょう。


無題 | 19:26:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
身に着けるべき「聖なる武装」とは?

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ書6章18節)

 対岸の火事と思われていたシリアの内戦に、にわかに日本も巻き込まれることとなっています。日本は戦争放棄を標榜する平和憲法を持つ国なのですが、難民支援を表明したことにより、敵と見なされ、日本人が人質となり、国が苦渋の決断を迫られる事態となっています。安部首相の口からしばしば聞かれる「積極的平和外交」という言葉は耳触りは良いのですが、いかに実現していくことの難しい課題であるかを思わされます。
パウロは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6-12)と語っています。日々、私たちの周りには具体的な犯罪行為が起こっていますから、それを取り締まる警察官が大忙しです。しかし、どんなに取り締まっても、次々に新手の悪が芽生えて、止まるところを知らないのが現実です。では、このような時代に私たちは、どう生きたらよいのでしょうか。
まず第一に、「神のすべての武具を身に着けなさい。」(6-11)と勧められています。これはもちろん、刃物や銃を手にすることではありません。人を悪の道へと誘うサタン(悪の首領)の存在に気付き、神の陣営に逃げ込むことです。つまり、救い主イエス・キリストを信じ、神の側に立つということです。
私たちが主の日に礼拝に集い、主の御名を讃美し、聖書からのメッセージに心を傾け、神の守りを祈り、クリスチャン同士が励まし合うことが「神の武具を身に付ける」ことです。私たち家族は朝揃ったところで「主の祈り」を捧げますが、それもまた一日の闘いに備えて、「神の武具を身に付ける」ことです。
今日、教会では主の晩餐式が行われ、教会員は主イエス様が、「私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」(Ⅰコリント15-3 4)を思い起こし、その恵みに与ります。これもまた、私たちが「地の塩・世界の光」(マタイ5-13 14)として生きるため、欠かすことのできない武装です。
主はいつも、「では、しっかりと立ちなさい。」(エペソ6-14)と私たちを励ましておられます。神の武具を身に着けて、悪の蔓延るこの世にあっても、主イエス様の聖徒にふさわしい歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 16:37:37 | トラックバック(0) | コメント(0)