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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「今」のときを活かして用いましょう!
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ書2章4、5節)
 
 息子たち新入生が「自助と共助を学ぶ宿泊体験」とやらに出かけたので、急遽、義母の様子を見に、人吉までロングドライブということになりました。老いたとはいえ、家の周りの草取りが自分の仕事と心得ているようで、義母は結構長い時間を、外で過ごしていました。「こうして、気ままに体を動かしているから、元気でいられるんだなあ。」と安心しました。
 ようやく、座ってくれたので、一緒に、「茶摘み」や「背比べ」の歌を歌い、夜には義母の好物のウナギを食べに行きました。他にも二軒の親戚を訪ね、近況を語らい、守りを祈らせていただき、すがすがしい気持ちで帰途に着きました。

 イエス様が、「わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9-4)と語られた御言葉が思い出されます。会いたくても、何かをしてあげたくても、それが叶わないときが来ます。その日が来ても、後悔することのないように、「今」のときを有効に活用し、神と人にお仕えしていきたいものです。

 先日、ジョナリン姉が入院中のおばちゃんに読んでほしいからということで、「こうすれば、あなたは確かに天国へ行ける!」というトラクトを翻訳させていただきました。そこには、すべての人が罪人であること、その罪人を救おうとする神の愛、罪人の身代わりとなって十字架を負ってくださったイエス様についての、ストレートな福音が書かれていました。日本語で十分に話してあげれないもどかしさの中にあっても、自分がいただいた救いの希望を、どうにかして周りの人たちに伝えようとする、その姉の信仰姿勢に感心しました。

 今回の韓国船の転覆事故においても、多くの若者たちが突然、死の危険に直面することとなってしまいました。死は必ずしも高齢者だけの問題ではありません。誰もが正しい備えをしておく必要があるのです。「罪の赦し」と「永遠のいのち」を授かっている私たちこそ、滅びへ向かっている多くの人々に、救いの道を指し示してまいりましょう。


無題 | 16:41:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
イースター、それは真の希望をいただく日です!
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ伝24章5、6節)
 
 先日、イースターの案内に回っていたとき、長年、良きお隣さんだったKさんのお住まいに差し掛かりました。ちょうど娘さんが来ておられ、「あら、なつかしい!母もいますから、上がってください。」ということになり、それぞれの家族の近況を分かち合うことになりました。Kさんは腎機能が低下し、余命いくばくもない状態とのことでした。それでも、よく自家製のお野菜をいただいたことや、子どもたちを囲んで花火をしたことなどを、共になつかしく語らうことができました。
 「お疲れになるといけないから」と言って、手を撮って、お祈りをさせていただきました。
 娘さんが、「神様が会わせてくださったんですね。」と言って、涙を流しておられました。久留米に入院しておられ、久しぶりに外泊許可が出たそのときに、通りがかるとは、私たちも、「これは神様が、最後に祈りの機会をくださった!」と実感させられる出来事でした。

 私たちは、このイースターを前に、イエス様の受難を思う週を過ごしてきました。その中で、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2-24)という御言葉が、何度も心に浮かんできました。イエス様が私の罪を負ってくださった故に、私は真の神を知ることができました。イエス様が十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23-34)と祈ってくださった故に、私は神を誉め讃える者へと変えられました。すべては、神の愛と恵みによったのです。

 主の弟子たちは繰り返し、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2-32)と語り続けました。どんな迫害を受けても、事実を証せずにいられまかったのです。
 主イエス様はこのイースターの朝にも、私たちのただ中に立って、「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20-19)と、私たち弱き者たちを力づけていてくださいます。この主の励ましに力を得て、私たちもキリストの復活の証人として歩ませていただきましょう。


無題 | 18:20:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
「真の礼拝者」を目ざしましょう!
あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ書3章17節)
 
 先日、健康福祉館で「春の唄プレゼント」をさせていただきました。ポカポカ日和でしたので、皆さん戸外に繰り出したのか、聴衆は少なめでしたが、おくつろぎ中の皆さんと、春のひとときを、楽しく過ごさせていただきました。帰りがけには、何人かの人たちが、気持ちよく声を掛けてくれました。六月には、もっと多くの方々にお会いできることを期待しましょう。
 もう一つ、息子の高校入学式にも出させていただきました。ブラスバンドの演奏に乗って入場した新入生280名の名が呼ばれ、めいめいの「はい!」を聴くことができました。「やるぞ!」と意欲満々な声、ちょっと不安げかなと感じる声、どの子も、どの子も、皆輝いていました。あんな良い子たちが、イエス様の救いをいただくことができるためにも、神様は、この地に「教会を立てていてくださるんだなあ。」と思わされました。
 
 さて、先週の学びは十戒の第三戒、「あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20-7)についてでした。ここで、戒められている「主の御名を、みだりに唱える」とは、どういう意味でしょうか。
 それは、信仰の姿勢が首尾一貫していないということです。都合のいいときだけ、イエス様のお名前を拝借し、都合が悪くなれば、「知らぬ振りをする」という、御都合主義の信仰を指しています。このような人たちを、イエス様は、「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」(マタイ23-27)と呼ばれたのです。

 「主の祈り」を祈ることは、すばらしい祝福です。しかし、まじないのように、機械的に諳んじればいいのではありません。そこに込められている願いを込めて祈るのです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22-37)という御言葉の意味するところを日々、心に留めて歩ませていただきましょう。


無題 | 16:44:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
リフレッシュされる旅でした!

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。(ヨハネ伝9章4節)
 
 今回の千葉旅行で、旧友と食事をすることにしていました。場所は、「どこがいいかなあ」と考えましたが、長年住んだ家の近くのすし屋さんを訪ねることにしました。当時の老店主夫妻は亡くなっておられ、店は活気がありませんでしたが、そこで暮らした日々にタイムスリップして、友と語らうことができました。
 店を出て「ご近所さんに顔出し」と思いましたら、すし屋さんが、「床屋さんには会えませんよ。」と言われました。私が長年、髪を切っていただいた床屋さんが、つい最近亡くなられたというのです。「ああ、この知らせを聞きに、ここに来たんだなあ。」と思わされました。
 てっきり会えるものとばかり思い込んでいた人に会えなかったことにより、再会できた人たち一人一人が、強く心に残っています。次は、「もう会えない」ということがあり得るのです。今、共に教会に集い、祈り合い、共にハーモニーして、主を讃美する信仰の仲間がいることは、なんと幸いなことでしょうか。
 千葉の先生方に祈っていただき、親戚の皆さんに別れを告げ、飛行機に乗り込むと、「ああ、宣教地に使わされて行くんだ。」という気持ちになりました。甘木に根を張ることも大切でしょうが、たまには引き抜いていただいて、洗い直される必要があります。わずか4日の旅でしたが、すっかりリフレッシュされ、気持ちが軽やかになりました。
 イエス様でさえ、「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1-11)と記されています。ましてや、欠点だらけの私たちが、そうやすやすと、この地に福音を根ざさせていけるわけがないのです。イースターの案内を配布しながら、私たちの罪のために、十字架の苦難を担ってくださった、主の愛と祈りに感動しています。この若葉の季節、もう一度、イエス様の「永遠のいのち」の知らせを、多くの人たちに証させていただきましょう。


無題 | 20:45:27 | トラックバック(0) | コメント(0)