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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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日々、愛の人へと造り変えられていく!
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3章18節)
 
 先日、「歌のプレゼント」を終えたとき、施設長さんが「今の最後の歌、いつ聞いても、魂が揺すぶられるんですよね。」と感想を述べておられました。「神の守り、なが身と共にあれ!」と、祝祷のつもりで歌っている讃美歌405番のことです。帰りには、80歳代と思われる利用者の方が、その施設長さんと共に外まで出て来て、私たちを見送ってくれました。「また、来ますからね。」と言って、お別れしました。

 中には私たちがキリスト教会の牧師であるとわかると、疎遠になる施設もあります。そんなとき、イエス様が語られた、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。」(ルカ10-16)という御言葉を思い出します。また逆に、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。(マルコ9-37)とも語られました。願うことは、たとえ初めは拒んだとしても、私たちの行状を観察することによって、次第にその人の警戒心が解け、イエス様の福音に耳を傾けるようになっていってくださることです。

 イエス様が語られた御言葉の中には、実践が容易でないものもあります。たとえば、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5-44)などは、その最たるものでしょう。いきなり、敵を愛そうとしても難しいでしょうから、せめて、自分に対して冷ややかな程度の人のためには、心を込めて祈らせていただきたいものです。
 もともと、私たちは自分勝手で、自分を犠牲にしてまで、人のために尽くす気概などない者でした。しかし、イエス様を信じ、お付き合いが長くなっていく中で、少しつづ病んでいる人や、難儀している人たちに同情できるようになってきたと思います。それは奇跡であり、イエス様の救いの実です。
 これからも、主イエス様を礼拝する生活を通して、他者の重荷を担える人へと造り変えていただきましょう。


無題 | 19:16:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
失敗から学んで、やり直すことができます!
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。(ルカ伝22章61節)
 
 先日、15歳の中学生たちが4分の3成人式を祝おうとしたのでしょうか、冒険旅行を企てました。初めは夜須高原まで自転車で行って、そこにあるバスケットボール場でバスケをしてくるということでした。しかし、さすが険しい山道を往復するのは危険だと言われたのか、それは取りやめて、久留米までサイクリングということになったようです。
 それならばと大して心配もせずに送り出したのですが、夜の8時を過ぎても帰って来ないので、玄関先に立って、主の見守りを祈っていました。しばらくして、無事に帰ってきて、「手が凍えて、メールもできなかった。」ということでした。取り越し苦労で済んでよかったです。

 ペテロは漁師でしたが、イエス様は彼を見込み、「人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1-17)と声を掛けられました。大勢いたであろう若者たちの中から、どうしてイエス様は、特別にペテロを選ばれたのでしょうか。彼はすぐれた家系の御曹司でも、学問を収めた人でもありませんでした。そんなペテロをイエス様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43-4)と、彼の中にある「伸びしろ」に目を止められたのでしょう。

 その後、イエス様に同行するようになったペテロは、順調にイエス様の弟子として成長していったでしょうか。実は、そうではありませんでした。彼はイエス様から、「下がれ。サタン。」(マタイ16-23)と叱責されたことも、「信仰の薄い人だな。」(マタイ14-31)と諌められたこともありました。

 そして、ついには、捕えられたイエス様について、「そんな人は知らない。」(マタイ26-74)とまで言ってしまったのです。常に一番弟子として期待され、献身していたつもりだったのに、あっけない裏切りでした。
 しかし、そんなペテロの弱さを知りながら、なお主は、「あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21-17)と尋ね、彼に再献身のチャンスを与えられたのです。私たちはと言えば、更に当てにならない信仰者です。しかし、主は今日も、そんな弱い私たちにも、「あなたはわたしを愛しますか。」と尋ねていてくださいます。あなたは、どう応えますか?


無題 | 20:59:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
この御言葉を「年間目標」にしてみませんか?
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(ローマ書12章11、12節)
 
 年頭の暗唱聖句を皆で唱和してみて、「これは今年の教会の年間目標にふさわしい!」と思わされました。まず、「勤勉で怠らず、」で始まります。人は潜在能力の3%程度しか使わずに終わってしまうそうです。こんな「もったいない」ことがあるでしょうか。脳も使わずにいると錆ついて、御言葉も、なかなか吸収できないかもしれませんが、繰り返し読んでいれば、何かが残るものです。まず、今年は、疑わず、怠らず、あきらめずに、皆で聖書から学び続けましょう。

 次に、「霊に燃え、主に仕え」とあります。主イエス様はラオデキヤの教会に向けて、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(黙示3-15)と書き送られました。心の伴わない、形式だけの礼拝は、神をお喜ばせするものではありません。「脂肪と髄に満ち足りるかのように」(詩篇63-5)、日々、新鮮な感動に満たされて、主を褒め讃えましょう。

 第三に、「望みを抱いて喜び、」とあります。些細なことで落胆してしまわずに、明日に期待し、希望を持ちましょう。私たちを取り巻く状況は、そう簡単に好転しないかもしれませんが、心に希望を描くことを、誰も妨げ得ません。高い希望を持って、それが実現したかのように喜んでいられるのは、信仰者の特権です。
 次は「患難に耐え、」ですが、これは前記の、「望みを抱いて喜び、」の裏面と思えばよいのではないでしょうか。「耐えている」と思うと悲しくなるかもしれませんが、「希望に向かって、努力している。」と思えば、元気が出てくるものです。

 最後は、「絶えず祈りに励みなさい。」で締めくくられています。金太郎飴のように、どこを切っても、祈っている自分が出てくるようになれば、いよいよ本物のクリスチャンです。
 これら五つを頭のデスクトップに置いて、一年間歩んでみましょう。充実した2014年を過ごすこと、まちがいありません。


無題 | 16:09:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
真新しいアルバムに、どんな絵を描きますか?
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。(詩篇63篇3節)
 
 お隣のKさん作の2014年のオリジナルカレンダーの一月には、「希望の朝焼け」と題する写真が掲載されています。隣の空き地から撮られたようで、この一年、教会に開かれて行く希望を象徴しているかのようです。
 息子たち「受験生グループ」は元旦の3時から大平山に登って、初日の出を見、希望校入学を誓い合ったそうです。と言うよりは、冒険をして、肩の力を抜いて、これからラストスパートというところでしょうか。

 元旦礼拝では、詩篇63篇1~8節から、湧き上がる神の御言葉のふるまいをいただきました。ダビデは、「水のない、砂漠の衰え果てた地で、」(1)と自分が追いやられている辛い状況を表現しました。彼は命を狙われ、隠れ場を捜して、逃げ惑っていたからです。そのような辛い状況の中で、どうして彼は、「脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。」(5)と言えたのでしょうか。
 その祝福は、ひとえに彼の正しい信仰生活の賜物でした。彼は逆境に立てば立つほど、神の栄光と力を見ようと、進んで聖所に行き、神を仰ぎ見たのです。彼自身の生命は風前のともしびのように弱り果てていても、彼の信頼する神の御手が、しっかりと彼を支え続けていたのです。

 私たちは念頭に、真新しい365枚の絵を描けるアルバムをいただきました。一日一枚、そのアルバムに、どんな絵を残していきますか。「御翼の陰で」(7)、兄弟姉妹と共に主イエス様を讃美している絵や、神の御言葉を暗唱している絵などを描き続け、年末までに、一冊の美しい信仰のアルバムを仕上げてまいりましょう。
 皆さんの新年の歩みを、主が豊かに祝福してくださいますようお祈り申し上げます。


無題 | 15:59:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスマスの恵みを数えて
どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。(ローマ書15章33節)
 
 今年のクリスマス礼拝では、初来会されたYさんも加えて、「イエス様のお誕生」の朗読劇をしました。羊飼いたちに天使たちがイエス様のお誕生について告げる場面、ヨセフとマリヤのベツレヘムへの旅、家畜小屋での救い主誕生の場面、そして、羊飼いたちの救い主礼拝の三場面を、教会の名優たちが見事に演じてくれました。ボードにフランネルを貼って、場面を描いてくれた子どもたちも、イエス様のお誕生が、よくわかったのではないでしょうか。
 続いて行われたランチョンも、贅沢でもなく、質素でもなく、イエス様のお祝いにふさわしいもので、力作のお料理を、感謝して味わわせていただきました。500円でプレゼントを用意するのは、さぞかし頭を捻ったことでしょうが、心のこもったカードが添えられていたりして、それぞれに価値ある記念品となりました。
 今、これを書いている私の耳に、戦火を逃れて母国を後にしたシリア難民についてのニュースが入ってきました。ある家族が隣国のレバノンでクリスマスツリーをお借りして、母国の平和を祈ったと伝えています。そうした苦難を耐えている多くの人たちは、同じ主のいのちをいただいた、私たちの兄弟姉妹です。
 フィリピンの台風で被災された多くのクリスチャンたちも、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2-14)とクリスマスの祈りを捧げたことでしょう。彼らもまた、私たちの兄弟姉妹です。

 イエス様は「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りにおいて、「彼らが一つとなるためです。」(ヨハネ17-11)と祈られました。パウロも、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2-4)と教えています。
 共に信仰の歩みを始めていた何名かの兄姉たちとクリスマスを共にできなかったことは残念でしたが、来年に向かって、更に兄姉たちのために祈り続けましょう。誰かのために、心を込めて祈り続けられるということこそ、イエス様が私たちの内に生きておられることの、何よりの証拠です。


無題 | 14:08:24 | トラックバック(0) | コメント(0)