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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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あなたの心は、どこに向いていますか?
主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、
(黙示録4章19節)
 
 最近、facebookなるものを始めました。インターネットで人に出会い、友達になっていく仕組みです。若者たちの「ネット依存」が深まっていると言われる時代に、自分もそこに入って、「聖書の御言葉を証できるのでは」と思うようになりました。まだまだ、そうした層の人たちにアプローチする方法がわかりませんが、友達の輪を拡げていく中で、聖書の真理を証できる人たちに出会えていくのではと期待しています。

 私たちは今、教会が辿った歴史を顧みるときを持っていますが、中世ヨーロッパの教会において、聖書が修道院に閉じ込められて、一般信者の手になかったことを学びました。だから、「暗黒時代」と呼ばれるのでしょう。聖書の御言葉によって私たちは、「教会はキリストのからだ」(エペソ1-23)であり、キリストは「教会のかしら」(コロサイ1-18)であることを知り、礼拝の姿勢を正されるのです。その聖書が取り上げられてしまったら、いったい何によって導かれることになるのでしょうか。

 教会が罪の赦しのためにお札(免罪符)を作って売り、私腹を肥やした時代があったなどとは信じがたいですが、そのように、人は堕落しやすいし、悪い誘惑は忍び込みやすいものです。パウロを通して語られた、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、」(Ⅰコリント15-58)という御言葉は、私たちもまた、心しなければならない戒めです。

 私たちは、「万物は、御子によって造られ、御子のために造られた」(コロサイ1-16)ということを信じています。主イエス・キリストの権能を認め、心からの礼拝をお捧げするのです。この秋も、栄光と讃美を、我らの主イエス様にお捧げしてまいりましょう。


無題 | 15:47:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたは祝福の道を進んでいますか?
facebookを始めました。聖書のみ言葉をシェアしましょう。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。(ヨナ書2章7節)
 
 昨年、北部九州は豪雨災害を経験し、多くの心温まる援助をいただきましたが、今年もまた、台風による風水害が関西から東日本にかけて、甚大な被害をもたらしました。心よりお見舞い申し上げるとともに、被災された方々の守りと、復旧の早からんことをお祈りもうしあげます。大震災、原発事故、相次ぐ集中豪雨と、災害との戦いが続いています。このような状況の中で、自然界を支配したもう神の「あわれみ」を祈る者とされている私たちの責任は重みを増しています。

 イエス様は、「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。」(ルカ11-11)と語られ、天の父が、いかに「あわれみ」に富むお方であるかを教えてくださいました。最初の人アダムとエヴァをお造りになったとき、「神は彼らを祝福」(創世5-2)されたのであって、災いを下そうとされたのではありません。詩篇の作者も、「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」(121-7)と神の守りに信頼し、平安をいただきました。

 旧約聖書に出てくるヨナという人は、「主の御顔を避けて」(ヨナ1-3)、神のみこころとは反対の方向へと向かいました。しかし、そこで彼は、ひどい嵐に遭遇しました。それは、ヨナに不従順の罪を悔い改めさせるために、神が引き起こされた嵐だったからです。
 私たちもヨナのように、神の御計画ではない道を進もうとすることがあります。果たして、神が共にいてくださらない、その道に祝福を期待できるでしょうか。誤った道に迷い込んだことに気づいたなら、直ちに向きを変えるべきです。その判断において、ぐずぐずしてはなりません。

 イエス様の救いに与った信者たちは教会に加わり、力に応じて奉仕することによって喜びに満ち溢れました。それは神の使命を担う者だけに与えられる特権です。この秋、私たちも、主に心からの礼拝を捧げつつ、祝福の道を歩んでまいりましょう。


無題 | 16:35:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
「祈り」の務めに求人があります。
facebookを始めました。「甘木聖書バプテスト教会」または「吉澤孝夫」で検索してみてください。多くの人たちが聖書のメッセージを読めるよう、シェアしましょう。



だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ伝11章24節)
 
 懸念された天候も、昼頃には暑いほどの日差しとなり、中学校の運動会が開かれました。息子は「これに賭けていた!」という、地方リレーのアンカーを務め、大歓声の中、ダイナミックな走りで見事優勝を果たしました。我が地域初の快挙らしく、応援団の盛り上がりも大変なものでした。息子はチームを代表して優勝旗を受け取る栄誉にも与り、将来へ向かって、希望のステップをしるすことができました。「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1-9)という約束を、主は鮮やかに成就してくださいました。

 さて、私たちは先週の学びから、私たちキリスト信者が神の御前に出て祈るために選ばれた「聖なる国民」(Ⅰペテロ2-9)であることを学びました。旧約の時代には大祭司だけに許されていた特権が、今、クリスチャンたちすべてに与えられ、とりなしの祈りを捧げるために「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4-16)と促されています。これは大変な大抜擢であり、栄誉ではないでしょうか。

 イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれひとり父の みもとに来ることはありません。」(ヨハネ14-6)と語られました。私たちの身代わりとなって、十字架を負ってくださったイエス様への信仰により、私たちの祈りは神に届くのです。だから、私たちは、「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5-17)と勧められています。

 福島の汚染水問題、尖閣列島をめぐる緊迫した状況、すべての難問の解決に、クリスチャンたちの祈りは有効です。もちろん、身近な家族や信仰の友のためにも祈る責任を負っています。

 今この瞬間も、主イエス様は父なる神の右の座にあって、私たちのために「とりなしの祈り」を続けていてくださいます。ですから、主のしもべである私たちも、「全き信仰をもって、真心から」(ヘブル10-22)、この聖なる祈りの務めに励ませていただきましょう。


無題 | 16:45:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
「神の家族に迎えられる」とは?

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ書8章17節)
 
 8月上旬にEHC 全国家庭文書協会から電話があり、「ニュースレターたねまきの巻頭言を書いてほしい。」との依頼を受けました。「どうして私に?」と思いましたが、主がくださった機会として、18年間続けてきたトラクト、教会案内の配布について書かせていただきました。特に、甘木に赴任当初、挨拶文を載せた教会案内を、当時1歳半だった息子をダッコしたり、歩かせたりしながら配ったこと、それを見て、来会者が起こされていったことなどを思い返し、あらためて主の導きの豊かさを感謝しました。最近は「たねまき」をしても、反応が乏しいのですが、「失われた一人」を探し求めてくださったイエス様のように、今このときも神の助けを待っておられる方々があることを思い、福音トラクトの配布を続けてまいります。

 イエス様は、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19-10)と、ご自身が、この世に来られた目的について語られましたが、では、イエス様に見出された人の人生は、具体的に、どう変わるのでしょうか。一つには、その人は「神の子ども」とされ、「神の家族」へと迎えられます。

 どんなに恵まれて、仲良く見える家族にも人には知られない痛みがあるものです。それは、神から離された人間に生じた、どうにもならない悲しい罪の結末です。それは家庭の不和、裏切り、病、困窮など、さまざまな形をとって、人々を苦しめ続けています。イエス様を救い主として信じる人たちは、そのような滅びの中から救われて、神の祝福の家族へと移されるのです。
 そのような身分をいただいた私たちは、いつでも、偉大な宇宙の創造社を「天のお父様!」とお呼びして、御名を讃え、祈り、みことばを聴く者へと変えられます。更に、聖霊が私たちの内に住んで、悪の惑わしから守ってくださいます。

 教会に加えられるということは、そのような豊かな神の祝福の相続者とされるということです。私たちは、「恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」(ヘブル10-39)として、イエス様への礼拝を尊んでまいりましょう。


無題 | 19:04:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
「ゆるす」ことの恵み
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ書4章32節)

 先日、健康福祉館で「残暑見舞い歌のプレゼント」をさせていただきました。館内に脚を踏み入れた所で、「あら、お久しぶり!」という方にお会いしました。「今から歌うなら、聴いて帰るわ。)ということで、思いの他の入りでした。この夏の話題でつづりながらの、16の名曲プレゼントでした。途中、手拍子あり、掛け声あり、おひねりまでいただいて、和やかなコンサートでした。気持ちよく歌わせてくださった館のスタッフの皆さん、聴衆の皆さん、ありがとうございました。次は10月9日、秋の名曲を花束にして参ります。お楽しみに!

 さて、先ごろ九重高原で行われた合同キャンプの恵みシリーズ第三弾、「赦し」について書き残しておきます。もし、寝ても覚めても「赦せない!」と思うような人がいたら、その人自身の心が冷たく、硬く、歪んでしまいます。憎まれている側も、気持ちが晴れるわけがありません。こんな状態が長く続くことは、不幸の極みです。即刻、この悪しき心を清めていただく必要があります。

 イエス様は、「多額の借金を赦してもらいながら、わずかな借金を厳しく取り立てた男のたとえ話を用いて、私たちが、どれほど赦されてきている者であるかに気づかせてくださいました。イエス様の十字架の上での祈り、「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23-34)によって、私たちの罪は赦されたのです。その赦しを受けた私たちは、「互いに赦し合いなさい。」と命じられています。

 私たちに残されている時間は決して長くないはずです。その貴重なときを、どうして恨みつらみで無駄にしてよいでしょうか。イエス様の十字架を心に立て、悪しき罪から解放していただきましょう。そして、身近なところから始めて、イエス様の「ゆるし」の波紋を広げてまいりましょう。


無題 | 15:37:53 | トラックバック(0) | コメント(0)