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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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罪の束縛から解放されるには?
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ書8章2節)
 
 先ごろ開かれた合同キャンプの際、八丁原地熱発電所を見学する機会が与えられました。神様が地中に備えていてくださるマグマの熱を利用しての発電で、20万世帯に電気を供給しているそうです。割合としては小規模だそうですが、安全でクリーンなエネルギーですから、ますます利用の可能性を探ってほしいものです。

 今回は第二集会の恵みについて書き残しておきます。テーマは「自我からの解放」でした。特に、感銘を受けたのは、n先生の子育てについての証でした。3人のお子さんたちを養子として育てられたのですが、次男さんが非行の傾向が強く、最後には少年院にまで送られたそうです。その間のo先生御夫妻の心痛は筆舌に尽くせないものだったことでしょう。しかし、神は長年の祈りに応えてくださり、今は彼ら非行仲間たちが起業し、その次男さんは会社の専務として、若い社員たちの指導に当たっているそうです。「祈られた子は滅びない。」と言われますが、今なお事実であることを知り、皆が神を誉め讃えました。

 御本人も教会で愛され、祈られていることを重々わかっていたでしょうが、自分の努力では、どうしても、罪の誘惑に抗し得なかったのでしょう。この状態をパウロは、「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7-20)と述懐しています。

 こんな罪の奴隷のような状態にある者にとって、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)という御言葉は、まさに福音、栄光への脱出です。イエス様の十字架の愛が罪の鎖を断ち切って、私たちを解放してくださったのです。

 地中に埋蔵されているマグマには電気を生み出すエネルギーがあります。主イエス様の十字架の愛には、「罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ」(Ⅰヨハネ1-9)てくださる力があります。罪に引きずられる生き方に終止符を打って、「光の子ども」(エペソ5-8)としての歩みを踏み出してまいりましょう。
 


無題 | 18:00:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
喜んで人に「仕える」ためには?
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。(マルコ伝10章43、44節)
 
 大分教会主催の九州合同キャンプが開かれ、教会からは4名が参加でき、それぞれが信仰をリフレッシュされて帰ってきました。全国的な猛暑ですから、避暑になるとは期待していなかったのですが、さすが九重の高地、エアコンなしでも快適でした。子どもたちの参加が少なかったのは残念でしたが、それがためか、o先生を通して語られた御言葉が、参加者全員の心にヒタヒタト浸透し気がついてみたら、皆がすっかり信仰をリフレッシュされていました。

 キャンプのテーマは「互いに仕え合おう」でした。御夫婦でも、「あなた仕える人、私仕えられる人」では、遠からず破局に至りかねません。家族であれ、会社であれ、そのメンバーには、各自に果たすべき職分があります。もちろん、教会とても同様です。各自が所属している教会の目的に貢献しようとすることは、極めて自然なことのはずです。

 ところが、人間わがままな者であり、自分勝手な罪びとですから、「互いに仕え合う」というのは、容易く実践できるわけではありません。第一集会で語られたのは、「キリストの模範に習う」ということでした。イエス様は御自身について、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10-45)と語られ、私たちの救いのために、身代わりに十字架の罰を負ってくださいました。まさに、御自身のいのちを捧げて、私たちに仕えてくださったのです。

 このすばらしい主の模範に倣おうと祈り、努めるのが信仰生活です。主の十字架の愛によって救われたのですから、私たちは喜んで礼拝をお捧げするのです。その結果、私たちは次第に、神に仕え、人に奉仕することを喜びとする者へと造り変えられていきます。

 大分教会は一年かけて、この夏季聖会のために奉仕し続けてくださいました。祈りが積み重ねられた集いであったからこそ、参加者全員が豊かな霊的祝福をいただくことができました。私たちも置かれた場で、心を込めて、神と人にお仕えしてまいりましょう。いつも、最高の模範であるイエス様が、私たちと共に歩んでいてくださるのですから。


無題 | 15:49:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
神を知ることによって、恐れから解放されます!
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
(詩篇100篇4節)
 
 最近のローマ書の学びにおいて教えられた、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(13-1)という御言葉に促されて、日本国憲法を読んでみました。特に、戦争放棄と平和の希求に対する強い決意を感じることができました。被爆の日、終戦記念日を迎えた今、再び戦争を引き起こさず、諸民族が平和に共存していくために、私たちは、どのような態度を取るべきでしょうか。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3-18)とありますが、具体的には、何をしていったらよいのでしょうか。

 厳しい状況の中で、おびただしい民を導いたモーセは、その最後の説教において、彼らの依って立つ基盤として「神の正義」を強調しました。困難が立ちはだかる中を前進して行こうとするとき、「主の道はみな正しい」(申命32-4)と告白することこそが、民に勇気を与えると信じたからです。また、「主は岩。」とも宣言しました。危険に取り囲まれることがあっても、神に信頼して祈る者は「守られる!」と確信したからです。

 私たちは現実に、「神の中に生き、動き、また存在している」(使途17-28)にもかかわらず、その神が、どういうお方かわかっていないとしたら、それはまた、自分自身をも見失っていることです。神は私たちを救うために、ひとり子イエス様を十字架の上で身代わりにするほどに、私たちを愛していてくださるお方です。この愛に、「ありがとうございます!」と応えるとき、聖霊の力がみなぎってくるのを感じます。

 聖書はまた、「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。」(ローマ13-11)とも伝えています。現実の状況だけに心を奪われてしまうことなく、主の御前に進み出て、讃美と祈りをお捧げしましょう。主への礼拝を尊ぶ者を、神は豊かに祝福してくださるのです。


無題 | 19:24:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
「圧倒的な勝利者」とは、どういう人のことでしょうか?

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ書8章39節)
 
 昨年、北部九州を襲った豪雨は甚大な被害をもたらし、未だ傷跡癒えぬ地区も残されていますが、今年も梅雨末期の水害が、東北、中国、北陸地方に住む人々に災害を引き起こしました。それまでは、少雨のため、取水制限まで始めていた地方もあったのですが、そちらは解消したのでしょうか。いずれにせよ、被害に遭われた方々の守りと、救援活動の上に、神様の御助けを切にお祈り申し上げます。
 
 そんな過酷な自然環境を、ものともせぬかのような、若者たちの妙技が感動を与えてくれています。私も息子の県大会応援のために博多の森競技場に行ってきました。到着したときは既に400M走は終わっていましたが掲示板を見てビックリ、初めて53秒台で走っていました。後で、「300Mまではトップだったんだ!」と悔しさを滲ませていました。たくましく育った脚をマッサージしてやりながら、ここまで無事に育ててくださった主イエス様に感謝しました。
 
 競技場のスタンドに座っていると、わが子の名前を連呼しながら応援する親御さんたちの声が聞こえてきます。息のそろったチームの応援も。私は間に合いませんでしたが、息子が走る時間に、祈りの応援をしました。神様は場所の隔たりを超えて、働いてくださるからです。
 
 「神が私たちの味方である」(ローマ8-31)と信じていると、大らかな気持ちになります。神に愛されるような立派な者ではないのですが、イエス様が私たちに代わって罰を受けてくださった故に、私たちは「正しい者」と宣言されているのです。ここに、私たちの感謝と喜びの原点があります。
 
 時には信仰故に、迫害らしきものを経験することもあるし、健康を損ねることもあります。そんなとき、神の愛は私たちを置き去りにしてしまったのでしょうか。そんなことはありません。そんなときにこそ、イエス様が与えてくださった祝福の豊かさに目を留め、讃美の歌を大きな声で歌いましょう。そうすることによって、私たちはいつでも、「圧倒的な勝利者」(ローマ8-37)となれるのです。


無題 | 15:50:01 | トラックバック(0) | コメント(0)