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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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神を知るための第一のカギは?
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(第二コリント13章13節)

 台風のため延期になった息子の陸上筑後大会が行われ、中学生たちのひたむきな挑戦に、身を乗り出し、手が痛くなるほど応援してきました。息子も最初の400メートル走で自己ベストを1,4秒縮め、県大会へ進めました。200メートル走は予選落ちでしたが、最後の400メートルリレーで3秒も記録を縮め、6位入賞、県大会へ進むことができました。このリレーでの入賞が、ことさらに嬉しかったようです。今週末は本命の野球で地区大会突破を目指して戦うことになります。このような真剣な挑戦の機会を通して、まっすぐな信仰が育ってくれることを期待しています。
 
私たち信仰者の前にも「置かれている競走」(ヘブル12-1)があります。その競争はライバルに打ち勝つ競争ではなく、神様を正しく知る仲間を増やしていく競争です。人は神様によって造られた者ですから、魂の故郷なる神を慕います。しかし、そのお方に至らず、とりあえずの慰みで過ごしている人たちが多くいます。残念なことです。その方々に、聖書が伝える「生ける神」(使徒14-15)を紹介していくことこそ、私たちの務め、競争なのです。
 
先週、私たちは唯一真の神様は「父なる神」、「「救い主イエス・キリスト」、「聖霊」の三つの位格をお持ちであることを学びました。この難問を、1人の男性に職業人としての顔、地域の役員としての顔、家庭の大黒柱としての顔があることに例えてみたら、少しは理解の助けになるのではないでしょうか。決して、三つの神々が存在するということではありません。神は唯一なのです。しかし、これら三つの位格をバランスよく知ることによって、初めて私たちは、神の奥義に近づき得るということです。
 特に、イエス様が語られた「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14-9)とあるように、イエス様を信じることは、神を知るための第一歩です。そのイエス様が、「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6-9)と祈ることを教えてくださり、「もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ14-16)と、信じるすべての人のうちに、聖霊が与えられることを明らかにしてくださいました。ですから、三つの位格をお持ちの神様との、ハーモニーのとれた交わりの中にいることによって、人の魂は、最高の平安をいただくことができるのです。
 
イエス様は、すべての人の前には「滅びに至る門」(マタイ7-13)と、「いのちに至る門」(14)があることを教えています。そして、私たちに賢い選択を促しておられます。聖書は神のみこころを明らかにしている書物です。ますます、共に神の御言葉を学び、真の神のそば近く歩ませていただきましょう。


無題 | 20:30:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
なぜ、聖書は「神の御言葉」と呼ばれるのでしょうか。
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119篇130節)

 五月の第二日曜日の「母の日」はバプテスト教会から始まったということで、毎年、特別なプログラムをしてきましたが、六月の「父の日」に関しては、その起こりについて聞いたことがありませんでした。ところが、この記念日もまた教会から起こったものであることを知り、今年は、まだ救われていない御主人がたの救いを祈る日とさせていただきました。何か行動すれば、何かの反応があるものです。差し上げた御挨拶状、お花とセットの御言葉カード、いつか芽を出し、御主人がたと共に主を拝する日がくることを期待しましょう。
 
先週、私たちは、「なぜ、聖書が神の御言葉」であるかについて学びました。人それぞれに、大きな影響を受けた本があるものです。それでもなお、なぜ聖書だけが「神の御言葉」とまで言われるのでしょうか。その答もまた聖書の中に見出すことができます。「聖書はすべて、神の霊感によるもの」(Ⅱテモテ3-16)と記されています。いったい、これは、どういう意味なのでしょうか。
 聖書は1600年の長きにわたり、40人の著者によって書かれました。では、なぜ、時代や背景を異にする著者たちが書き残したにもかかわらず、聖書として、完全な統一性を保ちえたのでしょうか。それは、神御自身が著者たちに働いて、監修されたと信じる以外にありません。この聖霊による特別な介入を「神の霊感」と呼ぶのです。
 
今のハイテク技術をもってさえ、記録を損なうことなく保つことは容易いことではありません。まして、モーセやダビデ、ペテロやパウロが著した断片が、どのように集められ、編纂され、翻訳され、今、私たちまでが読み得ているのでしょうか。これもまた、神の特別な守りの賜物であるとしか言いようがありません。
 
世界には、公然と聖書を読むことが赦されない国や時代がありましたし、今なお、そうです。今、私たちが迫害もなく、自由に神の御言葉を読める恵みを感謝しましょう。そして、この聖書の中に著わされている、イエス様の十字架の愛と救いを、多くの人々に証させていただきましょう。


無題 | 19:13:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
人の中にある「神を求める思い」について
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。(詩篇23篇3節)

 先日、教育に関する講演会があったので、聴かせていただきました。その中で「怖いなあ!」と思わされたのが、子どもたちが夜明けまでメールで束縛し合って、「寝不足になっている」という話でした。多少いやなことがあっても、グッスリ眠れば、心身ともにリセットされるものです。ところが、夜更けまでも、不快な関係を引きずってしまうとしたら、どうなるでしょうか。子どもたちに人間関係の原理として、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2-4)という御言葉を教えていく必要を痛感しました。
 
その晩、ラジオを聞いていたら、ある有名なダンサーが、良い仕事をするために、「1人でボーっとするときが必要である。」と話していました。ときには、煩わしさから解放されないと、良い芸術は生まれてこないということでしょう。また、詩篇の作者は、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42-1)と表現しています。唯一、神と語らう者として造られた人間には、神の御言葉を聴き、神に祈る「静思のとき」が必要だということです。
 
この作者は、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。」(5)と自問しています。彼は故郷を離れ、敵に囲まれていたのです。自分の悲しみを理解してくれる友はありませんでした。しかし、彼は、「神を待ち望め。」と自らを鼓舞することができました。彼の中には、何者も奪い取ることのできない、神への揺るがない信仰があったのです。
 そんな彼に向って、周りの敵たちは、「おまえの神はどこにいるか。」(10)と罵声を浴びせてきました。それでも、彼は、私はなおも神をほめたたえる。「」と自らを励ましています。彼にとって、神は実在するお方であり、力そのものでした。
 
神の創造の原理に従って、健全な生活をしましょう。主イエス様を礼拝し、主の御名によって祈る生活が私たちを悪の誘惑から守ってくれます。神を褒め称えて生きることは、私たちに喜びと希望を与えます。あらゆる祝福は、神を中心とする生活にこそ伴なうものだからです。


無題 | 21:17:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたも「世の光」になれます!
もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ伝18章19節)

 昨秋の新人戦に続いて、息子が中学生陸上大会に出させていただいています。まずは市郡大会から始まりましたが、三種目とも三位以内に入り、21日の地区大会に進むことができました。七月の野球大会が迫っているので、ぶっつけ本番に近い挑戦になるでしょうが、「主の祈り」で心を整え、自己ベストを更新してほしいです。他の出場選手たちの中には、少年野球時代からの友達も数名いて、それぞれがたくましいアスリートに成長していたので、拍手のしっぱなしでした。
 
また、80歳の三浦雄一郎さんのエベレスト登頂にも、「君もがんばりな!」と肩を叩かれたような気がしました。私たちの信仰の歩みは今、何合目でしょうか。頂でイエス様が手を広げて私たちを迎えてくださいます。一回一回の礼拝を一歩一歩と数えながら、信仰の高嶺を目ざして励んでまいりましょう。
 
先週、私たちは忠実なキリストのしもべ、テモテとエパフロデトについて学びました。当時、宣教故の迫害から投獄されていたパウロの代わりとなって、教会の働きを担ったクリスチャンたちです。テモテはパウロと「同じ心」(ピリピ2-20)を持っていた伝道者でしたし、エパフロデトは「キリストの仕事のために、いのちの危険を」(2-30)冒すほどの、真実な教会の奉仕者でした。彼らの仕えぶりには、何の打算も見られません。彼ら自身を「聖い、生きた供え物」(ローマ12-1)として捧げていたのです。
 特に、パウロはピリピ教会からの使者エパフロデトを、「兄弟、同労者、戦友」(2-25)と評しています。自身が迫害に遭い、投獄までされるような苦難の中で、ピリピ教会が派遣したエパフロデトの存在は、どれほどパウロを励ましたことでしょうか。「ピリピ人への手紙」に頻出しているパウロの「喜び」は、彼の真実な奉仕の身であったのかもしれません。
 
たとえ少人数の教会であっても、互いが兄弟、同労者、戦友としてスクラムを組んでいれば、その教会は「世の光」として輝くことができます。この町に住む人々が確かな「いのち」、イエス・キリストだけが与えることのできる「永遠のいのち」を授かることができるよう、救いの道を指し示してまいりましょう。


無題 | 18:42:06 | トラックバック(0) | コメント(0)