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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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世を去った後に、確かな希望を持って、今を生きています!
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(第二コリント5章10節)

 先日、少し離れた町に出かけて、「新島八重」のトラクトに教会案内を挟んで配布していたとき、小さな資料館があったので、入ってみました。内容は、ある教育者とデザイナーのコレクションでした。その町の祭りで遣われた品々や、一昔前に珍重されていたような日常用具が陳列されていました。その町自体がレトロを売り物に町おこしに力を入れているようで、それらの展示もその一つだったのでしょう。そのような環境の町に住む方々の中にも、聖書を読んでみようとする方、キリストの救いを知ろうとする方が起こされますよう祈りつつ、帰途に着きました。
 パウロは獄中から、「世の光として輝く」(ピリピ2-16)ようにと、ピリピの教会を励ましました。私たちにも、その励ましが伝わってきます。どの町でも、何か誇れるものを見つけ、それを飾って町を活性化しようと熱心に取り組んでいます。伝統文化の継承も盛んに推奨されています。そのような時代に、教会はキリストの十字架の救いを証する使命に立てられています。私たち自身がイエス様の「いのち」に満たされていなければ、輝いて世を照らすことはできません。
 私たちには大きな目当てがあります。それは「キリストの日」と呼ばれるときであり、世の営みを終えて、キリストの花嫁として迎えられる日です。その日、私たちは地上の歩みについて、主に報告をすることになります。今から、良い決算報告ができるよう準備しておきたいものです。
 
その日、イエス様から、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)と声を掛けていただけるのは、どのような人でしょうか。自分に託された能力、時間、持ち物を捧げて、キリストのからだなる教会を建て上げるために奉仕した真実な信仰者であるにちがいありません。
 パウロは「つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2-14)という注意を与えています。「不平不満で時間を浪費している暇などないでしょう。と諭しているかのようです。確かに時は限られているのですから、与えられている貴重なときを活用し、喜んで主の教会建設にお仕えさせていただきましょう。


無題 | 18:58:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
ここに、「人を生かす神の力」がある!
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(第一コリント1章18節)

 先週の母の日感謝礼拝に再来会された方々は、ジョイフルクワイヤのコーラス、フルート、独唱などをお楽しみいただいたようです。続いての持ち寄り料理を囲んでのランチタイムも、それぞれの近況を分かち合い、和やかなひとときでした。更に教会が、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133-1)と描かれているような、「主の家族」として育てていただきましょう。集えなかった皆さんのためには、音楽のプレゼントをホームページにアップしましたので、お聴きになってみてください。
 
その集いにおいて、心打たれたG・ベナード師作の聖歌402番の英詩を紹介させていただきました。人々は流行を追い、洗練されたものに魅力を感じます。しかし、この詩には、古く、荒削りの十字架、苦難と恥辱の徴であるイエス様の十字架への愛着と従順が歌い込まれています。「神の御子が暗いカルバリの丘へと、あの十字架を負って歩むために、天の御位を棄てられた、あの古い十字架が私を引き付ける。」という表現に、私の心も静粛な感動に満たされました。
 
また、「聖なる血潮に染んだ、あの古い粗雑な十字架の中に、驚くべき美しさを見る。」という表現にもハッとさせられました。主が私を救うために苦難を耐えてくださった、あの傷だらけの十字架に、「私はどれだけ美しさを感じているだろうか?」と自問しました。
 そして、その詩は、「私もその古い十字架の辱めを、喜んで追っていこう!」と締めくくっています。今の時代も、多くの人が顔を背け、聴こうともしないイエス様の十字架から、永遠のいのちの泉が湧き出てきているのを見させられた思いがしました。主が私を天に召されるその日まで、この「古く荒削りの十字架」の愛と救いを「証し続けたい!」と、気持ちを新たにさせられました。
 
何度も何度も歌ってきたこの聖歌の中に、これほどの信仰の証が注ぎ出されていたとは、覚醒の発見でした。ますます讃美歌の宝探しをしてみたくなりました。イエス様の十字架の受難を見上げて、罪赦される人たちが、1人でも多く起こされますよう祈り、働きを続けましょう。


無題 | 09:42:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
「母の日」に、大切なことを知ってください!
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(箴言31章30節)
 先礼拝は子どもの日に当たったので、子供たちに聖書朗読をしてもらったり、元気に歌をリードしてもらったりしました。聖書は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3-16)とあるように、聖書をしっかりと読める子どもたちを育てることは、神様に喜ばれる教育の原点です。私は息子に少しづつ、聖書をテキストにして英語を教えていますが、幼い頃から親しんできた内容なので、英文で読んでも理解し易いようです。「神の知恵と知識」(ローマ11-33)を身に着けた子供たちが育つよう、いろいろな方法で、神の御言葉を教えてまいりましょう。
 
今日はバプテスト教会から始まって、世界中に広まった「母の日」です。アンナさんのお母さんは熱心なクリスチャンであり、娘さんにも立派な信仰を継承しました。アンナさんはお母さんの召天記念日に、教会の皆さんに1輪のカーネーションをプレゼントして、お母さんの愛に感謝しました。やがて、この美しい行為は大統領の耳に入ることとなり、ついにはアメリカの祝日の一つとなりました。1人のお母さんの真実な信仰が、世界中に感謝の輪を拡げたのです。
 
若き伝道者テモテの純粋な信仰を育んだのは、祖母ロイスと母ユニケの真実な信仰生活であったとパウロは証しています。(Ⅱテモテ1-5) 朝に晩に、彼女たちは少年テモテのために主の導きを祈り、まだ読み書きできる前から、聖書をくり返し読み聞かせたことでしょう。そのような家庭における信仰教育があってはじめて、テモテは「みことばをまっすぐに説き明かす」(Ⅱテモテ2-15)熟練した主の働き人として成長できたにちがいありません。
 
この母の日、心のこもったメッセージ付のプレゼントをいただく、幸せなお母さんたちも多いことでしょう。しかし、母の日の起こりが主イエス様への信仰に基づいていたことを知るとき、私たちは神様からのプレゼントを受け取っているかどうか自問してみなければなりません。すべての人に届いている神からのプレゼントは、救い主イエス様を信じて受ける「罪の赦し」であり、「永遠のいのち」の祝福です。
 
この世で残されている時間は、「永遠のとき」に備えるために与えられています。聖書は「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)と伝え、私たちを「いのちに至る門」(マタイ7-14)へと招いています。あなたも信仰をもって踏み出し、神が共にいてくださる「幸いな人生」を始めてみませんか。


無題 | 17:06:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日の忍耐が明日の成長を生み出します!
わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ伝22章32節)

 戦後まもなく、アメリカのバプテスト教会から派遣され、NBBCをはじめ、いくつかの教会開拓に尽力されたH先生を、去る4月19日にお迎えすることができました。私にとって「伝説の宣教師」でしたが、現実に信仰の証とメッセージを聴く機会が与えられ、タイムスリップしたような、不思議な一日でした。82歳になられた今なお、日本人宣教を情熱をもって語られるお姿に、大きな励ましをいただきました。少年時代を孤児院で過ごされ、生活も荒れていたそうですが、イエス様の福音は少年を見事に生まれ変わらせ、輝く福音の大使として、長きにわたり用い続けておられます。
 
先生はトランペット、柔道など、多彩な趣味の持ち主ですが、それらをすべて福音宣教の道具として用いてこられたそうです。イエス様が語られた、「持っている者はさらに与えられて豊かになり」(マタイ13-12)の御言葉が思い出されました。食生活に注意し、運動を欠かさず、常にベストな状態で主の御用に立とうとする先輩伝道者の姿勢に、「私もかくありたい!」と思わされました。数年後、また来教いただける日を楽しみにしましょう。
 
私たちは先週、「忍耐」について学びました。特に、宣教旅行の途中、任務を放棄して帰ってしまったマルコの回復と成長から、失敗を失敗で終わらせてはならず、そこから、回復と成長を生み出していかなければならないことを教えられました。「忍耐と励ましの神」(ローマ15-5)は常に、私たちの明日に期待し、忍耐をもって成長を見守っていてくださいます。
 私自身の歩みを振り返っても、未熟さと無知の故の失敗の数々を思い起こすことができます。どれほど赦され、再チャンスが与えられてきたことでしょうか。そして今、マルコについて語られた、「彼は私の務めのために役に立つからです。」(Ⅱテモテ4-11)という御言葉を、イエス様に掛けていただけるだけ成長できたでしょうか。
 マルコが、「もう一度、宣教旅行に加わろう!」と思ったのは、パウロやバルナバの忠実な働きぶりと、その結果の祝福を知ったからです。私たちも後に続くクリスチャンたちに、良き感化を与える者とさせていただきましょう。主イエス様は私たちに期待の眼差しを注ぎつつ、いつも励ましの祈りを続けていてくださるのです。


無題 | 14:56:11 | トラックバック(0) | コメント(0)