FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

02 | 2013/03 | 04
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

イースター、「希望のメッセージ」をお届けします!
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ伝24章5、6節)

 過ぎし一週間、私たちはイエス様の受難を思いながら過ごしてきました。迫る十字架を前に、イエス様は、血の汗を流して、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26-39)と祈られました。その杯とは、全人類の罪を負って、怒りの刑罰を受けることでした。「私の罪のために、重い十字架をおわされ、」と始まる「悲しみの道」という歌があります。なんと有難い御愛でしょうか。その主の御苦しみによって、私たちの罪は赦されたのです。
 その歌は、「私も行こう、すぐに。主の歩まれた道を。」と続きます。誰の人生にも、「私が飲むべき杯」があります。避けたい病、家族の問題、仕事上の苦労。鬱々としながら、「取り去ってください!」と祈ることがあります。しかし、イエス様が父なる神の御計画に従い、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られたことを思い、各自が負っている「私の十字架」を、感謝をもって担い行くことができます。
 
そして、十字架の上で主は、「完了した。」(ヨハネ19-30)と宣言され、信じるすべての者に、救いの道を開いてくださいました。何の勲もないような私たちに、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3-36)という、確かな約束が与えられています。それは、私たちに下るはずの罰を、イエス様が代わりに受けてくださったからです。
 
そればかりか、主は勝利の救い主として、死を打ち破ってよみがえられ、今もなお、天において、「私たちのためにとりなしていてくださる」(ローマ8-34)のです。もう1人の讃美歌作者は、「キリストが生きておられるから、私は明日へ向って進むことができる。」と歌いました。そのとおり、私たちは、明日が「祝福と希望の日である!」と信じます。
 二千年前、怯える弟子たちの真ん中に立たれ、「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20-19)と彼らを力づけられた主は、私たちの只中にもおられます。そして、このイースターの朝にも、ご自身を信じる者を、「永遠のいのち」の希望へと移してくださるのです。あなたの心の王座にも、救い主をお迎えしませんか。


無題 | 16:09:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
「終わりの日」への備えはできていますか?
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ伝3章17節)

 最近、中二の息子が「主の祈り」を覚えたので、朝起きて来ると、まず、家族が声をそろえて祈るようにしています。そのようにし始めてから、家族としての一体感が増したような気がします。イエス様が、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18-20)と約してくださったとおり、主の平安を感じて、一日をスタートできます。そのうち、ホームページにアップして、皆さんも参加できるようにしようかとも考えています。
 南海トラフの巨大地震の発表などを聞きますと、現実感をもった備えの必要を感じます。まだ、東日本大震災から二年しか経っていないというのに、また、「更に大きな災害への備えを始めるということです。二度と、「想定外」などとは言えません。私たちは聖書に記されている神の警告を、世に伝える責任を負っています。その激震の日までに、残されているときは多くはないようです。
 
まず、思い出さなければならないのは、ノアの時代に対する神の警告です。「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。」(創世6-12)と記されるほど、人々の生き方は、神の御心を損じる類のものでした。人は元来、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」(マタイ6-9)と祈るべき者として造られたのに、神の存在は無視され、人の欲望だけが、果てしなく増大していたのです。その結果、悪に満ちた時代は、神の怒りの大洪水によって一掃されてしまったのです。(創世6~8章)
 
また、悪に満ちたソドムが硫黄の火によって滅ぼされる前に、御使いによって語られた、「「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(創世19-17)という警告は、大津波の襲来に怯える今の時代の人々だからこそ、現実味をもって聞くことができるのではないでしょうか。では、どこへ逃げ込めばよいのでしょうか。聖書はその重大な質問に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16-31)と答えています。
 今後、おそらく多方面から、防災、減災のための取り組みが実施されていくことでしょう。もちろん、それらは極めて大切なことです。しかし、私たちは、一人でも多くの人が救い主を信じ、迫り来る「終わりの日」(マタイ24-14)に備えることができるよう、イエス様の救いを証してまいりましょう。


無題 | 20:39:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたの欠乏は満たされます!
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。(ヨハネ伝21章16節)

 先日、東日本大震災の慰霊式典において遺族代表の方々が読み上げた誓いの言葉が、深く心に残りました。沈痛な喪失体験を語ることは、誰もが避けたいことです。しかし、勇気をもって語ってくださった一言一言が、私たちに今持っている幸せの大きさを気づかせてくれました。
 
岩手県を代表した、高校二年生、山根りんさんは、この辛い経験から、被災地支援に関わる仕事に就きたいとの決心を表明していました。復興支援ソング「花は咲く」に歌われているように、こうした苦難を経なければ咲かすことのできない大輪の花を、きっと咲かせてくれるにちがいありません。それのみならず、あの誓いの言葉を聞いた多くの若者たちにも、自分の人生について深く考える機会を与えたことでしょう。もっともっと、希望の芽生えがあの被災地から生まれ出るように、神の助けを祈り続けましょう。
 
イエス様は身もとに集まってきた群衆を見られて、「羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ」(マルコ6-34)と記されています。人の痛みに共感し、傍らで助けの手を差し伸べていく、「あわれみ」の心で人々の状態をご覧になられたのです。そして、イエス様はこれらの人々の欠乏を満たす力をお持ちでした。
 
弟子たちが見出した食べ物は五つのパンと二匹の魚だけでした。彼らはおびただしい数の人々の欠乏のために、そのわずかな食料は「何の役にも立たない。」と考えました。しかし、その五つのパンと二匹の魚がイエス様の手に握られ、祝福の祈りが捧げられたとき、それは大群衆の空腹を満たし、なお余りあるほどに増やされたのです。
 私たちの周りにも、さまざまな欠乏を見ることができます。愛の欠乏、赦しの欠乏、いたわりの欠乏・・・。私たちはそれらに気づいても、「私には何もできない!」とあきらめてしまいがちです。しかし、「主よ、この私をお使いになって、彼らの欠乏を満たしてください。」と祈るなら、イエス様は私たちが捧げる能力を幾倍にも増やして、多くの人々に「たましいの救い」(Ⅰペテロ1-9)を与えることがおできになります。
 今配布している「希望のイースター」の集会案内が、道を求めている人の心に届けられるよう祈りましょう。イエス様は苦悩する彼らをご覧になって、深くあわれみ、「罪の赦し」(ルカ24-47)と「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)を与えようとしておられるのです。


無題 | 16:31:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ伝10章10,11節)

 明日で、あの東日本大震災から二年が経とうとしています。この間、私たちは愛する家族を亡くした方々、思い出の詰まった家を津波で流されてしまった方々、放射能の脅威に怯え続ける方々についての報道を見聴きし、神のあわれみと助けを祈り続けてきました。私たちの地からも、さまざまな形での援助が為され、仲間の教会からも、被災地へ出向いてのボランティア活動が継続されました。そして、これからも、苦難を耐え、復興の闘いを続ける方々を支える「祈りの応援団」であり続けます。被災者の方々は、被災を免れた私たちの分まで、苦難を担っていてくださるのですから。
 彼の地では、被災された教会が、地域の物心両面の必要に応えながら、福音を証し続けておられることを聞きます。また、この震災を機に、それまで教会未設置地域に、新たにイエス様の教会が始まったとも。その地の人々が「永遠のいのち」(Ⅰヨハネ1-2)の救いをいただき、「新しく力を得、鷲のように翼をかって」(イザヤ40-31)、希望に満ちた復興へと進むことができるよう、私たちも祈りの応援を続けましょう。
 
また、私たちにも降って湧いたように、突然災いが襲いかかることがあります。イエス様と弟子たちが舟で移動中に、「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。」(マタイ8-24)とあるように。そんなとき、ほとんどの場合、人は取りみだすものであり、普段備えているはずの、信仰に基づく行動が取れないものです。その結果、自体が更に悪化してしまうということもあります。これでは、何のための信仰かわかりません。
 最近、私はある出来事を通して、サタンとの戦いに直面しました。具体的に書くことはできませんが、相手の方は、自己の行為の正当性を主張しました。しかし、私には、それが巧妙なサタンのトリックであると思われました。そして、私はその方に、御自身の判断のまちがいに気づいてほしいと思い、一通の手紙を書きました。その方がサタンであるなどというのでなく、世を惑わす誤った価値観をはびこらせてはならないと思ったからです。
 
今の世に、巧みなトリックで弱い立場の人を追い詰め、鬱病へと追い込んでいくような悪が拡がっていると聞きました。人間を利用するだけ利用して、使い捨てて、誰が得をするというのでしょうか。また、私たちは、そのようなワナに足を掬われぬよう、しっかりと「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)であるイエス様に繋がっていなければなりません。
 
この地にも、イエス様の救いを証する教会が立てられていることは、神の深いあわれみによることです。誤った自己イメージを植え付けられて失望の中にいる人々に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-4)という神のメッセージをお伝えさせていただきましょう。


無題 | 14:06:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
ここに正しい生き方の手本があります。
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(第一ヨハネ1章3節)

 昨春、小郡の専門学校に入学されたのを機に、私たちと主への礼拝を共にしてきたKM姉が、一年の学びを終え、当地を離れることになりました。若いお嬢さんたちが来会されるとの電話をいただいたのは昨年、桜吹雪の舞う頃でした。翌朝、二人が現れたのは、礼拝終了10分前でした。話を聴いてみると、小郡から礼拝に間に合うような時間に自転車で出かけたものの、道に迷い、ようやく到着したとのこと、忘れられない初対面となりました。
 
途中から、お友達のTMさんは週末、帰郷して礼拝を守るようになりましたが、KM姉は夜勤のアルバイト明けでクタクタなときでさえ、主の日の礼拝をお捧げするために、私たちの教会へ集ってくれました。卒業後は長崎で、手話を活かして聴覚障害の方々を補助しつつ、共に働かれるそうです。主が姉を、どのように用いようとしておられるか楽しみにしつつ、応援の祈りをさせていただきましょう。
 
さて、私たちは先週、「キリストに聞き、キリストにあって教えられている」(エペソ4-21)という御言葉から、私たちの手本がイエス様であることを知り、感謝で胸がいっぱいになりました。良き師に恵まれることは、実に幸いなことです。私たちは主の聖き御人格に遠く及ばない者ですが、最高の手本に倣って生きる者とされています。それどころか、「キリストの御霊」(ローマ8-9)が私たちの内に住み、罪に気づかせてくださり、悔い改めへと導いてくださるのです。
 子ども時代には叱ってもらえますが、ある年齢に達すれば、めったに叱られることはありません。もし万が一、注意してくださる方がいたとしても、素直に聴けるものではありません。しかし、神の御言葉をもって語りかける聖霊の導きには、素直に従うことができます。それは、イエス様が語られた、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18-27)とあるとおりです。
 今このときも、正しい基準を知らずに、不安に怯えながら、助けを求めている多くの人たちがいます。ときには、偽物の手本を掴まされ、更に深く傷ついていく人たちもいます。その人たちに見えるように、教会はイエス様の十字架の救いを高く掲げましょう。イエス様はその人たちをも「捜して救うために」(ルカ19-10)、この世に来てくださったからです。


無題 | 15:54:20 | トラックバック(0) | コメント(0)