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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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どうしたら、人を赦せるのでしょうか?
イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ伝23章34節)

 津波によって何もかも流されてしまい、仮説住宅で独り暮らしをしておられる老いたお母さんに、更に追い打ちをかけるような悲しい知らせが届きました。企業戦士としてアルジェリアで働いておられた息子さんがテロの犠牲になったというのです。自然災害により生活の場を失い、今度は人の心に燃え盛る憎しみのとばっちりを受けて、頼りの息子さんを失いました。それでも、この方の肩を抱いて、慰めてあげる人たちが傍にいてくれるとは思いますが、なんと辛い晩年となってしまったことでしょうか。その他、この痛ましい事件の関係者の皆様に、上よりの慰めをお祈り申し上げます。
 津波被害者の多くが、海がもたらす恩恵への感謝の念を持ち続けていると聞いたことがあります。むしろ、愛する人たちを助け得なかった自らの無力を責めておられるくらいでしょう。それに反し、人からの侵害、搾取、侮辱などへの恨みは消えるどころか、ますます、容赦なき報復として噴き出しています。そうした争いの中で、今回のように巻き添えになる犠牲者が後を絶ちません。どうしたら、この憎しみの連鎖を断ち、人と人が心から赦し合うことができるのでしょうか。
 それにはまず、私たちの生活の場へ視点を移して考えてみる必要があります。私たちは置かれた場において、「平和をつくる人」(ヤコブ3-18)として生きているでしょうか。イエス様が教えてくださった「我らに罪を侵す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りを、心から祈って生活しているでしょうか。まずは己の罪に気づき、主イエス様の十字架の赦しをいただくところから、「平和をつくる人」としての第一歩は始まります。
 
イエス様は、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6-37)と語られました。そして、この御言葉が力を持つのは、御自身が罪人の救いのため十字架を負い、赦しを実践して見せてくださったからです。だからこそ、イエス様を信じる人は新たに生まれ変わり、神の聖き「いのち」(聖霊)をいただくことができるのです。
 
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。」(Ⅰヨハネ3-16) この大きな愛に、私たちも信仰をもってお応えしましょう。神はあなたを「地の塩」(マタイ5-13)、「世界の光」(14)として用いようとしておられるのです。


無題 | 16:33:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を育てるための根本的な知恵は?
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(ヘブル書11章6節)

 連日、大阪のバスケット部キャプテンの痛ましい死が報じられています。おそらく、彼は名作スポコンマンガ「スラムダンク」を読み、バスケに打ち込み、あこがれの名門校へと進んできた、純心なバスケ少年だったことでしょう。そこで彼を待っていたのは、「強いチームを育てるため」という美名を借りた、、度を越した体罰の雨嵐だったようです。監督の激しい叱責に怯える少年が、どうしてチームを牽引するリーダーとして育てたでしょうか。いまだに、そうした誤った指導法が、まかり通っていたことに、憤りを感じます。
 
聖書には、「多くの者が教師になってはいけません。」(ヤコブ3-1)とあります。これは教職の価値を下げる言及でしょうか。そうではなく、格別に責任の重い務めであるから、常に「身を律しなさい。」と言われていると解すべきでしょう。そして、謙遜になって、神の助けを求めるべきことを教えているのです。
 
パウロという信仰の教師は自らの働きを顧みて、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3-6 7)と述べています。これは信仰の教育のみならず、人の教育全般について当てはまる真理ではないでしょうか。
 美しい蘭を咲かせるのにモーツアルトの音楽をかけたり、笑顔で話しかけたりすると聞いたことがあります。しかし、成長を急かすような言葉をどなったり、激しく幹を揺すったりするということを聞いたことがありません。そのようなことをすれば、花芽をだいなしにしてしまうことが明らかだから、誰もそんな愚かしいことはしないのです。しかし、どうしてアスリート(スポーツ選手)養成の場においては、そのような迷信が未だに、幅を利かし得ていたのでしょうか。
 人様の子どもの教師になることはもちろん、自分の子の親となることさえ難しいことです。しかし、聖書は、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1-5)と教え、神の導きの中に歩むべきことを促しています。
 
誤った新年に駆られて暴走し続けてはなりません。私たち罪人を救うために十字架を負われた救い主イエス様に心を向けましょう。あなたの心は一新され、神を称えて生きる者へと造り変えていただけるのです。


無題 | 20:56:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
この目標を目ざして走りましょう!
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ伝17章3節)
 
 今年も箱根駅伝での若者たちの熱い走りが、日本中に勇気と感動を与えてくれました。昨年19位だった日体大が、予選から勝ち上がって、大差で優勝してしまいました。走るトレーニングはもちろんのこと、生活面、精神面に至るまで、徹底した改善が為された結果の快挙にちがいありません。年明け早々、「やれば、できる!」ということを教えてくれたレースぶりでした。

 また、明大の選手がふらふらになりながらも、倒れ込むように襷を繋いだ場面では、しばし勝ち負けを忘れて、誰もが「がんばれ!」を連呼したことでしょう。何かの原因で体調を崩したのでしょうが、チームのために必死で前に進もうとするあの選手の姿は心に焼き付いて、困難な場面に直面する多くの人たちを励まし続けることでしょう。

 私たちの2013年のレースもスタートしました。イエス様の救いをはるばるローマにまで伝えた宣教者パウロは、「目標を目ざして一心に走っている」(ピリピ3-14)と言い切りましたが、私たちは、どうでしょうか。寝ても覚めても心のドアに掲げてあるような目標が定まっているでしょうか。

 例年のように、多くの人々が初詣に出かけ、願を掛ける様子が報じられていました。しかし、聖書の神の御言葉を聴き、真の神に祈ろうとする人は少ないのです。天から神様は日本の人々に向かって、「背信の子らよ。帰れ。」(エレミヤ3-14)と呼びかけておられます。

 昨年末より教会のホームページから牧師の挨拶と、教会へのご案内を流しています。救いの道を求めておられる方々の心に留まるよう祈りましょう。イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15-7)と語られましたが、この御言葉の中に、私たちの今年の目標が表されています。

 皆でイエス様のお働きをさせていただくことは、実に嬉しく、誇り高きことです。道を求めておられる方々が真の神を知り、「永遠のいのち」を授かることができるよう祈り、それぞれができる奉仕を担わせていただきましょう。


無題 | 16:43:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
祝福された一年を過ごすために
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。(詩篇131篇2節)
2013年の初めに、私はダビデが残した、わずか3節だけの詩篇から、神に対する謙遜な信頼を教えられました。ダビデ王は権力の位にあり、文武に長けていながら、「乳離れした子が母親の前にいるように」(131-2)と、神の御前に和らいだ心で出ています。「王様なのだから、もっと強がって見せなければ。」などという、突っ張ったところが微塵もありません。
 
私の中には、「年初には、もっとパワフルなメッセージがふさわしいのでは。」という思い込みがありましたが、神様はこの御言葉を与えてくださいました。しばらく、この詩篇を思い巡らしていると、肩の緊張が取れて、リラックスし、ゆったりとした気持ちになりました。そして、信仰の恵みがひたひたと魂に満ちてくるのを感じました。
 きっと、これは、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12-10)と告白したパウロの敬虔に似ているのかもしれません。自分の弱さを認めた者だけが神の導きを求めて礼拝に集ってきます。そして、そのような「聞く耳のある者は」(ルカ8-8)確かな神の知恵を受けて、平安に週の歩みへと踏み出していくのです。
 
イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15-5)、と語られました。これは文字どおり、「イエス様なしには全く何もできない」というよりも、「神が求めておられることを、神が望んでおられる方法ですることができない。と解すべきでしょう。ですから、礼拝に集い、神の御言葉を傾聴することは、私たちの一週間の質を決める、極めて大切なことなのです。
 
 誰もが実り豊かにしたいと願い、この年をスタートしたのではないでしょうか。であるならば、まず神の御前に集い、謙って神の恵みの満たしを待とうではありませんか。神のみこころを求めて生きる者に、神は「いのちと平安」(ローマ8-6)を約束しておられます。皆さんの2013年を神が豊かに祝してくださいますように。


無題 | 16:11:35 | トラックバック(0) | コメント(0)