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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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大事にしようよ、この「いのち」!
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ伝3章3節)
 
先日、ある歌好きの高齢者施設でのこと、私たちのプレゼントが終わった後、「では、私たちもお返しに」と言って、聞かせてくださった「人生ワルツ」という替え歌が心に残りました。その歌は、「一度かぎりの人生だ。大事にしようよ、この命」と始まります。80歳を超えたような方々が、声を絞って、「大事にしようよ、この命」と歌ってくださったのです。私も覚えて歌いたいと思い、歌詞をいただいてきました。
 
さっそく覚えようとしてみると、「この世に生まれた喜びは、合わせた両手の中にある。」とあります。さすが高齢者向けの替え歌、晩年に達した信仰の心をも歌い込んでいるのでしょう。勝手に、「これは、イエス様を信じて救われた人の感謝の歌だ!」と解釈して、近いうちに歌ってみようと思います。命を粗末にしているような若者たちの間でも、流行らせたいような歌です。
 
聖書には、人々から「ふしだらな女」とレッテルを貼られていた女性が、イエス様の説教を聞き、罪を悔い改めて、イエス様に真心からの礼拝を捧げる場面が出てきます。(ルカ7 36-50) 彼女は長年蓄えてきた貴重な香油を、惜しげなくイエス様の御足に注ぎかけ、髪の毛で拭い、感謝と愛を表しました。この美しい場面は私たちに、「真心からの礼拝」が、どのようなものであるかを教えてくれています。
 
人は長生きをすれば、思い出したくもないような罪や失敗も重ねてきているものです。そんな心の傷を消し去ってくれる消しゴムはあるでしょうか。それがイエス様の十字架です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5-17)とあるように、イエス様を信じる者の罪は、ことごとく拭い去っていただけるのです。
 
どんなに「大事にしようよ。」と努めても、体の生命は衰えて行き、やがて土に返って行きます。それは限りある生命だからです。しかし、イエス様を信じる私たちには、とこしえに神の祝福の中に生きる「永遠のいのち」が与えられています。
 
そして、この永遠のいのちの「希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5-5) この秋、教会は揺るぐことのない、この「確かな希望」を、多くの方々に証してまいりましょう。


無題 | 14:54:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
宝は天に蓄えましょう!
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ伝10章10節)
先日、敬老の日のお祝い会で「歌とトークのプレゼント」をしたとき、施設の方がお庭で咲いたバラの花束と、以前撮っていただいた写真を額に入れてプレゼントしてくれました。その方がおっしゃるのに、「最近は、天候のせいか、なかなか良いバラが咲かなくて。」とのことでした。そんな中でも、一番良いものを選んで花束を用意してくださった、その「もてなしの心」に、秋の涼風のような爽やかさを感じました。写真の方も、大切にしたいようなナイスショットで、さっそく飾らせてもらいました。
 
和やかな気持ちで帰教し、ラジオをつけると、中国人のデモ隊が、中国各地で日系企業を襲撃!」とのニュース、「いったい、この事態はどこへ向って行くのだろう?」と恐れを感じました。翌日には、日本の政治家たちの口から、「憲法改正」や「国防軍」といったなじみのない言葉が相次いで発せられるに至っては、「原爆の日」や「終戦記念日」の誓いは「どこへ行ったのやら?」と唖然とさせられました。サタンは背後にあって争い事を嗾けるでしょうが、神の御言葉は、「平和を求めてこれを追い求めよ。」(Ⅰペテロ3-11)と戒めています。
 
悲惨な原発事故を引き起こしてしまった日本は、「どうして、あの事故を防げなかったのか?」と連日、検証を続けています。しかし、起こってしまったことを、起こらない前に戻すことはできません。しかし、尖閣列島を廻る日中の対立は、まだまだ話合いの余地が十分にあるはずです。詩篇の筆者は、「あなたは地のすべての境を定め、」(74-17)と記しています。両国を代表する方々が利己心を棄てて、神の裁定に耳を傾けることができるよう祈り続けましょう。
 
イエス様は、「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(マタイ6-20)と語られました。猛暑の間、お休みしていた教会案内の配布に出かけてきました。すっかり秋の風で、気持ちがよかったです。福音トラクトも挟んだので、イエス様の救いに心を向ける方々が起こされることを祈りながら配布しました。背後で祈っていてくださる皆さんと共に、天に宝を積むことができました。
 
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)という御言葉が心に沁みます。今まだ、私たちは天に宝を積むことができるからです。この貴重なときを活かし、イエス様の「永遠のいのち」の福音を、多くの人々に証してまいりましょう。


無題 | 15:51:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
心に揺るがない「平和の国」を建てましょう!
私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。(第一コリント15章58節)
 夏休みが明けて一週間、早くも中学校の運動会がありました。息子は、「今年は町対抗リレーに懸けてるんだ!」と張り切っていたので、応援に出かけました。千人以上の大歓声の中、2位でバトンを引き継いだ息子はグングン追い上げ、ついにコーナーで追い越し、トップで三年生にバトンを渡しました。その後、また逆転されて、準優勝でしたが、あの大観衆の中、最高の走りができて、忘れられない思い出になったことでしょう。興奮冷めやらぬ様子で帰宅した息子に、「丈夫な体に育てていてくださる神様に、いっぱい感謝しようね。」と伝えました。
 
ところが、当日は、どうしたことか、家内の体調が悪く、写真もビデオも撮ってやることができませんでした。しかし、そのことを知った近所の方が、ビデオをコピーしてプレゼントしてくださいました。何かにつけて、それを観ては、彼は「100%勇気!」になれるのではないでしょうか。その御夫妻の親切のおかげで、プラスの感動をいただいた運動会でした。
 
その二日後は、あの大震災から一年半だということで、被災地の現状が報じられていました。かなりの数の方々が、住み慣れた故郷を離れたとも聞きます。聖書は「艱難」は、やがて「希望を生み出す」(ローマ5-4)と告げています。力強い約束ではありませんか。その日が一日も早く来るよう、私たちも応援の祈りを続けましょう。
 
災害で国力が弱まったところに乗じるかのように、隣国との領土問題が拗れています。聖書は、「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。」(箴言22-28)と教えています。これは神の御言葉であり、守らなければ争いは絶えません。国の上に立つ方々が判断を誤ることのなきよう、神の導きを切に祈るものです。
 
イエス様は、「平和をつくる者は幸いです。」(マタイ5-9)と語られました。そして、御自身が全人類の罪を負い、私たちの身代りに罰を受けてくださいました。この福音を証することによって、私たちは「平和をつくる」働きに貢献できます。世の腐れを止める「地の塩」(マタイ5-13)として、教会の責任を果たしてまいりましょう。


無題 | 21:00:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
なぜ、人は心配したり、苦悩したりするのでしょうか?
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119篇71節)
 ある方が御主人が人間ドックを受診することになっているが、「何か悪い病気が見つかったら」と思うと、居ても経ってもいられないと電話してこられました。私は、「何か不安に思う症状があるんですか?」とお尋ねしてみました。「少し肥ったのと、疲れやすくなったように感じます。」ということでした。私はイエス様が語られた、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14-1)という御言葉をお伝えしました。そして、電話口で祈って差し上げると、気持ちが楽になったようで、「アーメン!」と唱和しておられました。
 
この方は御自身が気持ちが落ち込みがちなので、特に不安を感じやすいのですが、誰もが多かれ少なかれ、心配事を抱えています。では、果たして、この「悩み」というものは、不幸の素なのでしょうか。悩みのない人生こそが幸せであり、恵まれているのでしょうか。
 
パウロは、「患難さえも喜んでいます。」(ローマ5-3)と書き残しています。これは、「苦難の只中にあって喜ぶ」、あるいは、「「苦しみをこそ喜ぶ」ということです。つまり、「病苦や困窮を喜ぶ」ということです。これもまた、理解に苦しむ心境かもしれません。
 
今日は中学校の運動会です。もし、何の競技にも参加しない生徒がいたら、その子は運動会を楽しめるでしょうか。汗を流す必要もなければ、声を枯らすこともなければ、脚が痛くなることもありません。でも、ただ見学しているだけの運動会が嬉しいはずがありません。たとえ、ビリになったとしても、参加してこその運動会です。
 
私はその方に、「あなたは人生に参加しているんですよ。」と言いました。神様は私たちが皆、人生に参加することを望んでおられます。苦難を経験していることは、人生に参加している証拠です。難しいことに直面したら、そこで、神の助けを求めて祈るのです。こうして、私たちは神を知り、人として成長することができます。
 私たちは人生に参加するのみならず、イエス様の教会にまで加えられています。こんなに楽しく、幸いな参加があるでしょうか。この秋も、イエス様に時、能力、感謝と愛を捧げて、進んで神の御国建設に参加してまいりましょう。


無題 | 21:07:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
この人生レースに、あなたも参加しませんか?
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。(ルカ伝15章4節)
先日、息子が中学校の市郡陸上大会に出させていただいたので、応援に出かけました。台風の影響で大風が吹きまくっていましたが、選手たちはどこ吹く風、真剣な挑戦をくりひろげてくれました。息子は野球部の練習がない日に、数回練習しただけでしたが、400メートル走で二着になり、十月の地区大会に進むことができました。せっかくのチャンスをいただいたのですから、自己ベストを更新して、県大会を目ざしてほしいものです。

 熱心に練習し過ぎて、痛みを耐えながら競技した選手もいたかもしれません。エントリー種目が近すぎて、前の種目の疲れを残したまま走った選手もいたことでしょう。地区大会進出を逃して、悔しい思いで返った選手もいたにちがいありません。でも、でも、あんな立派な競技場で、自分の名前がコールされて競技できたというだけで十分ではないでしょうか。突き詰めれば、この世に生を得て、しかも元気に、好きなスポーツに打ち込めるということ自体、感謝しきれないほど、恵まれていることなのです。

 最近の報道によれば、学校に行けない子どもたちが、相変わらず相当数いるということです。競技会どころか、そもそも学校に参加できないのです。それは、あってはならない事態です。仲間から離れて、一人ぼっちで苦悩している人を、どうして放っておいてよいでしょうか。イエス様は無事な九十九匹の羊を野原に残してまでも、いなくなった一匹を捜しに出た羊飼いのようなお方です。

 ある先生からお便りをいただきました。今は、家庭にいられない事情のある子どもたちのホームを開いておられるそうです。傷を受けた子どもたちが、自分の所属できる家庭を得ているのです。あまり嬉しいので、甘木の巨峰を贈らせていただきました。子どもたちが神様に感謝して食べてくれるかと思うと、嬉しくなってきます。

 子どもたちだけでなく、若者たちの中にも、高齢者の中にも、安らげる居場所を求めている人たちがいます。イエス様はそのような人たちに向かって、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と招いておられます。

 九月になりました。私たちも、また新たな気持ちで、信仰の歩みをスタートできます。この収穫の秋、イエス様に見出され、「神との平和」(ローマ5-1)をいただく人たちが起こされるよう祈り、喜びをもって、主にお仕えしてまいりましょう。


無題 | 16:42:05 | トラックバック(0) | コメント(0)