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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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人に「仕える」って、どんなことでしょうか?
主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。(使徒20章35節)
 
 ここ数ヶ月間、ある遠方に住んでおられる方からの電話相談に応じています。その方の苦しみは、「何十年来、ある幼なじみに尽くしてきたはずなのに、感謝されないどころか、逆恨みさえされている。いつも自分は、損な役回りをさせられて、悔しくてならない。」といった内容です。今では年賀状程度の付き合いしかない方だそうですが、毎日、そのことが思い出されて、気持ちが暗くなっているとのことです。精神科の治療も受けておられることを確認した上で、「どう、前向きに暮らしていったらよいか、一緒に考えていきましょう。」とお伝えしています。

 この方の問題の解決法として、すぐに思いつくのは、「そんな人にこだわっていないで、新しい友達を見つけたらよいですよ。」というアドバイスではないでしょうか。その人と付き合うことによって楽しかったり、前向きになれたりしてこそ友達と言えるのであって、いつも不快にさせられるような人のことなど、「さっさと忘れればいいんです。」といったものでしょう。私も、そう思いますし、そう話してもみました。しかし、それができないことが、この方の現状であることがわかりました。心を整理し、新しい決断を実行していくことは、エネルギーのいることであり、そのエネルギーを欠いている人には無理なのです。

 幸い、この方はミッションスクールで聖書を学んだことがある方でしたので、「神様に祈ることから始めてみませんか」と、思い切って目を天に向けてみることをお勧めしました。これは体操でいうならば、「長年使ったことのない筋肉を使ってみましょう。」と言うようなもので、すぐに習慣づくわけではありません。しかし、この方の心の束縛を解いて、自由にすることができるのはイエス様以外にありませんので、電話口で一緒に祈り始めました。その後も、毎日の生活の中で、簡単な祈りを何度かし始めているようです。

 神様は敗北感に苛まれている者に向かって、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩篇50-15)と約束しておられます。この方が神の助けに目を向け始めているところに希望を感じます。また、イエス様の福音は、「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1-16)とも語られていますので、この婦人の上にも、神の栄光が現わされるよう祈っています。

 クリスチャンの生活は「奉仕」(サービス)の生活です。そもそも礼拝も英語では(service)です。私たちを命がけで救ってくださった主イエス様に、今度は私たちが奉仕をお捧げする番です。何も目立つことをしたり、立派な業績を上げることだけが奉仕ではありません。ごく日常的な仕事を祈りつつ、心を込めてすることこそ奉仕です。
 イエス様は私たちに、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)と呼びかけておられます。イエス様が私たちのために、いのちを捧げるまでに仕えてくださったように。私たちも置かれた場で、主と人に奉仕する生活を続けてまいりましょう。


無題 | 18:48:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
誘惑から守られて、祝福された人生を生きるためには?
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ伝3章3節)
 
 昨年の震災の際、最も多額な義援金を届けてくれたのは台湾だそうですが、今、集中豪雨に見舞われていると聞き、大災害に至らぬよう、お祈り申し上げます。こちらでは梅雨入りはしたものの、本格的な雨は、これからといったところのようです。そんな中で、健康福祉館で「初夏の歌のプレゼント」をさせていただきました。おなじみの方々がタンバリンでリズムを取ってくれたり、励ましの掛け声を掛けてくれたりで、心通い合うひとときとなりました。次は八月、新顔のお仲間にも会えるのを楽しみにしましょう。

  私たちはイエス様を信じ、罪を赦され、神の子どもとされました。歳とって、この体は滅んでも、天国へ行ける約束もいただいています。でも、それがすべてですか?そうではありません。私たちには新しい人生の目的、イエス様に奉仕する生き方が始まります。イエス様に感謝し、出会う人々に、私たちが持っている喜びと希望を証するのです。

 今、私たちはローマ書の学びを始めていますが、そこには、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」(1-28)と人間の堕落した姿が描かれています。最近、「怖いなあ!」と思わされたのが「脱法ハーブ」なるものについての報道です。これまではハーブは心を落ち着かせるものと思われていたのに、麻薬のような作用を引き起こすハーブが広まりつつあるとのことです。なんと私たちの生活に、危険な汚染が忍び込んできていることでしょうか。

 しかしながら、この脱法ハーブも、私たちに迫りくる誘惑の一例にすぎません。人間が「良くない思いに引き渡され」ているのですから、そこから、あらゆる罪が湧き出して来るのです。いくら法律を作っても、醜悪な罪は、それをあざ笑うかのように、更に手を変え品を変えて、人間を脅かし続けます。

 そんな中で聞く、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5-17)という御言葉は、確かな希望の響きを持っています。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」などという、驚くべき出来事が、キリストを信じる人だけに、今でも起こるのです。

 さまざまな邪悪な罠に取り囲まれながらも、私たちは安心して神を褒め称えて生きています。それはキリストの福音に希望を置いているからです。この救い主イエス様を、道を求めている多くの人々に証してまいりましょう。


無題 | 18:07:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
「教会」って、どんなところですか?
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ書1章23節)
 
 私が育った村には教会はありませんでした。その後、初めて教会に足を踏み入れたのは、東京の学校で寮生活を始めて、間もないときでした。そこで、聖書から語られる「いなくなった一匹の羊を捜す羊飼い」のたとえ話から、失われた人を捜し求めるイエス・キリストについて聞くことができました。(ルカ15-3~7)その日以来、私にとって教会は「わが家」のような所となりました。
 では、その「教会(エクレシア)」は、いつ始まったのでしょう
か。この問いに対する答を、私たちはイエス様が弟子たちに語られた、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16-18)という御言葉の中に見出すことができます。つまり、教会はイエス様が約束され、イエス様の弟子たちによって建て上げられていったのです。そして、イエス様ご自身が教会の土台であり、その建設者です。

 イエス様は、「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10-11)と語られましたが、私たち罪人を救うために、ご自身のいのちをお捧げになることにより、教会の土台となってくださったのです。教会は世の人々への証として十字架を高く掲げますが、実は主の十字架は教会の堅固な土台として据えられています。これまで、どちらかと言えば、天で私たちのために祈っていてくださるイエス様に向かって賛美を捧げることが多かったのですが、イエス様の十字架が教会の土台であると知り、私たちの立ち位置を感謝する思いにさせられました。

 イエス様はまた、教会の建設者でもあります。ご自身の土台の上に、私たち信者を呼び集めてくださり、御言葉の養いによって、教会を育み、建て上げていってくださいます。二千年前、イエス様はガリラヤ湖畔でシモンやヨハネに、「わたしについて来なさい。」(マタイ4-19)と声をかけられましたが、今なお、教会の働き人を招き続けておられるのです。

 かつて、傷つき、道に迷って途方に暮れていた私を迎えてくれた教会がありました。今、イエス様はここにも教会を建て、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と、1人1人をご自身のもとへと導いておられます。この神の事業に、私たちも参加させていただけるとは、なんと光栄なことでしょうか。ますます、教会を愛し、喜んで主にお仕えしてまいりましょう。


無題 | 14:51:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたを生かす「福音の力」を知っていますか?
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1章16節)
 
先日、中二の息子が「キャッきゃあ!」と声を上げて帰宅したので、何事かと思ったら、友達と「どんなパンがあるかなあ」とパン屋さんを覗き込んでいたら、車から降りた紳士が、「僕らに、このパンを買ってくれたんだ!」とのことでした。一昔前なら、よくあったような光景ですが、最近では、何かと警戒心が先立って、見知らぬおじさんから物を買ってもらうなどということは、あまり聞きません。その紳士はニコニコしながら、「頑張れよ。」と言って立ち去ったそうです。あんなに興奮して食べてくれたら、その紳士の小さな親切も、大いに報われたことでしょう。

なぜ、息子がパン二つのことで、あんなに「やったあ!」と言わんばかりに喜んだのでしょうか。彼はパン好きで、毎日のように、お目当てのパンを買いに行っています。彼をあれほど興奮させたのは、仲間とパンを覗いている時に、見知らぬ人からパンを買ってもらうという、思いがけない体験をしたからだったのでしょう。いつの日か、彼らもどこかで、さりげない親切のできる人になってくれるのではないでしょうか。

このように、1人の人の小さな親切であっても、意外なほどの波紋を起こすものです。ましてや、私たちが宣べ伝えているイエス様の福音は、どれほど失意に沈んでいる人たちに、希望への生まれ変わりを与え続けてきたことでしょうか。パウロは、この福音の恩恵について、「救いを得させる神の力です。」(ローマ1-17)と証しています。

時々、おぼれたわが子を助けようと飛び込んだ父親がおぼれてしまうという、悲しい出来事を耳にします。どれほど子どもを愛していても、人の能力は万能ではないのです。しかし、イエス様の福音には、「信じるすべての人」を、罪と滅びの中から救い出す力があります。

私たちはイエス様への信仰に立って、前向きに生きている人に会うと励まされます。また、讃美歌を歌っていると、かつて信仰に歩まれた先輩クリスチャンたちの喜びと希望を追体験できます。こうした交わりによって、私たちもまた、「信仰によって生きる。」(ローマ1-17)者として、少しづつ成長していきます。

教会の礼拝は福音の力をいただく場です。心新たにされて、一週間を始めることができます。今週も、この福音の力に満たされて、天の御国への旅を続けてまいりましょう。


無題 | 17:18:45 | トラックバック(0) | コメント(0)