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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「恐れ」が人を謙遜にする!
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、(ピリピ書3章13節)
 
 先日は金環日食の話題で持ち切りでした。太陽が黄金のリングのように輝く天体ショウを一目見ようと、日本中の人々が空を見上げたようです。それを見ようと楽しみにしていた人たちに、繰り返し、「太陽を直接見ないように。」との警告がされていました。網膜を火傷して、失明の危険さえあるとのことです。

 それを聞きながら、私は、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1-7)という御言葉を思い出していました。単なる好奇心から、軽率に太陽を覗き込もうとすれば、その強烈なエネルギーに眼を射抜かれてしまいます。それと同様に、神に近づこうとする者には、「主よ。あなたの道を私に教えてください。」(詩篇27-11)という、謙遜な信仰の姿勢が必要なのです。

 先週の学びに出てきた律法の専門家は、不遜者の代表のような人でした。彼は、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(ルカ10-25)という重大な質問を、イエス様を試す道具として使ったというのです。実に軽率であり、恐れを知らぬ態度ではありませんか。

 彼は、イエス様の問いに、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めを諳んじて応えました。しかし、イエス様が彼に気づいてほしかったのは、「では、あなたはその戒めを、どれだけ実践していますか?」ということでした。これは、誰しもがハッとさせられる質問ではないでしょうか。

 私たちの暗唱聖句においても、覚えるだけで満足してしまってはなりません。その御言葉に照らして我が身を顧み、御言葉の真意に近づけるよう、神の助けを祈るのです。常に初心に立ち帰り、信仰の高嶺を目ざして歩を進めていこうではありませんか。


無題 | 20:29:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
進んで仕える喜び!
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ伝20章28節)
 
 先週は、母の日感謝礼拝につづいて、持ち寄りのランチョンをしました。お母さんたちにはゆっくりしていただいて、お父さんたちが「ごちそうを作って」というわけにも行かず、結局はご婦人がたに、朝早くから活躍していただくこととなりました。おかげ様で、テーブルには稲荷寿司、豆ごはん、サンドイッチ、天ぷら、ババロア、フィリピンのデザート、果物などが並び、話題も健康レシピの紹介、信仰の証、初孫さんの写真紹介などと、楽しいひとときとなりました。お誘いで加わってくださった方が、「大勢で食べると、おいしい!」と言ってくださったので、忙しい思いをされた姉妹たちの奉仕は報われたのではないでしょうか。

 学びは「ペテロのしゅうとめの癒し」(マルコ1章29~31節)でしたが、その中で、イエス様によって熱病を癒された婦人が、さっそく「彼らをもてなした。」(31)という場面が出てきます。おそらく婦人の病はかなり重かったのではと推察されますが、元来働き者であったのか、よほどイエス様への感謝が、そうさせたのか、治るやいなや、イエス様と弟子たちに食事のもてなしをしたというのです。このご婦人は、救いをいただいた私たちにも、イエス様にお仕えする喜びを教えてくれているような気がします。

 今日、日本は高齢化社会であり、そうした方々に対する福祉サービスは極めて大きな関心事となっています。しかし、私はこのご婦人の姿の中に、幸せな高齢者の生き方のモデルがあるのではと思います。イエス様の救いをいただいて、感謝にあふれて奉仕している姿は、まさに、「水路のそばに植わった木のよう」(詩篇1-3)に、いつまでも初々しいにちがいありません。

 とは言っても、私たちの奉仕の原点は「イエス様の救い」にあることを忘れてはなりません。私たちが「罪過の中に死んでいた」(エペソ2-5)ときに、イエス様が私たちの人生に関わってくださり、抱えていた問題を一つ一つ解決してくださったのです。だから今、私たちは主に礼拝をお捧げして、「永遠のいのち」をいただいていることを感謝したいのです。

 やがていつの日か、私たちが介護される側に回る日もくるでしょう。しかし、そのことによって、主への奉仕が免除されるわけではありません。主への奉仕こそ、私たちの喜びそのものなのです。ますます、喜びと感謝をもって、イエス様にお仕えしてまいりましょう。


無題 | 19:53:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
こういうわけで、「お母さん」は尊いのです。
彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。(箴言31章25節)
 
 今日、五月の第二日曜日は母の愛と御恩に感謝する日として知られています。この美しい記念日はアメリカのあるバプテスト教会の日曜学校の教師だったあんな・ジャービスさんが、お母さんの召天記念日に、礼拝に集われた方々に記念のカーネーションを贈ったことから始まったそうです。この心のこもった感謝の行為は多くの人々の共感を得、ついにはアメリカの祝日として祝われるまでになりました。そして、今では、世界のいたるところで、感謝を表す日として親しまれています。

 誰1人として、母なしに存在している人はいません。私たちの命が育まれるために、神様は母を備えてくださいました。偶然の母ではないのです。私を養育する母として、神様が特別に選んでくださった母だから尊いのです。

 私は母が歳をとってから生まれた末っ子でした。「お母さんが若かったらよかったのに。」と思うことがありました。しかし、母は末っ子の私を偏愛してくれたような気がします。その母にイエス様を紹介することができました。今、イエス様の御用をさせていただいている私を、母は天で喜んでいてくれるにちがいありません。

 クリスマスと同様、母の日も商業化し過ぎてきていますが、その起こりがバプテスト教会の礼拝だったということを思い起こしましょう。そこでは、子どもたちへの聖書教育の必要が説かれ、その分野における婦人たちの働きのために祈りが捧げられました。今日、こうしてバプテスト教会で母の日感謝礼拝を捧げている私たちの中にも、その精神が受け継がれていかなければなりません。
 ハンナはサムエルが胎に宿る前から、彼の一生を神の御用に捧げました。(第一サムエル1-11) 若き牧師テモテは祖母ロイスと母ユニケのひたむきな信仰姿勢から強い感化を受けました。(Ⅱテモテ1-5) 私たちも教会に委ねられている子どもたちのために祈り、励ましの言葉を掛け続ける、「教会の母」の務めを果たしてまいりましょう。


無題 | 17:37:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
信じるなら、奇跡は起こる!
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。(第二コリント12章9節)
 
 先日、視覚障害者クリスチャンの会で、みことばの取り次ぎをさせていただきました。めったにお会いすることのない方々の前で、いささか緊張しましたので、自分をリラックスさせるためにも、手拍子をしながら、「ハレルヤ!主を褒めよ!」を、皆さんで讃美してみました。変わったことをする牧師だと思われたかもしれませんが、おかげで緊張も解けて、心を開いて聴いていただけたような気がします。

 来年の夏には、九州全域の視覚障害者クリスチャンの集いも福岡で計画されているそうです。こうした集いがクリスチャンだけの交わりにとどまらず、「死の陰の地」に坐し、「やみの中「(イザヤ9-2)を歩んでいる、まだ救いに与っていない多くの視覚障害者の救いの機会としても用いられるよう、私もできることをさせていただきたいと思います。

 私たちは弱い者で、とかく「できない」理由を数え上げがちです。イエス様の弟子たちも困難な状況を目にして、「「少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」」(ヨハネ6-9)と失望をあらわにしました。自分たちの手元にあるものを使って、そのおびただしい必要を満たせるなどとは、想像だにできなかったのです。

 しかし、少年の小さなおなかを満たすだけのはずであった、わずか「五つのパンと二匹の魚」が、ひとたびイエス様の手に握られたとき、それは五千人の空腹を満たして余りあるものとなりました。ですから、私たちも「できない」理由を上げることをやめて、今できること、持っているものをイエス様にお捧げしてみましょう。それを主は幾倍にもして、驚くべき御業をしてくださるのです。

 また、イエス様は、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6-27)とも命じられました。「神の国」建設への求人の招きが私たちにもかかったのです。光栄なことではありませんか。不安はあるかもしれませんが、「どうぞ、私を用いてください。」とお応えし、主に従う歩みを踏み出してまいりましょう。


無題 | 16:03:40 | トラックバック(0) | コメント(0)