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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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正しい道を選び行くために
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル書4章16節)
 
 先日、18歳の少年が引き起こした大事故に考えさせられています。無免許で、人の車を借りて、夜も寝ずに10時間も運転し続けた末の事故だと報じられています。今、本人は茫然自失で、「大変なことをしてしまった!」と言っているそうですが、どうして、これほど危険な行動が、どこかの時点で、誰かによって止められなかったものかと残念でなりません。

 家庭も、学校も、地域も、精いっぱいに務めを果たしてきたのでしょうが、力及ばず、あれほどの犠牲者を出してしまったのでしょう。私の心に、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6-23)という御言葉が浮かんできます。私たちの中に、「そんなこと誰でもしている」とか、「これくらいのこと」といった、罪の甘やかしが蔓延してしまっているのではないでしょうか。犯罪に至るケースはまれであっても、私たちの心の中には、いつ暴走を始めるかもしれない、醜悪な「罪」が住み着いていることを知らなければなりません。

 法律や規則を作ることによって、かなりの犯罪は未然に防がれています。そこで、校則に見られるように、細目に及んで、守るべき事項が定められています。心を見ることはできないので、表に現れた部分を正そうというわけです。それはもちろん、かなりの効果を上げることでしょう。

 しかし、パウロが、「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7-18)と告白したように、人の心には、わがままな「罪」が巣食っています。だから、神は救い主イエス様をお遣わしになり、罪からの救いの道を備えてくださったのです。己の罪に絶望していたパウロは、キリストへの信仰による確かな救いを知り、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7-25)と神を褒め称えることができました。

 私たちも、いつ暴走を始めるやもしれない罪人であることを認め、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブル12-2)でいましょう。また、悪の誘惑に陥りやすい「弱い者」であることを認め、日々、主の導きを祈りましょう。

 イエス様は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18-20)と約束しておられます。私たちが礼拝に集うとき、そこに主が共におられます。互いに励んで、救い主イエス様に心からの礼拝をお捧げしてまいりましょう。


無題 | 15:16:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
そこに、神を認めて生きる!
神よ。私を探り、私の心を知ってください。・・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139篇23、24節)
 
 最近、数人の皆さんから、その方々が経験しておられる深い悲しみや悩み、ご苦労談を聞かせていただく機会がありました。中には、お会いしたこともない方が、電話で辛かった日々を辿るかのようにお話ししてくださった方もあります。ミッションスクールで聖書を学んだことがあったので、どうしていいかわからなくなったとき、教会に電話してこられたのだそうです。私は、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)という御言葉から、神様の存在を認め、神様にご挨拶するようなつもりで、朝晩の祈りを始めてみるようお勧めしました。

 その後も、「信者でもないのに、あつかましく申し訳ありません。」と電話してこられますが、少しづつお祈りを始めているようです。私は、「あなたは既に、キリスト信者の生活を始めていますよ。」とお伝えしました。今は諸事情から、教会へ集えないかもしれませんが、日々の生活の中で、「イエス様の御名によって」祈っておられるということは、イエス様を救い主として、心にお迎えしているということです。イエス様は、「からし種ほどの信仰」(マタイ17-20)に目を留めていてくださるのです。

イエス様は更に、この、無きに等しいような「からし種」の信仰を活用すれば、「できないことはありません。」と、弱い私たちに約束しておられます。「苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46-1)とあるように、私たちの傍らには、いつも神の強い助けがあります。私たちの、ほんの「からし種」ほどの信仰にさえ、神は「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を」(マラキ3-10)注いでくださるのです。

 しかし、神はまた、私たちの信仰の質を見抜かれるお方であることをも忘れてはなりません。慎重に選び分けられたアベルの捧げ物は神をお喜ばせしましたが、無造作なカインの捧げ物は退けられたのです。アベルの捧げものには神への愛と尊敬が込められていましたが、カインは義務感から形を整えただけだったからです。

 私たちは敏感に人を見分けながら暮らしています。しかし、人の判断は不確かなものです。一方、神は的確に、人の心を見抜かれます。そして、その判断に誤りはありません。心を込めて、真実な礼拝を、主イエス様にお捧げしてまいりましょう。


無題 | 20:13:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を生かす力が、「ここ」にあります!
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ伝5章9節)
 
 しばらく、甘木の町は花見客でにぎわっていましたが、どしゃぶりの雨で「桜も散ってしまったかなあ!」と話しながら健康福祉館へ向いました。雨が幸いしたのか、温泉の入りは上々で、大勢の人たちに「春の歌のプレゼント」ができました。ご近所の方や掛け声係の常連さんもおられたので、アットホームな雰囲気で、なつかしい春の情景を楽しんでいただけたのではないでしょうか。しっかり六月の宣伝までしましたので、次回は更に大勢の方々にお会いできるのを楽しみにしています。

 最後に館長さんが言ってくれた「落ち着いた気持ちになりました。」という言葉が心に残っています。震災の影響もまだまだ、北ではミサイルが発射されたとか、日本を代表する大企業の相次ぐ赤字決算、誰もが落ち着いていられないような時代に、私たちの歌を聴いて、落ち着いた気持ちになれた人がいたとは、嬉しいではありませんか。イースターに聞いた、「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20-19)というイエス様の御言葉が、私たちの中に実現しているのでしょう。

 イースターの祝福についても書き残しておきます。今年はイエス様の十字架から復活、弟子たちの宣教派遣までを劇仕立てでしてみましたが、二千年前にタイムスリップして、その場にいたような感動をいただきました。特に、ご自身を十字架に架けた者たちのために父なる神にとりなしてくださった「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23-34)というイエス様の祈りが聞こえたようで、「ありがとうございます!」という気持ちいっぱいになりました。

 その後、失意の中にあった女弟子たちに天使が告げた、「ここにはおられません。よみがえられたのです。」(24-6)という知らせほど、パワーをいただけるニュースはありません。ジョイフルクワイヤのコーラスに、「私の仕えまつる神は、私と共に歩いてます!」とありましたが、イエス様は、いつも私たちと共に生きていてくださるのです。

 イエス様から直接宣教に遣わされたのは、わずか11人でしたが、今や、日本の片田舎に住む私たちまでが主の復活の証人とされています。人の心が蝕まれている時代に、イエス様の「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)の福音を、1人でも多くの人たちに証してまいりましょう。


無題 | 18:16:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
この「事実」が人を生かすのです!
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ伝20章21節)
 
 私たちは主の受難週、熊本の親戚を訪ねてきました。目的の一つは故F様の記念会を持ち、キリスト信仰の希望を証することでした。二年経っても、突然の別離の痛み癒えぬご家族と共に、「いつくしみ深き友なるイエスは」を讃美し、「一つ家族とされて、喜びも悲しみも共に分かち合えた歳月があったことを感謝しましょう。」とお伝えしました。死は苛酷であり、愛する人は返って来ませんが、イエス様は、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14-2)と語り、天の御国での再会を約束しておられます。

 義母の通うデイサービスで歌のプレゼントもさせていただきましたが、何人かのおなじみさんが手を差し出して、親愛の情を表してくれました。帰路に着く前には、義母がイエス様の復活の場面を読んでくれました。「まだ、こんなに聖書が読めるんだ!」と驚きました。「イエス様に心の真ん中に住んでいていただきましょうね。」とお伝えし、手を取って、主の守りを祈り、帰途に着きました。

 私たちは今朝、死を打ち破って復活された主イエス様を礼拝するために集まっています。どうして、二千年前、エルサレムで起こったことが私たちに、それほど大きな関わりを持つことになったのでしょうか。その話を聞けたことすら不思議なことなのに、それを一番大切なこととして信じているなんて、実に不思議と思う他ありません。

 イエス様の葬りの用意のため墓を訪れた女たちが発見したのは、空っぽの墓でした。そして、彼女たちは、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24-5;6)という天使の告知を聞いたのです。この知らせは、失意のどん底にあった女たちにとってさえ、信じられないニュースでした。次にその知らせは弟子たちにもたらされましたが、彼はは、「たわごと」(11)と決めつけました。なぜなら、彼らは極めて普通の感覚の持ち主であって、死人が復活することなど考えられなかったからです。

 ところが、彼らの真ん中にイエス様が立たれ、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。」(39)と、ご自身の復活の事実を明らかにされました。この事実が臆病な弟子たちを、大胆な「イエスの復活の証人」(使徒1-22)へと変えたのです。

 聖霊の助けによって、弟子たちは命がけで、イエス様に命じられた世界宣教へと出て行きました。その日から二千年、福音宣教のバトンは今、私たちの手の中にあります。この二千年の教会の宣教の歴史に思いをはせ、私たちに託されている使命を、しっかりと果たしてまいりましょう。


無題 | 20:21:14 | トラックバック(0) | コメント(0)