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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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今週はキリストの受難週です。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(第一ペテロ2章24節)
 
 四月は進学、就職と、フレッシュなスタートのときです。その最初の日が教会暦では棕櫚の日曜日(パームサンデー)になっています。エルサレムの民衆が棕櫚の葉を振りながら、「ホサナ!(私たちをお救いください)」と歓呼して、イエス様をお迎えした日です。しかし、その歓喜は代わって、イエス様の受難の週へと進んでいきました。

 どうして、あれほどイエス様の救いに期待して出てきた民が、あらん限りの声を張り上げて、「十字架だ。十字架につけろ。」(ルカ23-21)と叫ぶようになったのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られた目的と、民衆が抱いた期待とが、大きくちがっていたからです。人々は国を再興する政治的なリーダーを待ち望んでいたのに、イエス様は捕えられ、不当な裁判を受けても、ご自身を救おうとはされなかったからです。

 イエス様の弟子としてこの光景を目撃したヨハネは、彼の福音書において、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(12-24)という例えをもって、その理由を説明してくれています。イエス様は全人類の罪を負って十字架に架かり、私たち罪人に救いの道を供えるために来られた救い主だったからです。だから、ご自身を救おうとはされず、重い十字架を負わされて、苦痛を耐えて行かれたのです。

 そのとき、イエス様の十字架を負わされたシモンという男がいました。エルサレム入場の際、イエス様をお乗せしたロバの子のように、彼はイエス様の十字架を共に負い、御足の跡を辿ったのです。おそらく彼は、イエス様が十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34)と祈られる御声をも、傍近く聞いたにちがいありません。

 私たちもこの受難週、シモンが感じた主の十字架の重さ、私たちの罪のために流された血潮の尊さを、我が身にも感じつつ歩ませていただきましょう。そうすることによって、私たちの家族や友、隣人に対する愛が深められ、祈りが増し加えられることでしょう。主の受難週を有意義にお過ごしください。


無題 | 15:57:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
この世からの卒業、その後は?
神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(黙示録21章3、4節)
 
 三月は卒業式シーズンですから、高齢者施設での歌のプレゼントで「仰げば尊し」を、皆さんと一緒に歌いました。「どこの小学校を卒業しましたか?」と訊くと、いくつかの校名が聞こえてきました。歌い終わって、「卒業証書授与」と言ってあげると、嬉しそうな笑い声が上がりました。しばし、童心に返って、幸せなひと時だったのでしょう。皆さんがこの世から卒業する日も遠くないのを思い、最後の「神共にいまして」の讃美歌を、心を込めてプレゼントしました。

 英語のcommencement(卒業式)は、もともと「始まり」を意味する言葉です。卒園は小学生の始まりであり、小学校の卒業式は中学生の始まり、大学の卒業は社会人のスタートということになります。では、この世からの卒業は、何の始まりになるのでしょうか。

 私たちは一年前の故m兄の葬儀を思い起こします。息を引き取られる二日前、私は入院中の兄を訪ね、イエス様が語られた、「あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14-3)という御言葉をお伝えし、「これが最後かもしれない!」と思いつつ、兄の魂を主の御手に委ねる思いで祈りを捧げました。そのとき、眠っているとばかり思っていた兄が、「アーメン!」と、実に明快な声で応答されたのです。

 既にイエス様への信仰を告白し、永遠のいのちを授かっていた兄は、あの「アーメン!」をもって、主の御許へ召されてゆきました。あれは実に立派な卒業式でした。誰もが通過儀礼として、いくつかの卒業式を経験しますが、永遠のいのちの始まりである、罪からの卒業ほど祝福に満ちた日はありません。

 昨年の大震災が教えるように、人は、いつ、この世を卒業することになるか、わかりません。自分の意思で、はっきりと自分の卒業後の場所を確保しましょう。イエス様だけが、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11-25)と言い切ることができます。このキリストを心に迎え、永遠のいのちの旅をスタートしてまいりましょう。


無題 | 19:41:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
魂が癒される場所
イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。(マタイ伝4章23節)
 
 先日、ボランティア協議会の研修で、大分県久住町にある「パルクラブ」(知的障害者の就労施設)を訪ねてきました。高原の広大な敷地に福祉施設、牧場、いちごハウス、ぶどうハウス、ハム工場、温泉施設などがあり、私たちは豊後牛の焼き肉や、いちご摘みを楽しみました。残念ながら、地的障害を持つ方々と話す機会はありませんでしたが、うらやましいほどの好環境の中で、「優しい指導員に見守られながら働いているのだろうなあ。」と想像することができました。

 行き帰りのバスで臨席したご婦人との語らいも心に残っています。子どもさん方とのスリル満点の旅の思い出や、チャレンジのチャンスを逃さず、可能性を広げてきたことなど聞かせていただき、良い刺激を受けました。その他にも障害者のお子さんを持つお母さん、御主人を介護しておられる方などと話すことができました。楽しい日帰りの旅でリフレッシュされ、また皆さん、明るくボランティア活動にも励まれるのでしょう。

 今学んでいるヨハネ第二の手紙に、「命令とは愛のうちを歩むことです。」(6)という御言葉があるように、イエス様のお弟子とされた私たちには、いつでも他者の助けになろうとする、ボランティア魂が備わっているはずです。わざわざ世のボランティアグループに加わるまでもなく、教会そのものが、イエス様の働きに身を捧げ、失われている魂の救いのために働く「ボランティア 」なのです。

 イエス様がエルサレムの神殿を訪ねたとき、そこは「祈りの家」ではなく、「強盗の巣」(ルカ19-46)となり下がり、金儲けに悪用されていたとのことです。イエス様はそこに神の権威をもって立たれ、悪徳商売を追放し、人々が神との正しい関係を回復する場へと清めてくださいました。そうです。イエス様の教会は今でも、主イエス様が真ん中に立たれ、罪に苦しむ人々を招き、癒してくださるところなのです。

 私たちの町にも、イエス様の御言葉を実践する教会が立てられていることは神の恵みです。神様はこの地の人々にも、イエス様の十字架と復活の福音を聴いて、永遠のいのちの救いを受けるチャンスを与えておられます。イエス様を信じ、天国の希望を明確に持つ方々が起こされますよう、遣わされたこの地で、祈りと奉仕に励んでまいりましょう。


無題 | 18:08:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の復興・被災地の復興
わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ伝4章14節)
 
 あの東日本大震災から一年が経ちました。家族を失われたり、避難を余儀なくされたりした被災者の苦労の数々を思うと、「長く苦しい一年の闘いでしたね!」とねぎらいの言葉をかけさせていただく以外ありません。そして、この一年目の朝、ノアたちが箱舟から出たときのように、神のあわれみと守りを感謝して、全世界の人々と共に、主イエス様に礼拝をお捧げしましょう。被害は甚大でしたが、そこにも守りの御手があって、今復興へと歩み出しているのですから、神の御愛を感謝せずにはいられません!

 また、特に、原発の事故処理に当たっていてくださる作業員の皆さんのためにも祈りたいです。この方々こそ、私たちの平和な暮らしのために、最前線で戦っていてくださる兵士たちだと思えるからです。核エネルギーを平和利用している発電所でさえ、これほど甚大な被害が起こるのですから、それを兵器として使ったとしたら、その恐るべき結末は、誰の想像にも難くありません。原爆と原発事故を経験した日本こそ全世界に向かって、この重大な警鐘を鳴らし続ける責任があるのではないでしょうか。

 しかし、一年経つと、復興の兆しも現実味を帯びてくるようで、嬉しくなるような報道も聞くことができます。塩害をうけた農家が水耕栽培で野菜を生産しようとしていたり、放射能の影響をシャットアウトできる農業用工場の建設計画が勧められたりもしているそうです。「これは発想の転換だなあ!」と感心させられます。災害からの復興ではなく、全く画期的な発展の機会となるよう、神の助けを祈りましょう。

 先週、私たちは、「イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(マタイ9-35)という御言葉を学びました。その中で、イエス様のお働きの中心が常に、人々の心を神への信仰に導くことであったことに着目しました。病が癒されたり、患い事が解決したりすることは嬉しいことですが、それだけでは、本当の解決ではありません。ですから、イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6-33)と語られたのです。

 あの被災地にあっても、イエス様のお働きは続いています。遣わされたクリスチャンたちが、被災者の今の必要に応えながら、主の御教えに従って、「永遠のいのち」の福音を宣べ伝えているのです。私たちも置かれているこの地において、謙遜に地域に仕えつつ、主イエス様の十字架と復活の証人として、日々歩ませていただきましょう。


無題 | 20:32:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
正しい道を選び取る力を養うには?
朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇143篇8節)
 
 今頃は受験シーズンで、関係者にとってはハラハラドキドキ、気を病む季節です。「受験地獄」などとまで呼ばれた時代の反省から、「ゆとり教育」がもてはやされていましたが、その結果、物事を論理的に考えることのできない学生が増えてしまったと聞きます。つまり、浅はかな考え方しかできず、広い視点から物事を見れないということでしょう。今度はまた、振り子が「詰め込み」の方に振れ始めるのでしょうか。

 そもそも、なぜ教育は必要なのでしょうか。まず思い浮かぶのは、「正しい道を選び取る力を養うため」といった答かもしれません。確かに、何を食べるかによって健康度は左右されますし、誰と付き合うかによって、生活ぶりが代わってきますから、良いものを選び取る力が育っていなければなりません。

 より高い選択地からとしては法律の制定などがあるでしょう。先日、大阪の市立学校でも「君が代」の規律斉唱を義務づける条例が制定されたことが報じられました。日本には「君が代」を歌い、戦争へと突き進んで行った歴史があります。その中で、信条・思想の弾圧もありました。その悲しい過去を思うと、その歌を国歌として歌えないという人たちがいるわけです。そのような背景があるにもかかわらず、法制化してまで色を統一せずにおかないという政治の姿勢は、正しい選択と言えるでしょうか。

 私たちが信仰と生活の規範とする聖書には、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ12-2)という御言葉があります。日本は大震災、原発事故を経験し、困難に直面して、どう前進すべきかを、皆が真剣に模索しています。そんなとき、最も大切なことは、「神のみこころをわきまえ知る」ことなのです。

 「主のみおしえは完全」(詩篇19-7)とあるように、聖書こそ私たちの信頼する人生の道案内です。また、私たちは主イエス様から、「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6-9)と、神の導きを祈り求めるようにも教えていただきました。そして、これらによってこそ、人は正しい道を選び取る力を持てると信じています。

 イエス様が、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)とまで呼んでくださったクリスチャンたちの祈りと証は、決して小さ過ぎるものではありません。歩むべき道を求めてさまよっているこの時代に、「いのちに至る門」(マタイ7-14)であるキリストの救いを指し示してまいりましょう。


無題 | 19:44:57 | トラックバック(0) | コメント(0)