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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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晴れ晴れとした心にしていただきましょう。
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32篇1、2節)
 
 私は健康保持のため長年、朝の深呼吸をしてきました。それで十分だと決め込んでいましたが、ラジオ体操の仲間にもなろうかと思うようになり、始めています。忘れていた第二体操も思い出すことができ、少年に返ったような喜びと共に、また、一つ良い習慣を身に付けたような充実感を感じています。

 最近、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6-20)という御言葉が、いつも心にかかっています。主イエス様がいのちを懸けて救い出してくださった私であると思うと、大切に手入れして、神の栄光を現わしたいと思わされます。そこで、ラジオ体操も朝一番に、神の栄光を褒め称えるつもりでしてみると、更に新たな感動を味わうことができました。

 先日、ある犯罪被害者の御遺族の方が語られていた、「犯罪が起こってしまったとき、犯人も、被害者も、その周辺の人々も、皆が敗者なのです。」という言葉の重さを感じます。そのような酷い犯罪の芽を育ててしまった社会そのものが敗者であるということでしょう。この貴重な証言は、私たちが人間の中に掬う罪を無視しては、平安に暮らしていけないということを教えてくれています。
 
 ある聖歌に、「あなたの罪あやまちは始末されてあるか?神なるキリスト・イエスを信じ救われたか?」(417番)という歌詞があります。これは、すべての人に向けられた、極めて重要な問いかけです。神から離れている状態は、糸の切れた風船が漂うように、常に暴走する危険を孕んでいます。早く、権威ある主イエス様によって、「友よ。あなたの罪は赦されました。」(ルカ5-20)と宣言していただく必要があるのです。

 聖書の御言葉は、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55-6)と促しています。人生の日が暮れ行く前に、少しでも早く。主イエス様を仰いで生きる、天国へ続く道を選び取っていこうではありませんか。


無題 | 20:00:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
争い事を避けて、平和な日々を過ごすには?
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。(マタイ伝6章14節)
 
 バレンタインデーに、ある福祉館で「歌のプレゼント」をさせていただきました。ある懐メロを歌ったところ、「それは昭和11年の歌だ!」とおっしゃった方がありました。「そのとき、おいくつでしたか?」と尋ねてみると、「18だった。」とお応えになりました。あとで計算してみると、90歳を過ぎておられる方だったようです。何か大切な思い出に繋がる歌だったのかもしれません。

 もう1人の方は会の途中でお帰りになったのですが、帰り際にプレゼントを手渡してくれました。バレンタインデーだからと思われたのかどうかはわかりませんが、何か気持ちを表したかったのでしょう。最後に、恒例の「神共にいまして」の讃美歌を歌い、皆さんの守りを祈らせていただきました。

 こうして、皆さんが集まっておられるところを訪ねさせていただくと、「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。」(ルカ13-22)という、福音書の記事が思い出され満ち足りた気持ちになります。そのようなところに偉い人や、元気いっぱいな人はいません。遠からず、この世の旅路を終えていく方々です。そういう人たちが待っていてくれるかと思うと、共に過ごさせていただく一時間の重さを感じます。

 さて、先日、日曜学校で学んだ、「どのように争い事を静めたらよいか。」というテーマについても書き残しておきます。中学生を持っていると、時々、争い事が起こってしまうことを聞きます。まあ、そうなることが当然な年代の子たちではありますが、聖書が教えている「神の知恵」を覚えて、仲良しの友達関係を育てていってほしいものです。

 その学びでは、「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。(箴言17章14節)」という御言葉が暗唱聖句として掲げられています。また、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4-26)という教えもあります。早く仲直りして、争いの火種を翌日まで持ち越さないようにできれば、どれほど楽しく生活できることでしょうか。

 とは言うものの、私たちの中にも、不満や怒りがくすぶりやすいものです。幸い、私たちはイエス様が、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(Ⅰペテロ2-24)という福音を信じ、祈りという神の賜物をいただきました。二度と悪感情に支配されてしまうことのないよう、豊かな祈りの生活をして、争い事に巻き込まれぬよう努めてまいりましょう。


無題 | 19:32:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
「鷲のように翼をかって上る」ような生き方とは?
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23篇4節)
 
 小雪の舞う寒い日でしたが、健康福祉館で、「早春の歌のプレゼント」をさせていただきました。「こんな日は温泉が一番!」と思った方が多かったようで、会場はにぎわっていました。お子さんの声がしたり、新顔の方々が多かったりで、返ってくる反応も新鮮だったような気がします。最後の「また会う日まで」のときには、何人かの方々が手を振ってくれていました。今度は桜咲く四月に、また皆さんにお会いするのを楽しみにしましょう。

 演奏された曲目は、ほとんどが早春の名曲であり、聴衆の皆さんにとって親しみのある曲ばかりでしたが、5人そろって歌った讃美歌コーラスだけは、意外な感動があったのではないでしょうか。普段考えたこともない、「鷲のように悠々と上る」ような生き方があるなどと聞いて、不思議な歌を歌う人たちだと思われたかもしれません。私たちもかつては神を知らず、罪の泥沼でもがいていた者でしたが、今は高く引き上げられ、神様の広い視界を見る者へと変えていただいたのです。

 最近の報道によれば、日本の経済を牽引してきた錚々たる企業が、のきなみ大幅な赤字決算だそうです。発電に要する燃料コストも膨れ上がっています。どうなっていくのか、不安がよぎります。しかし、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」(イザヤ40-31)と歌っていると、神様の守りの御手に支えられているのを感じます。神様が語りかけておられる、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」(イザヤ41-10)という御言葉は、復活された主イエス様を信じる私たちに、希望を持って前進する勇気を与えてくれます。

 一方において、神様は根拠のない楽観主義をも、「平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6-14)と戒めています。正しい神様との関係を持たない状態が、いかに危ういものであるかについて、聖書は繰り返し警鐘を鳴らしているのです。

 連日聞かされている原発の危険、数えきれないほどの争いの火種に、不安を否めないのが現状ですが、イエス様だけが、「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16-33)と確かな平安を約束できるお方です。この救い主に信頼し、「世の光」として、キリスト者の務めを全うしてまいりましょう。


無題 | 17:56:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
苛酷な自然環境は、どこからきたのか?
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1章9節)
 
 気温は低いものの、寒風が吹いていなかったので、横田早起江さんの福音トラクトを配布して回りました。途中に麦畑を見かけたので、「今でも麦踏はするのかなあ?」と連れと話しました。野菜を採っている人がいたので尋ねてみました。「今は足では踏まずに、機会のローラーで踏むんですよ。」と教えてくれました。足がローラーに変わったとはいえ、やっぱり踏みつけてやらなければ、立派に育たないようです。一見、不条理と思われるような出来事も、「私たちが、たくましく育つためには必要な試練なのかなあ。」と思わされました。

 麦を作る農家の方々は、やがてくる方策を期待し、どのくらいの圧力で踏むのが一番良いかを心得ています。では、私たちが遭遇する苦難は、どうでしょうか。聖書は、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(Ⅰコリント10-13)と約束しています。私たちが最大限に神の栄光を表す者となるために、神様は必要なだけの負荷を与えておられるにちがいありません。

 しかし、大震災の苦難と闘っておられる地方に大雪が降り積もっていると聞きます。雪下ろしで命を落とした方々のことも報じられています。その方々の守りを祈りながら、どうして、これほどに自然が人の生活を脅かすようになっているのかと考え込んでしまいました。

 神様がこの世界を創造されたとき、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世1-31)と聖書は伝えています。神様は完全な自然環境を備えてくださり、その管理者として人(アダム)をお造りくださったのです。しかし、やがて神様はアダムに、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」(3-17)と告げざるを得ませんでした。それは、アダムとエヴァが神の戒めに背き、罪を侵したからです。

 こうしたことを聞くと、おそらく、ほとんどの人が、「なぜ、そこまで飛躍するのか?」と言うでしょう。しかし、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3-23)と、すべての災いが人の罪に起因していることを教えています。

 人々が神の前に謙遜にされて、私たちを罪の泥沼から救い出すために十字架に架かってくださったイエス・キリスト様を信じることができるよう祈り、働きましょう。神の赦しと祝福は、この世界が平和であり、人が幸せに暮らしていくための基なのですから。


無題 | 15:50:09 | トラックバック(0) | コメント(0)