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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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隔ての壁を打ちこわすもの
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ書2章14、15節)
 
 先日、人権に関する集いで「ふたたび」という映画を鑑賞させていただきました。ジャズ好きの青年がハンセン病を発病し、、愛する人たちから引き離され、60年もの歳月を療養所で過ごします。ところが、先ごろの法改正により、隔離から解かれて家族のもとへ帰り、ついには、念願のステージに立って、昔の仲間たちと共にジャズを演奏するのです。差別による悲しい別れがたくさんありましたが、それ以上に、次々と絆が回復されていく場面には、すすり泣きが、あちこちから聞こえていました。

 しかし、私は療養所内でイエス様の救いをいただき、讃美歌を歌う人に変えられたハンセン病患者の方々の証を読んだことがあります。その人たちは療養所を出ることなく人生を終えたかもしれませんが、イエス様の十字架の血潮によって、罪をきよめられ、天の御国へと凱旋して行ったのです。イエス様から、「子よ。あなたの罪は赦されました。」(マルコ2-5)と声をかけていただいてこそ、人はまことに自由の身となることができるのです。

 すべての人は、他者から「認められたい」という欲求をもっています。自分の価値が高く評価されることは、誰にとっても嬉しいことです。しかし、神様の、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-4)という御言葉は、人の称賛に優って、私たちの魂に安らぎを与えてくれます。

 人権運動の目的は、あらゆる面における差別や偏見を除こうとする崇高なものです。そして、こうした活動は、次第に聖歌を上げつつあります。しかし、残念ながら、人の許容範囲は極めて狭いのが現実です。すべてを赦し、同じように愛することなどできないのです。また、そうすることが、よいのかどうかさえ判りません。

 ただ言えることは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(Ⅰヨハネ3-16)ということです。愛のかけらすらなかったような者が、今は、人のために祈る者とされているとは、なんと感謝なことでしょうか。罪に縛られている魂がイエス様の福音によって解放されるよう、託されている働きを進めてまいりましょう。


無題 | 19:30:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
やみの中に輝く「光の子」
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ書5章8節)
 
 先週は私たちが所属する文化団体の年初の集まりがあり、参加させていただきました。その中で挨拶に立たれた方が、「震災後の混乱にせよ、外交上の難局にせよ、すべては「資本主義の矛盾に起因していると思う。」と言われ、文化活動の重要性について話されました。幸せの追求のターゲットを物の豊かさから、心の豊かさへと転換する必要を感じておられるのでしょう。また、人権キャンペーンのために編成された合唱団の最後の練習で、何人かの方々が、初対面の人たちとも、一つ音楽を仕上げていく中で、「とても満ち足りた時を持てました!」と感想を述べておられました。私たちが暮らし、子どもたちが育つ社会が、少しでも良い方向へ前進するようにと、さまざまな取り組みが為されています。

 ヨハネはイエス様を、「人の光であった。」(ヨハネ1-4)と紹介し、「光はやみの中に輝いている。」(5)と、そのお働きを説明しています。そして、イエス様は弟子たちに「力と権威」を授け、(ルカ9-1)、「神の国を宣べ伝え」(2)るために遣わされました。そして、今、私たちをも遣わしておられるのです。

 ですから、私たちも、やみの中に輝く「光の子」です。自分が光るのでなく、私たちの内に住んでいてくださる聖霊様が光を放ってくださるのです。何か 畏れ多くもあり、もったいなくもありますが、神様は私たちに、「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」Ⅰコリント6-20)と命じておられます。

 では具体的に何をすることが、「やみの中に輝く」ことでしょうか。それは、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)とあるように、今、あなたが置かれている場で、イエス様を主として生きることです。いただいた救いを感謝して主を讃美し、祈りの奉仕を続けるならば、どこにあっても、あなたは「やみの中に輝く光の子」なのです。

 イエス様は、「だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9-4)と語られました。主のために輝くことのできるのは、今このときです。今のとき、一隅を照らす主のしもべとして、それぞれの持ち場に立たせていただきましょう。


無題 | 18:33:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
何をしても栄える「幸いな人」とは?

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(詩篇1章2、3節)
 
 年も改まり、大震災からも10か月が経過しました。私たちのフェローシップからも、引き続き、援助に出向いていてくださる兄姉がおられることを聞き、励まされます。「兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。」(Ⅰヨハネ3-17)という御言葉に、ハッとさせられます。この年も、被災地の方々に心を寄せ、祈りはもちろんのこと、私たちにできる援助を続けさせていただきましょう。

 先ごろ、ある事件で逃亡を続けていた容疑者が警察に出頭したとの報道がありました。偽名を使って身を潜め、16年間、ただ逃げ隠れし続けていたのですが、今回の震災の報道を見聞きして、出頭を決心したようです。また、被災地にボランティアで入っていた青年が、その地に留まって、復興事業を興していきたいと話しているのも聞きました。あの震災がもたらした被害は甚大でしたが、そこから、何か良い芽がチラホラ芽生えてきているのを見つけたような嬉しさを感じました。

 電力不足もますます深刻になりそうですから、カイロを貼ってみました。小さな暖房ですが直接身に着いていますから、ホンワカと暖かです。聖書の御言葉を心に蓄えることも、同じような気がします。ふと頭に浮かんでくる御言葉が、ジワーッと心を温めて、信仰の希望を思い起こさせてくれるのです。

 私たちは先週、「幸いな人」について学びました。幸せな人は良い関係をもっています。家族、友達、隣人、同僚、仲間、これらの人間関係が恵まれている人は幸せです。しかし、最も大切なことは、その人が神様からの祝福を受けているかどうかです。どんな良い人間関係にも終わりがきますが、イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6-37)と約束しておられます。

 神の御言葉によって豊かに潤っている人は、「水路のそばに植わった木」に例えられています。「時が来ると実がなり」とは、その人の中にイエス様の豊かな品性が形づくられていく様を表しています。「その人は、何をしても栄える。」とは、実にすばらしい約束ではありませんか。

 聖書の御言葉に養われている「幸いな人」は、周囲にも祝福を分け与えます。ますます神様を褒め称え、迷える人々の救いを祈り、福音を証してまいりましょう。イエス様の救いをいただいた私たちこそ神を知る「幸いな人」たちなのですから。


無題 | 15:45:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
「とき」を活かして生きる!
機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(エペソ書5章16節)
 
 2012年の年頭に、私たちは「良い管理人」についてメッセージをいただきました。誰もが平等に授かっているのが「時間」です。ある人は、この時間こそが「いのち」だと言っています。確かに、与えられている時が尽きれば「死」となりますから、この理解は正しいと言えるでしょう。ですから、時をいかに活かすかに意識を注ぐことによって、その人の人生の質が決まってきます。

 昨年の大震災では2万人以上の人たちが突然、人生を閉じることとなってしまいました。それは予期せぬことでしたが、現実だったのです。あの悲劇から、私たちは多くを学ばせていただきました。その最たるものが、「今のときを活かして生きる」ということです。当たり前のように、明日が来続けるという保証がないことを痛感させられたのです。
 人それぞれ、能力や財力には異なりがあります。ところが、大忙しな人にも、暇な人にも、1日は24時間、平等に与えられています。この「とき」という宝を賢く用いることが、各自の責任にゆだねられているのです。

 私たちが「とき」を作り出しているわけではありません。神様が私たちを見込んで、投資していてくださると考えたらよいでしょう。私たちはその「とき」を運用して、決算報告をする責任を負っています。さて、私たちの時間運用は神様の目に適っているでしょうか。

 主イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6-33)と、時間管理の大原則を明らかにしておられます。あれもし、これもし、最後に余った時間があったら、「礼拝にでも行こうか。」という姿勢で、どうして祝福を期待できるでしょうか。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来る」(ヤコブ1-17)ということを覚えて、すべてに先んじて、主イエス様に礼拝をお捧げすべきです。

 イエス様は私たちを、「礼拝者として求めておられる」(ヨハネ4-23)と語られました。また、私たちに備えられた「良い行ない」(エペソ2-10)もまた、礼拝をお捧げする聖なる務めを指します。この1年、時間の良き管理者として、心を尽くして主にお仕えしてまいりましょう。


無題 | 15:37:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
中学生の48km貫走に励まされて

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル書12章1節)
 
 天地の創造主なる神が、私たちを希望の年2012年へと導き入れてくださいました。期待に心が躍ります。なぜ、私たちは希望を告白できるのでしょうか。御言葉が、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(詩篇106-1)と約束しているからです。私たちの信じる主イエス様は、「恵みとまことに満ちておられ」(ヨハネ1-14)るからこそ、年初に、期待でワクワクするのです。

 クリスマスに、息子の所属する中学野球部が耐寒マラソンに挑戦しました。隣の大分県天ケ瀬町から甘木中学まで、48kmを7時間半かけて走り抜いたのです。途中、道路が凍っているところもあったそうです。9か所で休憩し、応援の方々に励まされて、参加した全員が学校に帰還し、用意されていた豚汁をいただきました。日ごろのトレーニングの積み重ねがあったればの、快挙であったのでしょう。

 最近は市民ランナーも増えていますが、中学生としては記録ものではないでしょうか。それほどの難行をやってのけた経験は、身に深く刻みつけられて、おりおりに彼らを励まし続けてくれるにちがいありません。今年の活躍が楽しみです。

 彼らがどうして、それほどの距離を完走できたかといえば、それは一緒に走っている仲間がいたからです。お互いの足音を聞き、時おり、顔を見合わせるだけで、「よーし!」とファイトが湧いてきたのでしょう。私たちの信仰の歩みも同じです。同じ信仰に立つ仲間たちに励まされて、主イエス様の待つ天国への旅を続けているのです。
 今年は、その信仰の仲間が増やされることを期待しましょう。そのために、私たちが、「神のご性質にあずかる者」(Ⅱペテロ1-4)となることを目標としてみましょう。イエス様のご性質に似た者へと成長できるとは、なんと幸いなことでしょうか。

 世には神様の助けを求めている多くの人たちがいます。教会はその人たちにイエス様の救いの道を指し示すことができるのです。今年も、与えられる機会を活かして、「世の光」(ヨハネ8-12)なる主イエス様を証させていただきましょう。


無題 | 21:02:22 | トラックバック(0) | コメント(0)