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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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悲しみを癒すもの
神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(黙示録20章3、4節)
 
 市の人権集会で「サトウキビ畑」を合唱しようという呼びかけがあり、歌の福祉ボランティアをしている立場から、参加してみることにしました。この歌は第二次大戦の戦場となった沖縄のサトウキビ畑に立って、さとうきびが「ザワワザワワ」と音を立てて揺れる中、戦死していった父を思う歌です。その詞の中に、「お父さんて呼んでみたい。お父さん、どこにいるの。」という箇所がでてきます。この表現の中に戦争が引き起こす悲劇が描かれています。その子どもが経験した深い悲しみは戦後66年も経った今もなお、「この悲しみは消えない。」と歌われているのです。

 今でも世界には、戦争で親を失う多くの子どもたちがいます。本当に、あってはならない愚行であり、悲劇です。では、私たちは戦争がもたらす悲惨を感じることによって、同じような不幸を回避するために、どう行動していったらよいのでしょうか。

 ヒゼキヤ王は大国アッシリアによる脅しを受けたとき、その脅迫状を広げて、天地の創造主なる神に向かって、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」(第二列王19-16)と祈りました。その切なる祈りに応えて、神様は事態に介入してくださり、ユダは他国の侵略から守られたのです。

 私たちクリスチャンが「永遠のいのち」を持っている(Ⅰヨハネ5-13)ということは、どんな状況にあっても、「神が私たちの味方である」(ローマ8-31)ということです。これ以上に安心なことが他にあるでしょうか。私たちはこの特権に立って、神の導きを祈るのです。

 また、「この悲しみは消えない。」と嘆いている人の口から、「悲しみ尽きざる浮世にありても、日々主と歩めば、御国の心地す。」(聖歌467番)という讃美の歌が出てくるように、イエス様の救いを伝えてあげましょう。ただ悲しみだけを引きずって人生を終えては、もったいないです。

  イエス様の十字架の血潮には、深い悲しみの傷でさえ、洗い清めてくださる力があります。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6-2)なのです。主イエス様を心の王座にお迎えし、天の御国への道を踏み出していきましょう。


無題 | 15:33:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
弱っているあなたにこそ目が注がれています!
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。(ルカ伝15章4節)
 
 先日、福祉祭のゲストとして来られた立木早絵さんの講演と弾き語りを聴かせていただきました。2歳で失明という大きなハンディを背負いながらも、根っからのチャレンジ精神で、津軽海峡縦断、トライアスロン、キリマンジャロ登頂などを達成された18歳の明るいお嬢さんです。ピアノを弾きながらの歌も心地よく聴かせてもらいましたし、何よりも謙遜で、礼儀正しいそのトークに、聴衆の誰もが好感を持ったのではないでしょうか。

 特に、奉仕に出ていた中高生ボランティアたちには、良き発奮の機会となったのではと察します。1人1人が自分のキリマンジャロ、目標を定めて、一歩一歩努力を積み重ねていってほしいです。そして、私自身も、もう一度、目の前に立ちはだかる困難に向って挑戦していく勇気が与えられたような気がします。

 私たち教会は、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19-10)と語られたイエス様から使命を託されています。「失われた人」とは、どのような人のことでしょうか。まず、悩みに押しつぶされて、気力も萎え、失望しているような人たちの姿が思い浮かびます。そのような人たちをこそ、イエス様は見棄てておくことなく、捜し歩いてくださったのです。

 また、イエス様は、「「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(ルカ5-31)とも語られました。病人、弱さを持つ人の存在を、丈夫な人以上に大切にしてくださったのです。神様の愛とは人の思いと異なり、なんと慈しみに富んだものでしょうか。

 教育においても、職場においても、評価基準に達せず、落ちこぼれてしまう人たちが相当数います。ある特定の基準に達しないからという理由で、その人の全人格が否定されるような、薄っぺらな社会であってよいのでしょうか。救い主は、そのような人たちをこそ捜し出して、救うために来てくださったのです。

 イエス様の救いの知らせをお伝えする働きが、私たち教会に委ねられていることを感謝します。それは滅びに向かっている魂の救済事業です。クリスマスに向かって、この尊い務めを、喜びをもって果たしてまいりましょう。


無題 | 15:22:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
人として、この務めに生きる!
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。(詩篇100篇1、2節)
 
 先日、地元の中学校のクラス対抗合唱コンクールを聞かせてもらいました。クラスごとに指揮者、ピアニストが立てられ、どの発表も、夢と希望にあふれた合唱でした。若い命の羽ばたきを感じ、元気をいただきました。また、100歳の詩人として知られる柴田とよさんの詩二篇を、ご本人の心のこもった朗読で聞かせていただきました。母の励ましの声のようで、今も耳の奥に、その声が響いています。100歳になって、なお盛んに人を慰め、励ます、これは驚きでした。私もそんな生き方をしたいという夢を持たせていただきました。

 私たちも市民音楽祭での讃美歌コーラスの発表を終え、今度はクリスマスキャロルの準備です。柴田とよさんの100歳をしのぐ歴史を持つキャロルを歌い継ぐ働きが、私たちに委ねられています。光栄なことではないでしょうか。聖書の御言葉もまた、汲めども尽きせぬ「永遠のいのちへの水」(ヨハネ4-14)の泉です。ここから豊かに汲み出して、渇いた魂にお届けするのもまた、私たち教会に与えられた尊い働きです。

 神が人を創造されたとき、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(創世1-28)と彼らを祝福されたとありますが、そのとおり、世界の人口は増え続け、とうとう70億に達したそうです。大災害や感染症の多発にもかかわらず、人類はここまで地を満たすに至りました。では、果たして、神様は、この世界の現状をどのようにご覧になっておられるでしょうか。

 聖書は人が造られた目的を、「すべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ40-7)と明らかにしています。果たして、70億にも達した人々のうち、どれだけの人が、この創造者を知り、その栄光を褒め称えながら生きているのでしょうか。

 人があまりにも増えてしまったために、人に関する問題が多すぎて、人々が落ち着いて神を礼拝する余裕がないように見受けます。神を侮るその怠慢こそが、人々を苛んでいる罪の根であることに気づこうとしません。イエス様が、「めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」(マタイ23-37)と嘆かれたとおりです。

 幸い、私たちはイエス様の御救いをいただき、神様を中心に置く生き方へと軌道修正していただきました。今年も残された日は二カ月足らず、クリスマスに向かって、主イエス様の証人として、一歩一歩、忠実な歩みを続けてまいりましょう。


無題 | 19:14:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
「虚しさ」からの解放
あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ1章18、19節)

 今年も市民音楽祭において、ジョイフルクワイヤが讃美歌コーラスを歌い上げることができました。何人かの方々から、「信仰の歌だから、きれいですね。」とか、「讃美歌は音楽の基本ですからね。」などといった好評を聞くことができました。ある方がお誘いして聴きにきてくださった方も、「讃美歌もよかった!」と言っておられたそうです。4時間に及ぶ多彩な音楽プログラムの中に、イエス様を褒め称える歌が組み込まれていたことは、音楽祭全体に益したことでしょう。当日の讃美はホームページで聴くことができますので、アクセスしてみてください。

 私たちの音楽祭出演も、今回で5回目を数えました。この活動を通して、この地域の方々には、なじみの薄かった讃美歌の良さを、少しでもお伝えできてきているのではないでしょうか。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10-17)とありますが、讃美歌の持つメッセージが一般の市民の耳に、心に届けられることは、神が望んでおられることです。更なる奉仕の道が開かれるよう祈るとともに、良き捧げ物を心がけてまいりましょう。

 先週、私たちは「虚しさからの解放」について学びました。今の時代、この「虚しさ」に苛まれている人たちが多くあることを聞きます。そして、これは、自らの存在を否定する自傷行為にさえ発展しかねない、要注意の症状です。そこで、そこからの脱出法を聖書から見てみたわけです。

 ソロモン王は伝道者の書において、「空の空。すべては空。」(1-2)と、日々の営みを虚しいこととして描いています。どうして、彼はそれほど落ち込んでしまったのでしょうか。その原因ははっきりしていて、彼が神へのまっすぐな信仰を棄て、虚しい偶像礼拝に堕落したからです。彼の人生を豊かに祝された神に背を向ける生活に固執するようになったとき、ソロモンは生きる意味を見失ってしまったのです。

 それに反し、彼の父ダビデ王は、神様が彼を、「滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。」(詩篇40-3)と虚しさの沼から解放された喜びを感謝しています。人は神によって造られた者であり、神との強い結びつきの中で生きる者なのです。それが神の関わりを拒否するとすれば、電源を欠いた状態となり、すべてが虚しくなってしまいます。

 私たちクリスチャンとても、この虚しさと無縁であるわけではありません。ですから、「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ5-16)と促されています。「絶えず祈りなさい。」(17)とも。「すべての事について、感謝」(18)することも忘れてはなりません。これらを心がけて、充実した信仰生活を歩んでまいりましょう。


無題 | 22:02:59 | トラックバック(0) | コメント(0)