FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

09 | 2011/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

見出される喜び!
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(第一ペテロ2章25節)
 
 先日、ある施設の誕生会にお招きをいただき、歌のプレゼントをさせていただきました。その中で、今回は「見出された一匹の羊」(聖歌429番)を手話付きで歌いました。お歳をとられ、お独りになられ、その施設に迎えられたであろうお一人お一人の人生と重なって、「失われし羊は見出されたり」という歌詞が胸に迫ってきました。
皆さんがどのような暮らしをしておられたかはわかりませんが、今は手厚い看護を受け、楽しくお仲間たちと誕生ケーキを分かち合うことができる、また、私たちもその場に臨席して、讃美歌のプレゼントができる、ポツポツとした言葉のやり取りの中に、温かいものが通い合い、ほのぼのとした気持ちで家路に着くことができました。

 今、私の掌に96歳の方が折られた一つがいの折鶴があります。毎日折っておられるそうです。もう1人の93歳の方が、「大切にしてください。あの人のように長生きできますよ。」と言ってくれました。私も96歳になっても、あのお方のように、何か人に心のこもったプレゼントのできる者でありたいと思わされました。

 イエス様が語られ、ルカ伝に収められているたとえ話をモティーフに作られた讃美歌「九十九匹の羊は」は、神の愛を見事に表現した名曲です。「主よ、山道を辿る血潮は何ぞ?」という問いに、イエス様は、「そは一匹の迷いし者のためなり。いかに深き山をも分け行きて見出さん。」とお応えになっています。これらの歌詞はルカ伝本文にはなく、讃美歌作者の加筆ですが、イエス様がお伝えになろうとされた「神の愛」のメッセージを感動的に伝えてくれています。

 私たちもかつては、どう生きたらよいかが分からず、道を見失っていました。そんなとき、先輩のクリスチャンを介して、私たちはイエス様の御言葉を聞くチャンスを与えられ、このイエス様こそが「道であり、真理であり、いのち」(ヨハネ14-6)であることを知り、罪の泥沼から救われたのです。きっとその瞬間、大きな「喜びが天に」(ルカ15-7)に湧き上がったことでしょう。

 今日、私たちは市民音楽祭に参加し、5曲の讃美歌を歌おうとしています。どの曲にも私たちの身に為された神の救いの御業が表現されています。心からの感謝と、溢れる喜びをもって、主イエス様の救いのすばらしさを証させていただきましょう。


無題 | 19:38:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
この五言葉に立つ!
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。(イザヤ書40章28節)
 
 大震災で日本の製造業が停滞を余儀なくされていましたが、ようやく再開にこぎつけた矢先、今度はタイに進出していた工業団地が洪水で、先の見えない状態に陥っているとのことです。内に外に災難が待ち受けているかのようです。そんな中でも、福島の原発事故の避難準備区域が解かれ、学校が再開されたり、放射線の除染が本格的に始まったりという明るいニュースも報じられています。「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5-10)という御言葉を、今の日本への励ましとしても聞かせていただきましょう。

 大災害の中での日本人の冷静な行動ぶりが、世界から高く評価されました。しかし、そのような評価でいい気になっていて済むような局面ではありません。今こそ、私たちクリスチャンが「不動の者」として、神の御言葉の真理を証していくときです。神はまことに高慢の罪を「悔いた心」(詩篇51-17)をこそ受け入れてくださるからです。

 先週、私たちは聖書の最初の御言葉、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世1-1)を学びました。果たして今、私たちはこの御言葉に、どれほど感動できるでしょうか。世界の起源を知って、震える感動で、神の創造の御業を褒め称えることができるでしょうか。

 それどころか、非科学的なこととして、即座に聖書を閉じようとする人が多いのが現実かもしれません。だからこそ、「神を求める人はいない。」(ローマ3-11)と書かれているのでしょう。

 宇宙探査機「はやぶさ」が小惑星の砂を持ち帰ったことが多くの人々に勇気を与えました。では、それら宇宙のすべてをお造りになった神は、どれほど偉大なお方でしょうか。また、そのお方を認めようとしないことは、どれほど失礼なことでしょうか。

 「初めに神在りき」で出発しなければ、世界は矛盾だらけとなり、人は悩みの渦に沈んで行くばかりです。しかし、私たちがイエス様への信仰に生き始めるとき、神は私たちを恵みと祝福で取り囲んでくれます。神を敵に回して傷つくのでなく、救い主を心の王座に迎えて、「神との平和」(ローマ5-1)の中を歩んでまいりましょう。


無題 | 16:44:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
25年、これからに期待します!
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ伝3章17節)
 
 先日、暑いくらいの秋晴れの午後、健康福祉館で「秋のさわやか歌のプレゼント」をさせていただきました。後半には会場に「ヤッホー!」もこだまし合い、聴衆と一つになれたような気がしました。「こういう歌がいいねえ!」と言ってくださった方もあったとのこと、嬉しいかぎりです。

 ところが、いくつかのハプニングもあり、ひやひやドキドキもありました。たとえば、伴奏が流れなかったり、音楽に遭わずに、輪唱になってしまったり、その他にもいくつか。でも、それもこれもご愛嬌、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8-28)の御約束のとおり、「結果オーライ!」でした。今度は二か月後、クリスマスに皆さんに会えるのを楽しみにしましょう。

 先週の創立25周年集会も祝福のときとなりました。若者たちの聖書朗読に始まり、ひとりひとりの教会に加えられていることの感謝の証、ジョイフルクワイヤの溶け合ったコーラス、初代教会に倣うようにとのメッセージ、持ち寄ったおいしいお祝い料理を囲んでの楽しい語らいのとき、どれもこれも主の祝福豊かでした。当日のジョイフルクワイヤの讃美は、教会のホームページでお聴きいただけます。

 ところで、最近私は、いや、教会の皆さんが喜んでいます。それは長年の祈りが応えられて、熱心にイエス様の救いを知ろうとする青年たちが集い初めているからです。イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら「(ルカ15-7)、大きな「喜びが天にある」と語られましたが、教会にとって、「神の子ども」Ⅰヨハネ3-1)とされる方々が起こされることほど嬉しいことはありません。

 「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2-4)という御言葉に、人に対する神様の深い御愛が示されています。また、聖歌429番には、「いかに深き山をも分け行きて見出さん。」と、道に迷っている人々を捜し続けるイエス様の愛が表現されています。

 では、人の側はその愛に、どう応えたらよいのでしょうか。答は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14-6)と語られたイエス・キリスト様を信じて、歩み出すことです。そのとき私たちは、「見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5-17)と告白する、魂の生まれ変わりをいただきます。私たちの教会でも、イエス様の救いの御業が為されることを期待し、祈り続けましょう。


無題 | 15:11:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
使命を負って新たに出発!
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ書2章22節)
 
1986年秋に開所式をした教会は、今日、 満25歳になりました。こんなに長きにわたって、この地で、イエス様の福音が証しされてきたことを感謝します。この間、どれほどの福音の知らせが近隣の町々の各戸に配布されたことでしょうか。また、5年前には待望の新会堂も立て上げられ、清楚な礼拝の場も備えられました。こうして、25年をかけて、やっと宣教のための足場が整ったというところでしょう。

 主イエス様はコリントという町で福音を伝えていた宣教者パウロに、「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」使徒18-10)と励まされました。一見すると、私たちの周囲には、「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。」(マタイ11-17)と言われた人々のように、無反応な人たちが多いように見えます。しかし、深刻な問題を抱えて、藁にもすがるような思いで、助けを求めている人も少なくありません。私たちは、彼らに、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)という、イエス様の招きの声を届ける責任を負っています。

 先週、私たちは、異常行動のために、世間から相手にされず、自分をもてあましていた男が、イエス様に出会い、イエス様の足もとに、「正気に返って、すわっていた。」(ルカ8-35)というお話を聴きました。彼は一見、救いようのない異常者のように見えますが、「「いと高き神の子、イエスさま。」(28)と叫ぶことのできる信仰の人でした。最も大切な点において、彼は稀に見る正常な人だったのです。

 人は皆、生まれながらに罪人であって、どこかここか「いびつ」な部分を持っています。神様はそれをお見通しです。神様が人の中に着目されるのは、その人に、あの男のような、ひたむきなイエス様への信仰があるかどうかです。

 教会はこの日を機に、新たな思いでイエス様の福音を証ししてまいりましょう。まず、イエス様の福音にこそ、「救いを得させる神の力」(ローマ1-16)があることを確信しましょう。そして、まず私たち自身が、この福音から力を得て生活するのです。

 教会においてイエス様の福音が褒め称えられ、分かち合われ、語られているならば、福音には今なお、囚われた魂を解放する力があります。明日の教会に期待し、26年目をスタートしてまいりましょう。


無題 | 17:06:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
何にボランティアしますか?
ここに、私がおります。私を遣わしてください。(イザヤ書6章8節)
 
 先日、ボランティアグループと市長との意見交換の場、「市長と語ろう」という集まりがあったので、参加してきました。私は、ボランティアは自発的なものであり、独自の理念に基づいて活動するものだと考えていたのですが、今回の参加を通して、行政の施策とボランティアの活動が、うまくコーディネートされたなら、より良い町づくりにつながるだろうと思わされました。行政が旗を振ってボランティア精神を煽る必要もないでしょうが、ボランティアの心を持つ人たちが活躍しやすい環境を整え、バックアップしてあげたなら、地域福祉の質は、大いに向上するにちがいありません。

 事実、私たちの「歌のプレゼント」の奉仕も、行政の側にいた方の推薦があって実現し、今日まで4年近く続けてくることができました。これからも、イエス様の、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、」(マタイ5-16)という御言葉を土台としながら、さまざまな立場の方々の協力もいただいて、ボランティア活動にも力を注いでいきたいと思います。

 また、イエス様ご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20-35)と常々語っておられたことを心に留めるべきです。震災被災地の皆さんが台風被災地へ遠路出かけて、炊き出しをしたと報じられていました。まだまだ受ける側にいて当然な人たちが、進んで与える側に立ったのです。勇気ある愛の行為ではないでしょうか。帰り道、彼らの心は晴れ晴れとしていたことでしょう。

 では、イエス様の教会は何を与えることができるのでしょうか。その答はイエス様の弟子たちが語った、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3-6)という御言葉にあります。「ください。ください。」を連呼していた男に、立派に自立していくための力が与えられたのです。その力は今もなお、イエス・キリストを信じるすべての人に、確実に与えられます。

 原子力事故の結果、自然エネルギーの利用が叫ばれています。大いに研究が進むことを期待します。しかし、それ以上に、魂の救いを与える「神の力」(Ⅰコリント1-18)であるキリストの福音に、人々の関心が向けられるべきです。
 教会は来週創立25周年を祈念しようとしています。未だよちよち歩きの域を出ませんが、主が立て、用いていてくださることを感謝します。そして、これからもますます、神の御国建設のボランティアとして、喜んで私たち自身を捧げてまいりましょう。


無題 | 18:58:08 | トラックバック(0) | コメント(0)