FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

06 | 2011/07 | 08
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

心の汚染を浄化するもの
たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ書1章18節)
 
 福島原発事故によってまき散らされた放射性物質によって汚染された稲わらを与えられた牛から、基準値を超えるセシウムが検出されたということで、食の安全への不安が高まっています。かつて、海洋投棄された水銀が魚に取り込まれ、その魚を食べた人たちに水俣病やイタイイタイ病という悲惨な奇病を引き起こした史実が思い起こされます。しかし、今、水俣湾はきれいな海として再生し、漁業も営まれています。福島をはじめ、被災地の農業は受難のときを過ごすでしょうが、再び、「乳と蜜の流れる地」(出3-17)肥沃な地として生まれ変わる日がくることを信じます。

 こうした放射能汚染の浄化についてはその分野の専門家に譲るとして、ここでは、人間の心の汚染について考えてみたいと思います。パウロは人間の心が、「不品行、偶像礼拝、敵意、争い、憤り、党派心、分派、ねたみ」(ガラテヤ5-19 20 21)など、さまざまな罪によって汚染されていると伝えています。そして、今日、パウロの人間観察から二千年を経ましたが、果たして、心の汚染の浄化法は新たに発見されたでしょうか。それどころか、ますます人の心を汚染する考えや技術が世に根を張ってきているのではないでしょうか。

 神様がくださった罪の浄化法はイエス様の十字架の御業に信頼することの外ありません。バプテストのヨハネがイエス様を指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と宣言したとおり、罪のない神の御子は、人の心を汚染している罪を負って、十字架の罰を受けてくださいました。このことによって、罪の赦しの道が永遠に確立されたのです。

 では、罪に汚染された心がイエス様によって、どのように変えられるのでしょうか。パウロは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5-17)と表現しています。その人の心には、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)の実がなるというのです。両者の間の大きな相違は、なんと明らかなことでしょうか。

 大災害の結果、節電も求められますし、何かとストレスに曝される人々が増えることを心配します。すべての人がイエス様の十字架の血潮によって、罪をきよめられ、愛、平安、喜びといった聖霊の身に満たされるよう祈りましょう。そして、「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(詩篇106-1)と全地の主なる神を褒め称えることができるように。


無題 | 21:03:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
偽物を見分け、真実を選ぶ力
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ伝5章13節)
 
 息子の中学生生活一学期の終了を前に、水泳の授業参観がありました。お互いに声援し合うわけでもなく、黙々とクロールと平泳ぎで25メートルのタイムを取っていました。保護者の方でも安心して見ていられる時期になったようで、掛け声一つ聞かれませんでした。その後、夏休み中の生活と学習について、学校からのお話がありました。
 特に今、中学生の間で問題になっているのが携帯電話のようです。面と向かって話ができないで、携帯でこっそり有害な情報を流すようでは、先生方が憂慮されるのも当然です。「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5-8)とありますが、防犯などに役立つべき道具が、悪魔の手下になり下がってしまうとしたら残念です。

 大人であってもやましい情報と知りつつ、まんまと騙されてしまう人たちは後を絶ちません。ましてや、「こんなことを、どうして?」と思うような馬鹿馬鹿しい情報であっても、未成熟な子どもたちは信じてしまい、その誤った情報によって心を縛られていきます。私たちは、「聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3-16)という御言葉を基準とする者たちですから、この真理を証することによって、惑わしに翻弄されている人たちに救いの手を差し伸べていかなければなりません。

 ヨハネは教会に偽の教えが入り込んできたとき、どうしたでしょうか。彼はイエス・キリストとの信頼関係を最も大切な試金石としました。どんなに讃美かを上手に歌っても、イエス様を主としない人はあり得るし、社会奉仕に熱心であっても、イエス様に近づこうとしない人も大勢います。ヨハネはそのような人たちを、教会を構成するメンバーとして数えようとしませんでした。かえって、そのような人たちについて、「反キリスト」(22)とまで言い切ったのです。

 「教会はキリストのからだ」(エペソ1-23)であって、イエス様の御霊が「満ちておられるところ」であるべきです。私たちは「この世と調子を合わせ」(ローマ12-2)ることなく、「地の塩」として、世の腐れを防ぐ働きを担い続けてまいりましょう。


無題 | 21:19:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
最良のテキスト、最高の訓育とは?
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119篇130節)
 
 中学生がいますので、夏休みを前に、塾からの勧誘電話がかかったり、配られたチラシを見たりすることがあります。また、友達同士でも、塾通いの話題が出たりしているようです。そんなときに、教会ではテキストとしての「聖書の信頼性」について学びました。

 たとえば、ダビデは詩篇139篇において、神様がどのようなお方であるかを、実に詳しく書き伝えてくれています。彼は羊を飼う生活の中で、神様を深く体験し得たのです。彼の学校は自然の中の体験学習でした。彼は、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」(1)と実感を込めて、神様の存在を証しています。

 今、テレビやゲーム、マンガなどに浸っている子どもたちは、どのような詩を書き、絵を描くようになっていくのでしょうか。ダビデはそれらの現代の情報がない中で、いや、それらの世の影響かなかったからこそ、神様を身近に感じ、あふれる感動で、最高の知識について書き残せたにちがいありません。

 ダビデは更に、「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」(13)と自らの生命の誕生について証しています。くりかえしますが、ダビデは羊飼いをしながら、自然学校で学んだだけなのです。それなのに、彼は生命の起源について、重大な真理の証言者となり得たのです。

 また、ダビデの道徳性の高さにも驚嘆します。彼は、「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、」(24)と自らの内面の聖さを厳しく吟味しました。果たして、今、神の御言葉に照らして、己の心の在り様について熟考する若者が、どれだけいるでしょうか。自らの罪に気づき、イエス様の十字架の意味を知ろうとする人も少ないのが現実です。

 私は、聖書こそ、「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」Ⅱテモテ3-16)とお伝えしたいです。この夏休み、若者たちの柔らかい心が、「純粋な、みことばの乳」(Ⅰペテロ2-2)によって養われるよう祈りましょう。


無題 | 18:42:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
真の希望に立ち返りましょう!
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇17節)
 
 福島の原発事故の結果、放射能によって汚染された水が大量にたまり、またまた海へ流出かと心配しましたが、汚染水を浄化しての循環冷却システムが稼働し始め、今のところ、その危険は回避できているようです。二度と海を汚してほしくないし、水素爆発もあってはなりません。ですから、この終息作業に当たっている方々のために祈り続けています。人間の想定を超えて起こった事故ですから、安定化に向かうためにも、人間の知恵と技術を超えた、神様の助けを求めなければなりません。

 今、多くの人たちが住みなれた地を離れ、避難生活を余儀なくされていますが、「主に贖われた者たちは帰って来る。」(イザヤ35-10)という御言葉が、帰還の日の到来を予感させてくれます。この暑さの中、防護服に身を固めて作業に当たっていてくださる皆さんの労が報われて、状況が安定し、住民の皆さんが一日も早く、故郷の再建に戻れるよう祈っています。

 被災地から少しづつ明るいニュースが聞けることを神様に感謝します!気仙沼で水揚げされたというかつお、食べてみたいです。陸全高田で津波をかぶったぶどうの木が、たくましく復興し、順調に身を膨らませているそうです。受難をくぐり抜けた「ぶどう汁」を主の晩餐に用いさせていただきたいです。避難所に住みながら、瓦礫を束ねて、まきにして販売する人たちまで出てきたそうです。どれもこれも応援したくなります。

 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」(ホセア6-1)という御言葉が心に浮かびます。日本全体が今回の大震災により引き裂かれ、打たれました。そこで、私はお伝えしたいのです。「さあ、主に立ち返ろう。」と。イエス様の十字架のもとには赦しがあり、新たな生まれ変わりがあります。私たちが負った傷を包み、癒してくださるのです。

 今度の聖歌隊の新曲には、「この世に幸を満たすは主ぞ」という歌詞があります。病人に薬は特効を表しますし、国会で審議されつつある復興のための法律も力となることでしょう。しかし、人に幸せを実感させるのは神様の恵みです。信仰をもって、「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)に結びつき、心に天国を持つ人たちが起こされますよう祈ってまいりましょう。


無題 | 20:16:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
大切な備え
あなたはあなたの神に会う備えをせよ。(アモス4-12)
 
 月一度の地域集会で「大切な備え」について話しました。では、逆に、「備えをすることは大切ですか?それとも、何事でも、行きあたりばったりで十分ですか?」と問われれば、「備えあれば憂いなし」とあるように、誰もが準備することの大切さを認めるのではないでしょうか。ところが、イエス様はたとえ話の中で、「見事なまでに準備万端整えた男に向かって、「愚か者」と言われたのです。なぜだったのでしょうか。

 彼がどのような準備をしたかと言えば、豊作のときに、倉をいくつも建てて、何年分もの食料を蓄えたのです。これは今日で言えば、貯金をしたり、保険に入ったりしたということでしょう。イエス様は、こうした準備をしたことが愚かだと言われたのでしょうか。もちろん、そうではありません。では、彼の準備は、どの点において愚かだったのでしょうか。

 神様が彼に告げた、「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12-20)という御言葉が、はっきりとその理由を説明しています。彼は者を蓄えることにおいて知恵者でしたが、肝心な自分の魂の行く末を考えることのできなかった愚か者だったのです。

 更にイエス様は、「いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだから」(23)と、自分の魂を養うことに心を傾けるよう教えておられます。礼拝をお捧げしたり、祈ったりすることは、暇があるからするのでしょうか。それは、何にも優先してすべきこととして、時を分けてお捧げすべきものではないでしょうか。

 ズバリ結論を言えば、人にとって最も大切な備えは、しっかりと神のいのちに結び付くことです。それは、「まことのぶどうの木」であるイエス様のいのちに連なることです。また、それは「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)とも呼ばれています。

 私たちは聖書が、「万物の終わりが近づきました。」Ⅰペテロ4-7)と告げている時代に生きています。あなたは、この「大切な備え」をしていますか。主から「愚か者」と呼ばれることのないように、日々、「神の前に富む」生活を心がけてまいりましょう。


無題 | 17:44:31 | トラックバック(0) | コメント(0)