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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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立てられた任に忠実でありたい!
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。(マタイ伝25章21節)
 
 2011年の上半期が終わろうとしています。ここまで、年初の計画どおりに、物事は進んできたでしょうか。今年の場合、日本はあまりにも大きな「想定外」の災害に巻き込まれることとなってしまいました。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19-21)とあるように、3月11日の大震災の発生により、多くの計画が水泡と化してしまいました。そして、新たに突きつけられた課題と格闘し始めています。

 日本政府は原子力発電を増やすことにより、温暖化抑制を世界に公約したのですが、神様の拒否権が発動され、計画を根本的に修正せざるを得なくなっています。急加速で走ってきたものが、いきなりの180度の方向転換です。では、これで、今度は正しい方向へ進んで行けるのでしょうか。

 教会にとっての半年の歩みはといえば、主イエス様の「御翼の陰」(詩篇17-8)に守られてきたと感謝するのみです。何の妨げもなく、信仰の交わりを続けることができるのは、決して当たり前のことではありません。真剣な祈りと、たゆみない献身によって支えられていくものです。

 今、私たちはヨハネの第一の手紙を学び始めています。そこに、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(2-6)という御言葉があります。下半期に向かって、目標としたい御言葉です。イエス様の生き方、それは、「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」(マタイ20-28)であり、ご自身のいのちをさえ与えるほどの自己犠牲の実践でした。

 私たちの身の周りに、「イエス様が歩まれたように」と願いつつ生活している人は極めて少ないのが現実です。またそのことが災いの根であることにも気づいていません。イエス様は常に、「父よ。」と神の導きを求めるよう教えられ、ご自身も絶えず祈られました。この混迷した時代に、神の導きを求めることなしに、どうして光の道を進んで行くことができるでしょうか。

 原発事故の終息のために、危険を覚悟で作業に取り組んでいる方々がおられます。立てられた任務に忠実に従って働き続けているのです。私たちも「ひとりの罪人が悔い改める」(ルカ15-7)ために、委ねられた福音の務めを、忠実に果たしてまいりましょう。


無題 | 19:39:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
ひとりの救いのために働ける幸い
ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ伝15章7節)
 
 今回、カンボジア宣教の第一期を終えられたS先生をお迎えし、宣教報告会をさせていただきました。その交わりの中で、あらためてポルポト政権下におけるカンボジアの悲惨な歴史について知ることができました。わずか三年ほどの間に、知識人を中心に、国民の三分の一が虐殺されたとのことです。宗教や教育は有害なものとされ、徹底的な攻撃の対象とされました。「罪」には「的はずれ」という意味がありますが、全くの的はずれな暴挙がポルポト政府によって断行され、カンボジアは壊滅的な損失を被ったのです。

 そのような悲惨な時代から、まだ40数年しか経っていません。カンボジアの人々の心は、どれほど傷つき、生き方を見失っていることでしょうか。S先生ご家族は、そのようなカンボジアの人々と生活を共にしながら、イエス様の救いを伝えようとしておられます。多くの困難と闘わなければなりませんが、主がご一家と共にいてくださることを信じ、祈りの応援を続けましょう。

 ヨハネはイエス様を、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ伝1-14)と紹介しました。イエス様は高みの見物でなく、御自身、罪の世に来てくださり、人の痛み悲しみを味わってくださったのです。S先生も、カンボジア人と同じように生活しようと努力されたそうです。カンボジア語を学び、カンボジアの食生活をしてみようと。それはカンボジアの人々にイエス様を伝えるために必要だと思ったからです。

 しかし、私たちにとって、他者の立場に立ってみることは容易ではありません。それは、クリスチャンとしての信仰を危機に曝す恐れさえあることだからです。いくら友達になるといっても、その人が拝んでいるものを、同じように拝むことはありえません。つまり、依って立つ根がちがうのですから、枝も葉もちがうのです。

 先週、Y様がお訪ねくださり、30年前に慣れ親しんだ「聖歌を歌いたくなった。」と申され、一緒に数曲讃美しました。不信仰の迷いからイエス様からも、聖歌からも遠ざかっていたとのことですが、寂しさを感じる中で、無性に聖歌が歌いたくなったのだそうです。この世の歌ではなく、聖歌が歌いたい、それはイエス様の救いの恵みを味わったクリスチャンだからこその霊の渇きにちがいありません。

 良いことを始めるのに遅すぎるということは決してありません。聖書は、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)と直ちに、イエス様に従って歩み出すことを促しています。私たちは、やみの中に留まることなく、「光の子ども」(エペソ5-8)として歩み出しましょう。その決心を、神様は大いに祝福してくださるのです。


無題 | 19:34:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
「いのちの光」に照らされて
わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ伝8章12節)
 
 今月も恒例の健康福祉館での「初夏の歌のプレゼント」をさせていただきました。会場に行く途中で楽譜を忘れたことに気がついたり、開幕直前に伴奏のテープが一本なかったりで、ハラハラドキドキしましたが、神様が守ってくださり、事なきを得ました。慣れが出てきて、いい加減な奉仕をしてはいけないと自戒しました。始まってみると、聴衆とも相い和し、心和むコンサートとなりました。イエス様への信仰によって、私たちがいただいている「神との平和」(ローマ5-1)を感じていただけたのではないでしょうか。帰りがけに拍手で送ってくださった皆さん、また、八月にお会いしましょう。

 現代の世相の一面を表しているのでしょう「無縁社会」という言葉が使われ出してから久しくなります。年を重ねるごとに人と人との関わりが少なくなり、小さな殻に閉じこもっていく様子を表現した言葉なのでしょう。そんな人たちの温かな交流の場として、温泉付きの福祉館があることは、なんと幸いなことでしょうか。「無縁社会」などという言葉と無縁になれるように、私たちも進んで和みの場をプレゼントしてまいりましょう。

 詩篇の作者は、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(42-1)と神様への慕情を詩いました。この神を求める信仰の思いは、すべての人にあります。なぜなら、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」(創世2-7)のだからです。

 無縁社会が深行しているということは、人同士が関わり合うことに恐れを感じるようになっているということです。誰でも傷ついたり、裏切られたりを繰り返せば、人と関わるのが億劫になるものです。そんなとき、知ってほしいのは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6-33)という御言葉です。人にとって最も大切な関わりは、神を正しく知ることだからです。

 子どもが育っていく様子を観察してみると、お母さんとの関わりを基地として、だんだん社会性を拡げていっているのが見て取れます。それと同様に、人はイエス様への信仰をもつことによって、安心して、人との関わりを拡げていけるようになります。正しく神を知ることによって、私たちは人の不完全さを赦せるようになるのです。
 詩篇には「神を待ち望め。」という言葉が繰り返されています。どのような状況にあっても、イエス様は私たちの救いの希望です。このお方の中に力を得て、救いの道を指し示す証人として歩んでまいりましょう。


無題 | 20:01:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
奉仕できる立場の幸い
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ伝10章36、37節)
 
 今回、滝山BBCの「災害援助グレース」(SEG)に加わって、被災地でのボランティア活動に参加されたE牧師発のレポートを読ませていただきました。余震に怯えながら、床下に潜って、泥をバケツリレーしたり、炊き出しをしたり、被災地の子どもたちと関わったりされたそうです。イエス様の、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6-31)という御教えが実践されています。

 また、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2-13)という御言葉も真実です。通常の仕事をさておき、あらゆる必要品を準備し、長時間運転して奉仕地へ出向き、泥だらけになって奉仕する心、それはイエス様の救いから湧きだしてくるものであるにちがいありません。主イエス様は、これからも人の心を動かし、適切な援助の手を差し伸べてくださると信じます。

 役所の機能までが大きく被災している地へ、全国の市町村から応援の役人が派遣され始めたとも聞きました。客観的で、大胆な復興計画が実行されていくことを願います。皆が被災地へ赴けるわけではありませんが、応援団が傍らにいてくれるなら、被災地の皆さんは、どれほど勇気を与えられることでしょうか。

 同じ町内の方も支援活動を立ちあげ、手始めに不要となっている地所などを集めて、被災地へ送ろうとしています。何もかも失った方々も大勢おられるのですから、この奉仕も、きっとお役に立つことでしょう。身近なところにも、そのような思いやりが芽生えていることを知り、嬉しく感じました。

 よく、わが家で、「自分たちが、あのような状況になったら、どうするだろうか。」という話が出ます。その後の言葉が続かないのですが、被災された方々が身をもって、私たちがいかに恵まれているかを教えていてくれるような気がします。詩篇の作者と共に、「私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。」(75-1)と声に出しましょう。

 私たちのホームページには、被災地へ向けての応援の賛美歌が流れています。これが私たちができる励ましなのですから、それを続けましょう。草の根の思いやりは、波紋となって拡がっていきます。その一つ一つをイエス様が用いて、大きな御業を成し遂げてくださるのです。


無題 | 18:03:21 | トラックバック(0) | コメント(0)