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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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揺るがない希望
主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39-7)
 
 最近の礼拝に、ミッション系大学の女学生たちが集われました。四月の入学以来、チャペルの時間に讃美かを歌い、聖書からの訓話を聴き始めているそうです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道12-1)の御言葉をお伝えさせていただきました。今回は学校からの指示による来会でしたが、これからも進んで礼拝に集えますよう、お祈りさせていただきましょう。

 また、地域集会も久しぶりに開くことができました。震災後初めてでしたので、「揺らぐことのない希望」というテーマを掲げてみました。関東にお住まいのH姉が大地震の揺れのすさまじさを証してくださったこともあって、開いたひとつひとつの御言葉を、実感をもって聴いていただけたのではないでしょうか。「その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」(詩篇46-3)とは単なる文学的比喩ではなく、事実として起こる脅威なのです。

 津波に流されて行きながらも、老いた母のことが脳裏をかすめ、必死で「揺るがない」何かにしがみつき、助かった人が体験を話しておられました。彼は、「母を残して死ねない!」と、掴んだものを決して放さなかったそうです。私は人生の大波を受けたとき、聖書の御言葉を聞き、「これを握り締めなければ。」と思いました。そこには「揺るがない希望」があると信じたからです。

 私も人並みに激動の人生を歩んできましたが、若い日にイエス様を信じ、聖書を道案内の書とし、絶えず祈ることを学び得たことは、感謝しきれないほどの神の御恩寵でした。イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6-37)と約束されたごとく、私を支え続けてくださっています。これからも、私の「揺るがない希望」は主イエス様です。

 地震や津波は免れえたとしても、誰の人生にも試練のときは必ずやってきます。足元が掬われ、方向がワカラナクなってしまうほどのショックもありえるでしょう。そんな「わざわいの日が来ないうちに」(伝道12-1)、1人でも多くの人に不動の備えをしておいてほしいのです。

 イエス様の十字架の血潮は私たちの罪を洗いきよめてくれます。そして、イエス様の救いは「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)を約束しています。私たちが持つ、この揺るがない希望を、多くの人々に証してまいりましょう。


無題 | 15:24:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
方向転換のときではありませんか?
向きを変えて、出発せよ。(申命記1章7節)
 
 福島の産品に対する風評被害があるようで、郵便局が震災応援のキャンペーンをしています。そこで、我が家の食卓にも、喜多方ラーメンが登ることになりました。かなりの値引きをしての販売のようです。産地の皆さんのていねいな礼状まで添えられていました。さすがブランド品のラーメン、おいしかったです。
 

 その晩、ラジオを捻ると、仙台の八軒中学合唱部の生徒たちが歌ったという「あすという日が」という曲が流れてきました。被災のためにコンクール出場も断念した部員たちが、「生きることはすばらしい。あすという日があるかぎり」と、決意に満ちた歌声を響かせていました。あの真剣な歌声は年末の歌合戦でも感動を呼ぶのではないでしょうか。

 震災の損失は甚大なのですが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道3-11)という御言葉の真理が、少しづつ見えてきているように感じます。多くの日本人が虚飾に目を奪われて、本当に大切なものを見失っていたのではないでしょうか。ましてや、神に祈るまでもなく、何でも手に入ると錯覚していたのかもしれません。

 政府は原発依存の方針を転換することを決めたそうです。そればかりでなく、良かれと思ったことのいくつかが、まちがっていたと気づいたようです。いや、むしろ、この災害が気づかせてくれたと言うべきでしょう。更に言えば、神様が教えてくださったと悟るべきなのです。

 では、個人として、神の御言葉を求めて、教会の門を叩く人が増えたでしょうか。神のあわれみを願って、祈りに集う人は、どうでしょうか。残念ながら、まだまだそこまでの方向転換に踏み出す人は少ないのが現状です。
 私たちは、「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。」(ダニエル2-21)と暗唱しました。すべてを治め、歴史を導かれる神の御存在に気づく人々が起こされるよう、イエス様の下、祈り続けてまいりましょう。


無題 | 18:56:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
原発事故を、どう教訓とするか?
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6章23節)
 
 今回の大震災で壊滅的な被害を受けた三陸の海底を撮影した映像を見ていた漁師さんが、「ウニだ!ウニだ!ここにも、ここにも!」と歓声を上げていました。希望の光を見たあの漁師さんは、また養殖業の復興に立ちあがっていくことでしょう。大津波にも耐えて、海底に生息し続けたウニが、何にも優って、傷心の漁師さんに勇気を与えました。あの三陸沖は世界有数の漁場だそうです。私たち消費者は、あの新鮮な海産物の大ファンです。あの海底に残されたウニの生命は、ノアの洪水の後、オリーブの若葉を咥えて箱舟に返ってきた鳩のように(創世8-11)、三陸漁業の新たな夜明けの象徴となることでしょう。

 震災から二カ月が経ちましたが、なおなお難攻をきわめているのが福島の原発事故です。危険の最前線で作業を続けていてくださる方々に、「ありがとうございます!」という気持ちでいっぱいです。防護服に身を固めての作業は、これからの暑さの中で、どれほど苛酷なことでしょうか。福音書にはイエス様に向かって、「私たちをあわれんでください。」(マタイ9-27)と叫んだ人たちが出てきます。私たちも作業が守られ、一日も早く原発が安定管理されるよう、天の神様のあわれみを祈りましょう。

 豊かな自然に恵まれ、良質な農産物を供給し続けてきた山村の皆さんが、放射能汚染のために涙の避難を余儀なくされています。いつ帰れるやも知れません。果たして、その地から生産される作物が市場に出回る日が、再びくるのでしょうか。後ろ髪を引かれながら避難していかれる方々の怒りや悔しさが胸に迫ります。

 この出来事には、神様の警鐘を感じます。贅沢を追求する人間の欲望が、限度を越えてしまったのではないでしょうか。私たちはその罪を認め、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51-4)と、神の赦しを乞うところから始めるべきです。

 イエス様の十字架の血潮は、「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1-9)と、罪の赦しを約束しています。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1-18)と、希望の再出発をも告げています。この大試練を通して、1人でも多くの人が、イエス様のもとに立ち返ることができるよう祈り続けましょう。


無題 | 19:04:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
GW訪問の恵み
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。(使徒の働き20章35節)
 
 数日留守にするのが難しくなってきていますが、まだ息子の部活が本格的になっていなかったので、熊本の家族を訪ねることができました。備えられたロバの子号での初めての遠出でしたが、車内にゆとりを感じ、快適なドライブでした。一周忌を済ませたばかりのF様ご家族をもお訪ねしましたが、皆さんが悲しみを乗り越えて、家族いたわりつつ暮らしておられるご様子でした。それどころか、お米を持たせてくださったり、息子の入学祝いのプレゼントを用意してくださったり、相変わらずの細やかな心遣いをいただきました。私たちは仏壇を拝することはしませんが、天の神様にご家族の守りを祈らせていただきました。

 翌日は義母がデイサービスに行く日でした。朝お迎えに来られた所長さんに歌の慰問をさせていただけるか尋ねてみますと、大歓迎とのこと、急遽、歌のプレゼントをさせていただくことになりました。せっかく遠くまで行くのですから、皆さんに喜んでいただければ、来た甲斐があるというものです。15名ほどの利用者の皆さんは質問にも良く応えてくれましたし、「茶摘み」を歌いながら、「トントン」と手遊びをも楽しまれました。手話をしながらの讃美歌には、ひときわ見入り聴き入っているご様子でした。

 私の心には、パウロが語った、「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」(使徒15-36)という言葉が響いていました。関わりのある方々の安否を問い、祈ることは、私たちに課せられた大切な使命です。「あの人は、あるいは、あの人たちは、どうしているかなあ。」と思わされるときがあります。それは、聖霊が気づかせてくださるのですから、その人のために祈り、安否を問い、尋ねてみるべきです。イエス様が私たちを用いて、その方を導こうとしておられるにちがいありません。

 ゴールデンウィークを利用して、大勢のボランティアが被災地で奉仕されたそうです。何と有意義な休暇の過ごし方でしょうか。震災の惨状は眼を覆うばかりですが、悲しみの地にも、思いやりの花がいっぱい咲いたようで、嬉しくなるニュースでした。

 冒頭に、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と語られたイエス様の御ことばを掲げさせていただきました。そのとおり、イエス様は私たちの罪の身代わりとなって、ご自身のいのちを与えてくださいました。その尊い御愛によって生かされた私たちが、今度はイエス様の福音の証人として立つ番です。与える者の幸いを感謝しつつ、主の御用を務めさせていただきましょう。


無題 | 19:23:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
震災から復活への希望
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(第一コリント1章18節)
 
 先週、「希望の復活祭」特別礼拝をお捧げすることができました。例年は「イースター」という言葉を使っていましたが、今年は被災地の復活を祈る礼拝ということで、あえて日本語で「復活祭」とさせていただきました。今回の震災では、南北に500キロメートルにも及ぶ岩盤の破壊が起こり、大津波を引き起こしたと報じられました。私には、この激震と、イエス様が十字架に架かられたときの、「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27-51)という聖書の記述が重なっています。

 イエス様が私たちの身代りに十字架の苦難を受けてくださったときの衝撃は、どれほどだったことでしょうか。今回、海底で起こった岩盤破壊は、おびただしい数の人々を悲しみのどん底に突き落としましたが、イエス様の受難は、私たちを罪からきよめ、復活の希望に生きる者へと変えてくださいました。誰もが起こってほしくなかった今回の大地震ですが、そこから、キリストの十字架のメッセージを聴き取ることができるならば、この災いもまた、多くの失われた魂の救いに寄与することでしょう。

 人々は今、相次ぐ余震に脅かされています。本震の影響は長く人々を苦しめ続けることでしょう。しかし、私たちは、そこから心を転じることができます。十字架の上で私たちの罪の罰を受けてくださったイエス様は、「完了した。」(ヨハネ19-30)と宣言してくださったではありませんか。私たちはもはや、自分の罪の解決のために、何かをしようともがく必要はないのです。なぜなら、罪からの救いは二千年前、イエス・キリストの十字架において完了しているからです。

 私たちは、あの震源地にイエス様の十字架を立てることができます。そして、「勝利の十字架、ハレルヤ!はれるや!高く立てり、ハレルヤ!ハレルヤ!」(聖歌692番)と、神様の御愛を歌うことができるのです。
 この聖歌は「希望の復活祭」礼拝で、教会のジョイフルクワイヤによって讃美されました。大変力強い讃美でしたので、いの一番にホームページにもアップしました。大震災の苦難を通っている日本の人々が、1人でも多く救いに与ることができるよう、イエス様の十字架の救いを証してまいりましょう。


無題 | 16:28:14 | トラックバック(0) | コメント(0)