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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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美しい人生の締めくくり
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5章17節)
 
 去る3月20日早朝に、敬愛したM兄が主の御許へ召されてまいりました。91年の立派なご生涯でした。私が召される4日前に聞いた、故人の最後の言葉は「アーメン」と「ありがとうございました」でした。全力を振り絞っての信仰告白と、関わりのあったすべての人に対する感謝の言葉だったにちがいありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道3-11)と実感しました。

 85歳も越えた頃、娘様(T姉)の依頼を受けたO教会のN牧師が訪問してくださるようになったのですが、はじめは玄関払いだったそうです。しかし、先生の熱心さに、次第に心を開いて福音を聴くようになり、イエス様の救いをいただきました。やがて、美奈宜の杜に越して来られ、ご夫妻そろってバプテスマも受けられました。2006年のイースターの午後、ご夫妻が用意してくださった祝いの弁当を、皆でいただいたのを、なつかしく思い出します。

 その後、持病の神経痛に苦しむ日々が続きましたが、今はその痛みからも解放され、「あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(ヨハネ14-3)と約束されたイエス様の御許へと、故人の魂は引き上げられました。「走るべき道のり」(Ⅱテモテ4-7)を走り終えての、天の住まいへの立派な凱旋です。

 教会を会場とすることは叶いませんでしたが、全面的に教会の指導の下、葬儀を導かせていただきました。葬儀屋さんにとって初めてのキリスト教式の葬儀だったそうで、見学のスタッフまでおられたとのことです。ご遺族はじめ、ご参集くださった多くの方々に、キリスト信仰の希望の何たるかを証できたのではないでしょうか。

 今後私たちには遺灰もありませんし、遺骨を拝むこともしません。しかし、折に付け、故M兄の思い出を語り合うことができます。そして、やがて、私たちにも天の御国へ移される日がきます。そこで先に召された兄姉と再会できるのです。ですから、キリストにある死は、しばらくの別れにすぎません。

 聖書は「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道3-2)と伝えています。教会が、これらの厳粛な「とき」に関わらせていただくことを感謝します。これからも、1人でも多くの魂が主の御許へ凱旋できますよう、イエス様の福音を証してまいりましょう。


無題 | 15:53:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
この後方支援の奉仕を共にしましょう!
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(第一コリント1章18節)
 
 去る11日に発生した未曾有の激甚災害で被災された多くの方々に心よりお見舞い申し上げます。また、命がけで救命活動に当たっていてくださる方々の尊いお働きが支えられますよう、お祈り申し上げます。聖書には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道3-1)とありますが、誰もが、「あの海底地盤の変動の瞬間だけは来ないでほしかった!」と考えているのではないでしょうか。しかし、自然界は人の都合に関係なく活動しています。私たちはどんなに酷く思えることに対しても、起こった事実を受け止めて、対処していかなければなりません。

 今、世界を震撼させているのが福島の原子力発電所の問題です。巨大津波に撃たれた結果、放射能漏れをきたしているとのことです。私も、不眠不休で事態の改善のため闘っておられる技術者の方々のため、全能の神の御助けを祈り続けています。この二次災害だけは食い止めていただきたいと、全世界が祈っているにちがいありません。

 巨大地震と、それに続く大津波は全くの自然災害であって、誰もが責任の負いようがありません。しかし、原子力発電所は人が作ったものです。これについては、人の責任が問われることでしょう。
 
ペテロが用いた「人間の欲望」と「神のみこころ」(Ⅰペテロ4-2)という対比が心を刺します。人が原発を作ることは、果たして神のみこころに適っていたのでしょうか。それとも、人間の欲望の追求だったのでしょうか。誰かの責任を問おうなどということではなく、自分はどう考えていたのかを問うてみたいのです。

 私が震災前に選んでいた暗唱聖句は、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(Ⅰペテロ4-7)でした。
 
この御言葉は何を警告しているのでしょうか。それは、こうした非常事態の中にあればこそ、祈りの奉仕に専念すべき人々が大勢いるのだということです。刻一刻と緊急事態に対処しておられる現場の方々が、祈りのときを持つ余裕はありません。ですから、祈りの後方支援部隊が必要なのです。

 聖書を読み進むとき、私たちは人間の罪深さに気づかされます。しかし、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3-16)のです。ですから、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6-2)なのです。全人類の罪を負ってくださったイエス・キリスト様の十字架を仰いで、あなたも共に、全能の神のあわれみを祈りましょう。


無題 | 09:20:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
「最高の人生」とは?
よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。(マタイ伝25章21節)
 
 新しい教会案内「最高の人生を生きるために」の配布に出かけています。あまり尋ねたことのない田園地帯を回っていますので、行くところどこにも春の芽ぶきが待っていてくれます。菜の花は栄養価が高いと聞いたので、途中、土手にしゃがみ込んで摘んだりもしました。そよ風の季節の案内配布は心地よいです。何かの反応をいただけたら、更に嬉しいのですが。

 神様は私たちに「最高の人生」を生きてほしいと願っておられます。しかし、果たして、多くの人々が、そのような生き方を望んでいるでしょうか。「就職氷河期」などと評される時代にあっては、「せめて最低限の幸せを確保したい。」と奔走しているのであって、「最高」などは頭にないと言われてしまうかもしれません。

 しかし、私はあえて、「最高の人生って何だろう?」と問うてみてほしかったのです。だから冒頭に、「最高の人生とは人と比べて勝った負けたではありません。」と書きました。神様からいただいた人生を感謝して生きることこそ最高の人生であると知ってほしかったのです。

 ダビデは、「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32-2)と書き記しています。神様の前に心穏やかに立てること、それが幸せの第一条件です。イエス様を心にお迎えした人は、「あなたの罪は赦された。」(マタイ9-2)と宣言されています。クリスチャンの安心の基が、この御言葉にあります。

 ペテロは、「地上の残された時を、」(Ⅰ4-2)という表現を用いました。ハッとさせられます。とかく、私たちは貴重なときを浪費しがちだからです。過ぎてしまったことを、くよくよ考え続けても生産的ではありません。今、何かができるこのときに、イエス様のために奉仕させていただこうではありませんか。やがて、どんなに働きたくても働けないときが来るのですから。

 人からの称賛を得ることが最高の人生とはかぎりません。いやむしろ、それを追い求めることが的外れなのかもしれません。それよりも、置かれた場を大切にし、いつも「「神のみこころのために」(Ⅰペテロ4-2)と祈りながら生きている人こそ、最高の人生を生きている人ではないでしょうか。私たちもそのように、一隅にイエス様の灯火を灯す「良い忠実なしもべ」とさせていただきましょう。


無題 | 15:45:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
「心のストレッチ」とは?
私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。(詩篇119-32)
 
 今月の地域集会のテーマを「心のストレッチ」としてみました。厚着から解放されると、体をストレッチしたくなります。若葉も新芽もストレッチしています。雑草までもが盛んにストレッチする季節です。では、心はどうでしょうか。縮こまっていないでしょうか。その状態は目に見えませんので見過ごされがちですが、すべての人が「心のストレッチ」を必要としています。

 聖書にはイエス様によってストレッチの癒しをしていただいた女性が出てきます。彼女は18年間も腰が曲がって伸ばせなかったとのことです。痛みもあったかもしれませんし、見た目もよくなかったことでしょう。その結果、ついつい塞ぎがちになり、鬱々とした日々を送っていたのではないでしょうか。つまり、体の変形が続くうちに、すっかり彼女の心も歪んでしまっていたと想像されます。

 しかし、誰もが近づこうとしなかった彼女を、イエス様があわれんでくださいました。そして、「あなたの病気はいやされました。」(ルカ13-12)と声をかけ、手を置いてくださったのです。すると、「たちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」(13)とあります。腰がストレッチしたばかりでなく、縮こまっていた心までがストレッチされて、神の御業を褒め称えたというのです。

 人が最も縮こまった状態は死です。もはや決してストレッチすることのない絶望です。その逆に、どこまでもストレッチしていく希望の状態が、イエス様を信じた人がいただく「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)です。この二つの間には、どのくらいの隔たりがあるでしょうか。それは、永遠の笑顔と、永遠のふくれっ面とでも表現できるでしょうか。

 ペテロは人を委縮させている罪の解決について、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2-24)と伝えています。心のストレッチ、いや「魂のストレッチ」は、私たちの罪を身代りに負ってくださったイエス様の十字架によってもたらされるのです。その結果、私たちも聖書を愛読し始め、讃美かに感動し、祈りのない生活は考えられなくなりました。

 先日、ドライブ中に満開の菜の花の群生地を見かけました。私たちも負けずに、主イエス様を満開で讃美しましょう。これぞ最高のストレッチです。


無題 | 16:40:00 | トラックバック(0) | コメント(0)