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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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祈りは叶えられます!
「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10章15節)
 
 先日、高齢者のクラブからクリスマス会についての問い合わせをいただきました。お話によると、例年、クリスマスケーキ作りをしているそうですが、今年は教会の牧師にクリスマスの説教をしてほしいとの思いに至ったのだそうです。このような機会を導いてくださった神様に感謝して、さっそく打ち合わせに出かけました。結局、一時間ほどのクリスマス会を五日間持たせていただくことになりました。なかなか教会に足を運べなかった方々のために、クリスマスの出張サービスの機会が与えられたとは、神様の不思議なお取り計らいではありませんか。あれこれ、今、最高のプログラムを立案中です。

 また、博多南教会で行われた「クリスチャンと日本の習慣」と題するセミナーにも、パネラーの1人として参加させていただきました。特に、歳をとられてからクリスチャンになられた方々の多くが、それまでの伝統的な宗教との関わりについて悩んでおられるため、このようなセミナーが企画されたのでしょう。その中で、私が特に感銘を受けたのは、長年クリスチャンの迫害者だったお父様が死を直前に回心され、そのご葬儀までキリスト教信仰に基づいて行うことができたという、K先生の証でした。

 私も母をイエス様の救いに導かせていただきましたが、キリスト信仰に立つ葬儀を行うことは叶いませんでした。妻の祖母の場合もまた、同様でした。そうせざるを得なかったのは、親戚の中に、自分たち以外にクリスチャンがいなかったし、自分が喪主ではなかったからです。ですから、キリスト教で葬儀を行おうとすれば、喪主を務め、その責任を果たす覚悟と、そのことへの周囲の理解が必要でしょう。

 閉会後、あるご婦人と話す機会が与えられました。ニュージーランドに嫁がれた娘様がクリスチャンになられ、お母様にも教会に行くようにとのことで、教会生活を始めたそうです。既に、イエス様への信仰をお持ちのようでした。その姉妹はお母様に、なんと最高の恩返しをしておられることでしょうか。

 その他にも、ご家族を「先祖から伝わったむなしい生き方から」(Ⅰペテロ1-18)救い出そうと働いておられる兄姉がおられることに、大きな励ましをいただきます。私たちも身近な人たちの救いのために、クリスマスの主人公イエス様をご紹介させていただきましょう。


無題 | 16:23:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
人として、第一の礼儀は何でしょうか?
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3章6節)
 
 大学四年生の就職内定率が57%に留まっているとの報道がなされています。この数字は「就職氷河期」と呼ばれた時代を更に下回っているとのことです。何度トライしても門が開かれない学生たち、また、その親御さんたちの気持ちは察するに余りがあります。

 では、若者を取り巻く、こうした厳しい現状を聞かされて、「かわいそうだ!」と思っているだけでよいでしょうか。不景気のせいだけにしていて、道が開けるでしょうか。若者たちにかぎらず、私たちは皆立ち止まって、「自分には、何か大切なものが欠けているのではないだろうか?」と考えてみる必要があります。

 先日、息子の少年野球チームは優勝したにもかかわらず、監督から厳しい叱責を受けました。それは、彼らが審判さんに挨拶ができなかったからです。監督は、「野球以前の問題で、人間としての問題だ!」と大変がっかりしておられました。私はその場に居合わせて、親として恥ずかしさを感じました。

 聖書には、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1-7)とあります。野球の試合を取り仕切ってくれる審判に挨拶ができないようでは、プレーする資格が問われます。それ以上に、この世界をお造りくださった神様を無視して、勝手にふるまうことは、祝福を願う者にふさわしい態度ではありません。

 先週の暗唱聖句に、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ1-8)という表現がありました。この人は、どれほどの幸運に恵まれたから、ことばで表せないほど喜ぶことができたのでしょうか。生活のあらゆる面で不足がなかったのでしょうか。実は全く逆で、迫害を受けているような状況であったにもかかわらず、喜びで踊っていたのです。

 私たちもイエス様の「生ける望み」(Ⅰペテロ1-3)をいただいています。それは天において達成される希望です。だから、今のしばしの闘いをさえ喜ぶことができるのです。

 日本を取り巻く幾多の困難から察して、更なる受難の時代が続くかもしれません。しかし、「私たちには「生ける望み」(Ⅰペテロ103)があります。それは天において達成される希望です。これからクリスマスに向かって、イエス様の救い、私たちの「生ける望み」を証してまいりましょう。


無題 | 19:40:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
感動の祝福式でした!
子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。(ルカ伝18章16節)
 
 先日、小春日和の良き日に、K君の祝福式を行うことができました。りんとした顔立ちのK君は終始スヤスヤとお休みでしたが、皆さんの歓迎を受け、教会デビューを果たしました。式では、「子どもたちは主の賜物」(詩篇127-3)という御言葉を伝えさせていただきました。お父さんにはお父さんの、お母さんにはお母さんの役割があります。しかし、最も大切なことは、「成長させたのは神です。」(Ⅰコリント3-6)と、神の見守りに気づき、感謝することです。

 I兄姉にとっても、初めての内孫の祝福式を教会でできたことは、大きな喜びであったにちがいありません。習字を習っている小六のL君が記念に「K」と書いて、プレゼントしてくれました。早いもので、もう、そうした奉仕ができるまでに育ったのかと、これもまた感謝でした。また、教会の姉妹たちも集われ、喜びを共にされました。教会初出席のご家族の皆さんがたも、何度もお礼の言葉を残してお帰りになりました。

 イエス様は、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」(マタイ21-13)と語られました。また、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」(ルカ18-16)と、特に子どもたちを歓迎されました。ですから、教会は常に彼らのために祈り、事あるごとに、彼らを祝福する機会を持つようにしましょう。

 今、学び始めているペテロ第一の手紙には、「神の御力によって守られており、」(1-5)という御言葉があります。私たちは子育ての最中であれ、家族のためであれ、心配し出したらきりがありません。どんなにやきもきしても、為すべきすべのないような状況も多いものです。そんなとき、「神の御力」に信頼して祈ることのできるクリスチャンは幸いです。
 祝福式の記念にと、いくつかの御言葉を記した色紙をご両親に差し上げました。おりおりに見ていただければ感謝です。私たちには、まだまだ応えられていない祈りの課題が多くあります。それらの課題にすばらしい応えをいただけるまで、これからも祈り続けてまいりましょう。


無題 | 16:57:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
闇の中に、進んで明りをともしましょう。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4章12節)
 
 ジョイフルクワイヤが恒例の甘木朝倉市民音楽祭で、今年も讃美歌5曲を歌い上げることができました。W君(6歳)も初出演して、教会のイメージアップに一役買ってくれました。合唱、合奏合わせて20グループが演奏しましたが、その一つが私たちの讃美歌コーラスでした。指揮棒に合わせてでなく、まさに「聖霊による一致」のハーモニーだったのではないでしょうか。その聖らかな響きは、HPでお楽しみいただけます。

 今年のコンサートにも小中高生が大勢参加してくださったので、内容もバラエティに富み、グッと引き込まれて聴き入ってしまうような演奏が、いくつもありました。裏方でご尽力くださった皆さんも、ありがとうございました!私たちも来年は更に新しいメンバーを加えて、もう一度、あの舞台で心から主を讃美させていただきましょう。

 また、去る3日には「朝倉福祉の集い」が催され、初参加させていただきました。中で、市内のボランティア活動を紹介するビデオが流れ、私たちの「歌とトークのプレゼント」も紹介されました。社会に奉仕する機会を願っていた私たちに、主がこの門戸を開いてくださったのです。この奉仕の働きを通して、さまざまな生き方をしておられる方々にお会いできました。

 イエス様は、「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(ルカ4-43)と語られ、さまざまな事情を抱えて苦しんでいる人たちのもとへと出かけて行かれたのです。これが私たちの活動の原点です。先日も、ある高齢者施設で「数えてみよ主の恵み」を歌いながら、皆さんにも指折り数えの体操をしていただきました。聖歌がリハビリ体操にも使えることを初めて知りました。

 教会は今、こうした文化・福祉活動に関わりながら、キリストの救いのすばらしさを証ししようとしています。福祉では解決し切れない魂の痛みを抱えた人たちが大勢いるからです。イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7-37)と、心沈む人たちを招かれました。今度はクリスマスに向かって、この救い主をお伝えしてまいりましょう。


無題 | 20:24:27 | トラックバック(0) | コメント(0)