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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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人は、こんなにも美しく造られたのです!
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)
 
 先日の敬老の日に、M兄(91歳)をお訪ねくださった娘様ご夫妻、お孫様とひ孫様、身重のお孫様が礼拝に集ってくださいました。皆さんはどこかへお買い物に行こうとしたらしいのですが、イエス様ナビのお導きによって、聖書の大切な真理について聴くこととなりました。話していて、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道3-11)ということを思わされました。

 一方において、長年家族を見守ってこられたおじいちゃんが、次第に衰えつつあります。しかし、立派に成長されたお孫様たちに、新しい生命が宿り、生まれ、成長しつつあるのです。こうした方々に、神が最初の人を、どのようにお造りになったかを話すことができたことは、実に良いタイミングでした。

 人はアメーバや類人猿を先祖とする者ではなく、実に、「神のかたちに彼を創造し、」(創世1-27)とあるように、神の能力を映し出す者として造られたのです。自分の先祖は類人猿であると思うとき、人はどのような自己イメージを持つのでしょうか。逆に、「神のかたち」を持つ者として造られたと信じるとき、どのように生きるようになるでしょうか。神は特別に人に考える能力、感じる能力、選び取る能力を授けてくださいました。そして、神と語らう「友」として創造されたのです。

 しかし、残念ながら、今、人の中にあるべき「神のかたち」が著しく損なわれています。それは毎日のように見聞きする、人が引き起こす醜悪な出来事において明らかです。道徳的に完全に造られたはずの人が、どうして、お互い傷つけあっているのでしょうか。どうして、安心して、信じ合うことができないのでしょうか。それは、創造者に背を向けた罪の結果です。

 しかし、神様はもう一度、私たちを「神のかたち」に回復してくださいます。聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5-17)と伝えています。私たちはイエス様の十字架の愛によって、「神の友」としての立場に戻していただけるのです。

 初めて礼拝に集ったという1歳7カ月の坊やが、盛んに讃美歌に呼応していました。彼なりの賛美だったのでしょう。胎に宿っている生命のためにも、神の守りと祝福を祈らせていただきました。彼らが将来、自分の意志で、イエス様を信じる「救いの日」がくるように、私たちに委ねられた働きを続けてまいりましょう。


無題 | 19:53:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
こうして宇宙は始まった!
神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1章3節)
 
 いつもホームページで聖歌隊の賛美を流していますが、突然、更新ができなくなってしまいました。しばらく試行錯誤をくりかえしましたが、うまく行きません。そこで、助けていただけそうな方に事情を話しますと、見に来てくださるというのです。決して近い距離でないのに、「さぞかし、困っているだろうから。」という親切心から、そう申し出てくださったのでしょう。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121-2)という御言葉が浮かび、神様に感謝しました。

 短時間では完全な復旧というわけにいきませんでしたが、残りは宿題として持ち帰ってくださいました。中途半端な関わり方でなく、最後まで責任を持とうとする、その方の姿勢に、頭が下がりました。イエス様が、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10-42)と語られましたが、水一杯どころでない、この立派な奉仕に、必ずや豊かな報いをくださることでしょう。

 さて、先日、私たちは天地の創造という、壮大な学びをさせていただきました。人類の宇宙開拓の夢も、宇宙ステーションの建設計画などにおいて、着々と前進しているようです。では、宇宙そのものが、どうして生まれたかとなると、どのような有力説でも、まだ仮説の域を出ていないと解釈すべきでしょう。

しかし、私たちは聖書が告げる、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世1-1)という御言葉を信じています。偶然にエネルギーの爆発があって、宇宙の原型が生じたなどというよりも、神様が深い熟慮の中で、完璧な設計に基づいて、生命が躍動できる環境を整えてくださったと考える方が、私たちにとっては、はるかに納得できるのです。

 神が四日目に太陽を創造されることにより、時が生じ、季節が生じ、軌道を一回りして、一年を経るようになりました。また、ほど良い割合で構成された大気圏は、人をはじめとする陸上動物の生息に、最高の環境となったのです。聖書が、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19-1)と伝えているとおりです。

 この恵まれた環境に置かれていながら、「霊とまことによって父を礼拝する」(ヨハネ4-23)人たちが少ないことは、なんという忘恩でしょうか。私たちは、この罪深い世をさえ慈しみ続けてくださる、主イエス様の父なる神を、高らかに褒め称えましょう。


無題 | 20:26:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
死と「いのち」について考えてみましょう。
主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(詩篇145篇9節)
 着任以来11年間、働きを共にしてきた電話機が老衰状態となり、新機種を購入しました。以前からファックスの送信がうまくいかなかったり、通話に雑音が入ったりと、寿命かなと思える症状が出始めていたのですが、愛着のある同労機を、そう簡単に退職させることは、できませんでした。しかし、とうとう子機がウンともスンとも言わなくなるに至り、「長年、ご苦労様!」と労をねぎらい、その働きの座から下ろしてやりました。

 そんなことがあった夜、ラジオをつけると、葬式が多様化してきているという内容の番組が聞こえてきました。中でも、死者を直接火葬場に持ち込んで、そこで見送る「直葬」という形が増えているというのです。平均230万円もかかるという葬式費用のことを考えたら、やむを得ない選択なのかもしれません。番組を聴き終わった後、私が考えさせられたのは、その葬りの形以上に、果たしてその人はどのように生き、どのように死んだのだろうかということでした。自分が死んで、どこへ行こうとしているかについて聴いたことがあったのでしょうか。その人の手を取って、イエス様の御名のもとに、祈りを捧げる人が一人でもあったでしょうか。

 イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14-6)と、ご自身こそが、まちがいのない天国への案内者であることを証されました。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34)と、ご自身を十字架に架けた罪人たちのために祈られたのです。

 このイエス様の命を棄てるほどの愛と祈りによって、私たちは永遠のいのちの救いをいただいたのです。今度は、私たちが周りの人々の救いを祈る役ではないのでしょうか。どうにかして、イエス様の救いを紹介しようと働く番なのではないでしょうか。

 「無縁社会」などという寒々しい造語ができるほど、社会から忘れ去られる人たちが増えているそうです。この実態をイエス様は、どう見ておられるのでしょうか。イエス様は不安におののく人たちに、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14-1)と語りかけられました。私たちも、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と、救い主を紹介する役を果たしてまいりましょう。


無題 | 16:08:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
あのことも、このことも、感謝することはいっぱいあります!

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103篇2節)
 
 夏休みも終わろうという頃になると、親はついつい、宿題のことでガミガミ言うようになってしまいます。特に、何か作品を仕上げて提出するとなると、することが決まらないままに時間が過ぎてしまうようです。作文一つ書けないような、中味のない夏休みだったかといえば、決してそんなことはないのです。じゃあ、どうして書けないかといえば、感謝の心が育っていないからだと思うのです。

 イエス様は、「彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13-13)と語られましたが、私たちの心が貪欲になっていて、毎日の幸せを認められなくなっているのです。「こんな程度のこと、人に話せるようなことじゃない」とか、こういう筋書きで事が進んでいれば、作文にもなったんだけど。」というような態度では、どんなに素晴らしい出来事でも霞んでしまいます。そこには不満がくすぶっていて、文句を言いたいのです。これでは、本人もかわいそうだし、神様も悲しまれます。

 多くの人々が星野富弘さんの絵や詩に感動するのは、道端のペンペン草にさえ、神の恵みを見てとり、それを慈しみつつ表現しておられるからにちがいありません。心が高ぶってもおらず、卑屈でもないのです。素直に、ありのままの現実を感謝しているのです。

 こうして、あらためて私たちの身辺を見てみると、書き残しておきたいようなことがザックザックあるのに気づきます。それを話してみましょう。書いて発表してみましょう。「神のわざがこの人に現われる」(ヨハネ9-3)とは、このようなことなのです。

 まず第一に、イエス様が私たちの身代りに、罪を負ってくださり、私たちを滅びの穴から救い出してくださったとは、いくら感謝しても、し切れない神様の恵みではないでしょうか。私たちの心に既に天国が始まっているのです。この秋、多くの人々に、この救いの恵みを、私たちなりの方法で証しさせていただきましょう。


無題 | 15:02:13 | トラックバック(0) | コメント(0)