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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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試練には、こんなすばらしい意味があるのです。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ書5章3、4節)
 
 私たちが充実した毎日を過ごすためには、その日その日に心の整理をつけておく必要があります。たとえば、何かはっきりした目標を持っている人は、漫然として暮らしている人に比べて、学習力が高いはずです。この場合、一つの具体的な目標を掲げることによって、怠惰に引きずろうとする誘惑を断ち切っているわけです。

 たとえば、同じ野球をしていても、レギュラーになりたいと決心している子は、苦手を克服するための練習を進んでします。ところが、具体的な目標の定まらない子は、ダラダラとゲーム遊びの虜になって、時間を空費してしまうのです。まもなく、この二人のちがいは、いろいろな面に及んで明らかになってくることでしょう。このように、具体的な目標を言えるということが、成功への第一歩なのです。

 私たちはかつて、何のために生きていくのかがわからず、ずいぶん無駄な時間を浪費していました。しかし、聖書を人生の道しるべの書とすることによって、生きることの価値を知り、賢い時間管理ができるようになったのです。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世1-1)という偉大な事実を知り、神を褒め称えることが、私の第一の喜びとなりました。「平和をつくる者は幸いです。」(マタイ5-9)というイエス様の教えを学び、愚かしい争いごとから救われてきました。

 では、私たちが遭遇する「さまざまな試練」(ヤコブ1-2)は、どう受け止めて、心の整理をつけたらよいのでしょうか。聖書は、「この上もない喜びと思いなさい。」と教えています。「えっ、そんなこと無理です。」という反応が聞こえてきそうです。そのとおり、普通、病気や失業、身近な人との別離などを、「この上もない喜び」として受け止める人はいません。

 しかし、聖書を読み進んでみると、辛い試練の中で、神に信頼し、祈り続けていくとき、私たちは「成長を遂げた、完全な者」(1-4)となることが約束されています。さまざまな試練を、この上もない喜びと思うなどということは、高すぎる目標のように感じます。しかし、イエス様への信仰は、この高い目標をも可能にしてくださるにちがいありません。試練の中でも、「いつも喜んで」(Ⅰテサロニケ5-16)いられるクリスチャンに成長させていただきましょう。


無題 | 11:06:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
祈りは最高の奉仕です。
もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ伝18章19節)
 
 先の礼拝のさなか、私はO兄に二人の若者たちのために祈ってくださるよう頼みました。その一人が、野球の県大会に出場していたL君のためです。礼拝後、落ち着いた頃に電話をしてみますと、あるお母さんが大声で、「L君がホームランを打ったよ!」と教えてくれました。後でわかったことですが、それはほぼ、O兄が祈ってくださった時刻だったのです。結果、チームは優勝し、今夏、和歌山県で開かれる全国大会に福岡県代表として参加するのだそうです。

 一般的には、あの祈りとホームランの関係は「偶然の一致」と笑って済まされることでしょう。しかし、私は、そこに神様の祝福を見ます。それは、体調が悪いにもかかわらず、礼拝を尊守したO兄への神様の慰めでもあったのだと思えるのです。L君自身も聖書を読み、祈って出かけましたし、祈祷会で祈ってくださった兄姉もあります。少年の一本のホームランを、みんなが喜び合えるように、神様は祈りという形で多くの方々をも、あのホームランに参加させてくださったのです。

 翌日、私たちは美奈宜の杜の集いをしましたが、その中で、宮崎の口蹄疫問題のためにも祈らせていただきました。県が非常事態宣言をするような事態に、私たちが何ができるかと思ってはなりません。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5-16)というみことばが、私たちに、どうすべきかを教えてくれています。

 いま行じられている対策が功を奏することができるよう、全能の神の助けを祈りましょう。主は私たちに、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12-15)と教えておられます。静まって祈ることを通して、私たちは積極的に、他者の喜び・悲しみを共有する者として招かれているのです。

 今回の集いのテーマは「賢い心の整理法」でした。その中で語らせていただいたことは、まず、私たちの残りの日々が限られているということです。そして、「死後にさばきを受けることが定まっている」ヘブル9-27)ともあります。これらの真理に基づいて考えるならば、私たちの今の生き方は、どうでしょうか。主イエス様より負託された使命をしっかりと果たし、御前に立てるよう、真実な信仰の歩みを続けていこうではありませんか。


無題 | 20:28:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
「「母の日」に寄せて一言メッセージ
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(箴言31章30節)
 
 先日、長年、関係者の方々が切望してこられた「こどもと歌う朝倉讃歌」が初演され、その一部で、ジョイフルクワイヤが5曲の賛美歌メドレーを歌わせていただきました。今回は加われなかったメンバーもあり、4名でのコーラスとなりましたが、「イエス様の、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(Ⅱコリント12-9)という御言葉に励まされ、精いっぱいの賛美をお捧げしました。ストレートに信仰を歌った曲目であったにもかかわらず、賛美し終わったとき、大拍手がわきあがったので、「一般の方々にも通じたのだなあ。」と思い、主の祝福を感謝しました。

  太鼓のオープニング演奏の後、私たちの賛美がプログラムのトップでしたが、「全地よ。神に向かって喜び叫べ。」(詩篇66-1)というメッセージで幕開けがなされたことは、コンサート全体の流れとして、よかったのではないでしょうか。これからも、信仰遺産としての賛美歌のすばらしさを、多くの方々に紹介させていただきましょう。終演後、気持ちの良いご挨拶をくださった皆さん、コンサートの開催にご尽力くださった多くの方々、ありがとうございました!

 当日はまた、母の日でもありました。この美しい記念日がバプテスト教会から起こったということは誇らしいことです。どこの教会の成長の歴史を聞いても、そこには祈り深いご婦人たちの、熱心に主に仕える姿がありました。子どもたちに聖書を教え、教会を美しく整え、聖歌隊をリードしたのは、その多くが名もない、忠実な婦人信徒たちだったのです。私たちの教会にも、イエス様を愛し、教会と共に十字架を負い続ける、信仰熱きご婦人がたがおられることを感謝しましょう。

 今回は、花一輪のプレゼントも用意できませんでしたが、記念礼拝において、「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。」(箴言31-25)という御言葉から、祝福のメッセージを語らせていただきました。どんなに家族が問題を抱えていても、お母さんが神様の守りを信じて、ほほえんでいてくれたら、誰もが明日への希望を持つことができます。教会においても、一人一人のご婦人たちの真実な信仰が、主の教会を支えていてくださるのです。

 イエス様は、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(ヨハネ14-3)と約束しておられます。今、その日がいつであるか、私たちにはわかりません。しかし、その日は遠からず、やってきます。そのときまで、与えられた務めを忠実に果たしてまいりましょう。


無題 | 20:08:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
大切な人の死が教えてくれたもの
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ伝14章6節)
 
 伝道者の書には、「神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。」(3-14)とあります。身近な人の死に直面したとき、私たちは、このみことばの重みを実感します。泣けど叫べど、遺された人たちは、その「とき」の到来を認めざるをえないのです。そして、このみことばは、「人は神を恐れなければならない。」と結んでいます。

 「お葬式」という映画が多くの人々に観られたのは、もう二十年も前のことでしょうか。最近では、「送り人」という日本映画が、世界的な評価を受けたそうです。普通であれば、避けられる、人の死をテーマにした映画が、どうして、あれほと多くの観客を引きつけたのでしょうか。それは、人の死以上に、人に生き方を考えさせてくれる機会はないということではないでしょうか。ましては、現実の一人の死は、映画どころではなく、人の生き方を激しく揺するのです。

 故FH様の葬儀においても、故人に向かって、たくさんの「ありがとう!」や、「ごめんなさい!」が叫ばれていました。働き盛りの人の死を、誰も想像だにしていなかったのです。もっともっと、働いてくれるものと思い込んでいました。しかし、故人には、それ以上働くエネルギーは残っていなかったのです。

 私たちは、身近な一人の人の死から、何を学び取るべきでしょうか。聖書は、「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ5-16)と教えています。今、生きている人を大切にしましょう。「ありがとう!」も「ごめんなさい!」も、生きている人にこそ、意味のある言葉であり、愛と尊敬、感謝を伝えることができるのです。

 一人の愛する人が突如、世を去ってしまいましたが、私たちはまだ、地上に務めをいただいています。「望みのない人々のように悲しみに沈」(Ⅰテサロニケ4-13)んでいてはなりません。イエス様も、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9-4)と語られたではありませんか。

 私たちの務めは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11-25)と語られた救い主を証することです。イエス様に信頼する私たちこそ、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15-55)と勝利宣言できます。まだ、時の残されている今、教会が世に向かって道しるべの役を果たしてまいりましょう。


無題 | 18:21:50 | トラックバック(0) | コメント(0)