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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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人にとって、「信じる」ことの価値は?
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ伝14章1節)
  今月の地域集会では、「信じることの価値」について話しました。果たして、このテーマは、皆さんの関心を引き付けたでしょうか。というのは、昨今の世情を見るにつけ、「「やたらに信じちゃダメ!という警句の方が価値がありそうだからです。それだけ、疑ってかからなければ、身を守りえないような出来事が多いのです。

 では、疑うことが賢くて、信じることは愚かなのでしょうか。絶対に、そんなことはありません。そうでなければ、振り込め詐欺に気をつけるように注意されても、そのことさえも信じられないからです。ただ問題なのは、信じる価値のあることを信じるかどうかという点にあるのです。

 聖書の中で、「信じる」という言葉が最も多く使われているのが「ヨハネによる福音書」です。だからこそ、この書が最も愛読されているのかもしれません。特に、復活されたイエス様が、疑い深いトマスに語られた、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(20-29)という御言葉には、ハッとさせられます。「目で確かめられないようなことを信じろと言うのか。」という反論が聞こえてきそうです。

 しかし、そのトマスが、「私の主。私の神。」(20-28)と全き信仰を言い表しました。どうしてでしょうか。それは、イエス様がトマスが否定できないような姿で、彼の眼前に現れてくださったからです。聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11-6)と、人間にとって「信じる」ことが、いかに崇高な行為であるかを教えています。すべての祝福の源である神様を信じることなしに、人は決して幸せではあり得ないからです。

 私たちは聖書を通して神を知り、そのお方に信頼していくときに、人が弱く、罪ある者であることをわきまえ、赦し、愛せるようになっていきます。つまり、人を神のように盲信する必要がなくなるのです。結果、人を人として信じる、ふさわしい人間関係を持てるようになります。

 どれほど多くの人たちが「信じられない病」で苦しんでいることでしょうか。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14-1)と招いておられるイエス様を紹介させていただきましょう。このお方こそ、すべての人を永遠の祝福に導いてくださる救い主だからです。


無題 | 19:13:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
与えられている時を活かして用いましょう。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ伝5章16節)

 先日、私たちは、将来の墓地建設候補地としてA霊園を見学しました。イエス様の救いに入れられている「私たちの国籍は天に」(ピリピ3-20)あるのですから、何の心配もありませんが、遺骨をどこに埋葬してもらうかについて、準備しておけるなら、それもまた、キリスト信仰の良き証となることでしょう。墓地は教会から10分ほどの、日当たりのよい山の斜面に整備されていました。見学に参加された兄姉は、立地条件としては申し分ないと思われたのではないでしょうか。今後、教会の実態にふさわしいサイズの墓地を健闘してまいりましょう。

 墓地のことなど考え始めると、「ああ、私たちに残されている働きのときは、そう多くはないのだなあ。」と思わされます。イエス様が語られた、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9-4)という御言葉が浮かんできます。今まだ、私たちには力が与えられていて、主の証人として働けるのです。この「機会を十分に生かして用い(エペソ5-16)ようではありませんか。私たちの祈り、語り、誘いによって、神の救いに入る方が起こされるなら、これ以上の喜びはありません。

 先日、知人の方が責任者をしておられる高齢者施設で、歌の奉仕をさせていただきました。その中で、「幸せの秘訣は楽しかったこと、嬉しかったことを数えて暮らすことです。」と話し、手話も付けて、「数えてみよ。主の恵み」という聖歌を歌いました。最後に、その責任者の方が、「辛かったこと、苦しかったことばかり思い出して、鬱々としていたけれども・・・」と、涙ぐみながら、お礼の言葉を語ってくれました。その方は教会の場所をご存じの方ですから、いつか来られて、どうしたら、神様の恵みを感謝できるようになるのか、知っていただきたいです。

また、別の施設の誕生会に招かれて行ってみると、そこにも知り合いの方がおられ、お互いにびっくりでした。しかし、大変喜んでいただき、また、イエス様の証が一歩前進できたような気がしました。それぞれが置かれた場で、「イエス様、私を用いてください。」と祈るなら、主は必ず、道を開いてくださるのです。

 確かに「キリスト教」、「聖書」と聞くだけで、いやな顔をされる方があることも事実です。しかし、それは残念な誤解に基づいています。祈りながら、誠実に証を続けていくなら、その真価は明らかになっていくはずです。聖書には、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10-36)とあります。一回一回の礼拝、一つ一つの奉仕に真心を込めて、主イエス様にお仕えしてまいりましょう。



無題 | 14:39:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
応援の力・祈りの力

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ書5章16節)

 先日、皆さんとお墓の候補地を見学した後、息子の野球チームが大会の決勝に進出したとの連絡が入り、会場へと急ぎました。到着するや、応援のお母さんたちが、「L君が、どうのこうの・・・」と、興奮して声をかけてくれました。何をしたのかわかりませんでしたが、その声の調子から、活躍したらしいことが判り、喜びが込み上げてきました。ずっとスランプ続きで、レギュラーも危ぶまれていたことを知っていましたので、どんなに本人が嬉しかったろうと思い、その場で、神様に感謝の祈りを捧げました。後で聞いてみると、先制の2点タイムリー三塁打、更にダメ押し点に繋がる二塁打を放ち、チームの決勝進出に貢献したのだそうです。

 その後の決勝戦でも1点差を守りきり、新チームは第2戦にして、優勝してしまいました。好プレー連続の白熱した決勝戦でしたが、私が感動したのは、子どもたちのプレーだけではありません。それは、周りにおられたお母さん、お父さんたちの声援ぶりです。その方々のお子さんたちはグランドに立っていなかったのです。チームの仲間とはいえ、自分の子が出ていない試合を、選手たちの一挙手一投足を認め、励まし、慰める、その応援ぶりに、「これでは負けるはずがない!」と思わされました。その晩には盛大な祝勝会が開かれ、選手一人一人にスポットライトが当てられ、励ましの言葉がシャワーのように掛けられていました。

 では、私たち(教会)の交わりは、どうでしょうか。ローマ書の、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(12-15)は、どのように実践されているでしょうか。もちろん、互いのために祈り会うことにおいて、合格点であろうとは思います。しかし、あの応援団のような、励ましや慰めを伝え合っているでしょうか。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世32-26)と執拗に神に食い下がったヤコブのような真剣さで、互いの祝福を祈り合っているでしょうか。

 孤独死に象徴されるような無縁社会が進行していると聞きます。実に、悲しむべき状況です。私たちを通して、イエス様の声掛けを、させていただきましょう。イエス様は今もなお、私たちを通して、失われた魂を捜して、救おうとしておられるのですから。



無題 | 19:47:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
健やかなうちに、第一に備えておきたいことは?

機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(エペソ書5章16節)

 私たちは月に一度、地域集会を開いていますが、今回は「健やかなうちに、備えておきたいこと」というテーマで、お話しさせていただきました。さて、今朝の新聞に、就職を希望する高校生たちのうち、25.2%が内定を取れていないと書かれていました。これは、その子たちが準備不足であったことを示しているのでしょうか。必ずしも、そんなことはないでしょう。全員が準備OKであっても、不景気で求人数が少なければ、おのずから待機せざるをえない子どもたちが出てしまうわけです。つまり、どんなに周到に準備しても、社会的な状況ガ悪ければ、能力を試す機会さえ持てないということが起こってしまうわけです。これは、まことに残念なことです。

 しかし、各方面の方々が懸命に雇用を作り出そうとしていてくださるわけですから、この段階においては、これが精いっぱいの結果であると言わざるをえないのかもしれません。では、これに比して、神様の救いは、どうでしょうか。人が天国へ入れる可能性は何パーセントあるのでしょうか。聖書は、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10-13)と約束しています。己の罪を認め、イエス様の十字架の御業に信頼するすべての人は救われるのです。

 就活に回り続けても、職を得られない人の気持ちは察するに余りがあります。では、人はどれだけ真剣に、「主の御名を呼び求め」ているでしょうか。天国に入る道を示した案内を配布して回っても、それを真剣に読む人は少ないのが現実です。まして、救い主を信じようとして教会を訪ねる人はまれです。これでは、神様は救おうとしておられるのに、実際、救いに与る人たちは限られてしまいます。

聖書は「健やかなうちに備えるべきこと」として、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道12-1)と教えています。神を知るときは限られているのです。知りたくても聴くことも、読むことも、理解することもできないときが来るのです。そうなる前に、神を求めようではありませんか。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)と招かれている今のこのときにこそ、着々と、天国への備えをさせていただきましょう。



無題 | 11:22:25 | トラックバック(0) | コメント(0)