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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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祝福に通じる悲しみと、破滅に至る悲しみ

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第二コリント7章10節)

 先日、五年生の国語の授業を参観してきました。俳句を勉強していたようで、子どもたちが作った俳句がプリントされて配られました。子どもたちは、その中から、お気に入りの一句を選びました。朝起きて、雪景色を見た感動を詠った句、ランニング中に感じた春風の匂いを詠った句、霜柱を「ザクザク」と踏んで登校する様子を詠った句、朝の寒さに、一度出た布団へ、また潜り込む様子を表した句、桜咲く春を待つ気持ちを表現した句など、どれもこれも場面が思い浮かび、「ウンウン、この気持ちわかるなあ!」という名句ばかりでした。投票結果が出た後、子どもたちはその句を選んだ理由を発表しました。ああしたことを繰り返していくうちに、子どもたちの鑑賞力が養われていくのでしょう。美しいものに、いっぱい感動し、適切な言葉で言い表せる、情緒豊かな人になってほしいです。

 少年野球の応援に行ったりすると、監督がよく、「声を出せ!」と注意しています。声を出すことによって、縛りが解け、楽になるんだそうです。聖書が、「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5-17)と教えているのも、「心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3-16)と勧めているのも、そうすることによって、私たちがベストな状態で学んだり、働いたり、人に関わったりできるからであるにちがいありません。信仰生活の機微を俳句や短歌にしてみてもよいのではないでしょうか。良い句ができたら、週報で皆さんに紹介させていただきます。

 前回の日曜学校では、主イエス様を裏切ってしまったペテロとユダを通して、人間の悲しみには二つの種類があることを学びました。一つはユダのように、自らの侵した罪を悲しみながらも、イエス様の赦しを求めることなく、破滅の道を突き進んでしまう愚であり、もう一つはペテロに見るように、イエス様の慈しみに満ちた眼差しを感じ、悔い改めへと進む勇気です。私たちもしばしば、ペテロのように主を悲しませてしまうような弱い者ですが、イエス様が語られた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8-11)というみことばを思い起こしましょう。

信仰生活を振り返ってみますと、私も未熟さからとはいえ、幾度も主を悲しませたことがあります。そのことによって、「第一の祝福」を失ったのかもしれません。しかし、それらの失敗があって、今の私たちがあるのですから、「すべてに感謝!」です。人生、後ろ向きに、くよくよしていても始まりません。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さ」(ヘブル12-2)ずに、信仰の聖き道を歩み続けましょう。



無題 | 17:40:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
どういう人が「神の祝福」を受けるのか?

神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(第一コリント1章27節)

 先日、H温泉で、「春告げ歌のプレゼント」と題するコンサートをさせていただきました。今回初めて、鈴やカスタネット、タンバリン、マラカスも鳴らしながら、来場者の手拍子の応援もいただいて、楽しく春を呼び込むことができたのではないでしょうか。帰りがけに常連のご婦人が声をかけてくださり、最後に歌った讃美歌、「また会う日まで」がよかった!」と言ってくれました。日々、健やかに暮らせるのは、「神様の見守りがあるからなんだ。」と気づいてくださったのかもしれません。館長さんも四月の出演日をアナウンスするほどに、楽しみにしていてくださるようです。イエス様に心新たにされた者たちの喜びの歌声をもって、地域にご奉仕させていただきましょう。

 私たちは日曜学校で、十字架に向かうイエス様をお乗せしたロバの子の話を聞きました。王の王であり、神の御子であるイエス様には、姿も流麗なサラブレッドがお似合いではなかったでしょうか。それなのに、あえて子ロバが選ばれたのです。おそらく、よろよろしながらの奉仕だったにちがいありません。しかし、ロバの子は嬉しさいっぱいだったことでしょう。私たちも、ロバの子ほどの小さな者たちです。しかし、イエス様はあえて、「無に等しいものを選ばれた」(Ⅰコリント1-28)のです。なぜなのでしょうか。

 その疑問について、聖書は、「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1-25)と解説してくれています。私たちは歌がうまいから人前で歌うのではありません。弱り果てて、うずくまっていた者を見出して、こんなに元気に造り変えてくださったイエス様を証するために、進んで人前に出るのです。そして、一人でも多くの人に、イエス様の救いのすばらしさを知ってほしいのです。

 ヘブル書11章には、信仰の勇者たちの列伝が記されています。ノア、アブラハム、モーセ、いずれも絶望的な状況を幾度も経験しましたが、神の約束を信じて疑いませんでした。ここに、これほどのすばらしい実例が上げられているのは、私たちも彼らの足跡に従い、信仰による祝福に与るためです。

立派な業績を成して褒められることは望み薄です。そんな私たちに、神様は、お頼りして生きる道を勧めていてくださいます。これならば、誰にでも出来ることではないでしょうか。「信仰によって○○は」と、繰り返し書かれています。○○に私たちの名も入れていただけるような、信仰の人に育てていただきましょう。



無題 | 16:24:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
「死」に向かって、どう備えたらよいのでしょうか?

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ書55章6節)

 先日、寒中の甘木公演を舞台に、小学生たちの持久走大会が行われ、子どもたちは厚い声援を受けて、今年も更に成長した走りを見せてくれました。息子も自己ベストに一秒遅れたものの、五位でゴールインしました。昨年は膝を故障し、走れない時期が続きましたが、まあまあのタイムでゴールインでき、人安心したようです。いつも感動するのは、障害を持つ友達を、みんなが取り囲んで、励ましながら伴走する場面です。あのお子さんがクラスにいてくれることによって、子どもたちの心に大切な「思いやり」が芽生えているのでしょう。

 中には、毎年トップ争いをする子が、松葉杖で見学していたり、水泳で脚を痛めたということで走れなかったりした子もいました。一方、相撲大会でけがをして車椅子に乗っていた子が、「初めて上位入賞できた!」と喜んでいました。あの松葉杖の子も、来年はまた、トップ争いに返り咲いて、今年の悔しさを晴らしてくれることでしょう。今年も、子どもたちの精いっぱい走る熱気に触れて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12-1)の御言葉が心に浮かんできました。あのように伸び盛りの子どもたちを身近に置いていてくださる神様に感謝します!

 さて、私たちは前回の日曜学校で、死後についての話を聴きました。この世で病に苦しんだラザロは、神様にお頼りする信仰に導かれ、天国へ行きましたが、自らは贅沢に暮らしながら、憐みの心を持たなかった男は、苦しみの場所(ハデス)へ落ちました。男は火炎の燃え盛る中で、神の憐みを求めましたが、もはや、そこには救いはなかったのです。何が、この二人の死後を決めたのでしょうか。ラザロは病み、最貧の暮らしをしたために、死後は天国の祝福に与ったのでしょうか。

 そうではありません。金持ちであることが罪なのではないのです。もちろん、それは祝福だったのです。彼が苦しみの場所へ行かなければならなかったのは、彼に数々の恩恵をくださった神様に、全く心を向けようとせず、己の快楽だけを追求したからです。彼は、「自分に与えられた神の恵み」(エペソ3-7)に気づき、「心を尽くして主に感謝します。」(詩篇9-1)と、信仰の態度を表すべきだったのです。
 私たちにはまだ、救い主イエス様を信じ、神の御愛に感謝できる「とき」が残されています。果たして、どれだけ、「神様、ありがとうございます!」と申し上げてから、点に召されることができるでしょうか。ルカ伝16章の死後についてのイエス様のたとえ話は、すべての人が耳を傾けなければならない大切な警告なのです。



無題 | 17:05:01 | トラックバック(0) | コメント(0)