FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

12 | 2010/01 | 02
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

老いてなお、盛んであるには?

主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。(箴言3章7、8節)

 この頃、足腰の衰えを防ぐためでしょう、熱心にウォーキングしておられる高齢者の方々に、よくお会いします。病気が起こってからリハビリするよりも、それは賢い方法にちがいありません。季節の移ろいを眺めながら、途中で声を掛けたり掛けられたりで、脳にも良い刺激がたくさんあることでしょう。そんなことからヒントを得て、先日のシニア集会で、「心の筋肉を強くするために」というお話をさせていただきました。

 まず、モーセについての、「死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(申命記34-7)という記述に注目してみました。「目はかすまず、」とは、老いてもなお、彼の物事を見極める能力が確かであったということでしょうし、「気力も衰えていなかった」とは、目標に向かって前進する彼の意思が堅固であったということを示しているのでしょう。では、どうして、彼はその齢まで、かくも盛んであり得たのでしょうか。

 モーセはイスラエルの民を奴隷解放した人物ですから、彼にかかったストレスたるや、想像を絶するものだったにちがいありません。しかし、その苛酷な状況にもかかわらず、彼が健やかであり得たのは、彼の心が神と一つになっていたからです。彼の信仰は、「目に見えない方を見るようにして、忍び通した」(ヘブル11-27)と表現されています。彼は直面する状況が困難であることをよくわきまえていましたが、その事態をさえ覆しうる神の力を信じていたのです。

 私たちは心に刺さった棘のような「悩みの種」を持つことがあります。そのことが重くのしかかって、私たちは衰えさせられてしまうように感じます。そんなとき、「すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5-18)というみことばは、どういう意味を持つのでしょうか。

 もし、その悩みがなかったら、果たして私たちは「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6-9)と真剣に祈ることができるでしょうか。そして、祈りのない生き方は、やがて堕落に通じていくのではないでしょうか。それは大きな損失を意味します。ですから、その悩みの種さえ、感謝すべき神の恵みなのです。

 主イエス様の御名代として、この世に立たされているという緊張感が、私たちを怠惰から守ってくれています。祈りの課題があることによって、私たちの信仰姿勢はピンとさせられます。その結果、モーセのような長寿が伴うかもしれません。倦まず弛まず、主と共に歩んでまいりましょう。



無題 | 19:43:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
子どもたちの心の危機!

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22章6節)

 先日、子どもたちが駅伝に出たというので、着かれたのでしょう、教会にやってきてゲームをしたり、イヤホーンで音楽を聴いたり、マンガを読んだりしていました。「宿題も一緒にしよう。」ということになっていたようですが、いっこうにその様子がないので、「そろそろ、宿題に取り掛かるように促してみました。しかし、反応がないので、「今日が何の日か知っているか?」と尋ねてみました。その日は阪神淡路大震災記念日だったのです。ところが、小学五年生たちが、誰もそのことを知りませんでした。また、「先日、大地震が起こった国はどこかな?」と訊いてみても、誰も知りませんでした。このまま帰してはいけないという思いがこみ上げて、強い語調で説教を始めてしまいました。

 今、現実に、ハイチという国で震災が起こり、多くの人々が瓦礫の下で助けを待っているというのに、「そんなの関係ねえ。」とでも言わんばかりの様子に、私の誤記は相当に強くなっていたようです。ゲームやマンガという仮想世界に浸り込んでいるために、現実の出来事から遠ざけられているのです。最も感受性が豊かに発達するはずの年代の子どもたちが、こんな環境で育っていくかと思うとゾッとしました。しかし、それは子どもたちのせいというよりも人間が選び取っている罪のけっかであるにちがいありません。

 説教の中ごろまでには、ようやく子どもたちは宿題を始めていました。「この人は、何をこんなに興奮して、しゃべっているんだろう。」と思った子たちが殆どだったのではないでしょうか。それでも、私は、「言っておかなければいけないことを言った。」という気持ちでした。「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1-7)とあります。人は誰であれ説教を聴いて、眠っている目を覚まされ、神を恐れるようになる必要があるのです。

 前回の日曜学校で、私たちは悪霊に着かれた男の記事を学びました。彼は暴力を振るい、自らをさえ傷つけ、いっさいの関係を断たれた人でした。そんな不幸な生活を送っていた彼がイエス様と出会い、彼を苦しめ続けた悪霊を追い出してもらい、正気に返ることができたのです。さて、この「悪霊に着かれる」などということは今の時代には起こり得ないことでしょうか。

 悪霊は今日、アルコール、薬物、ギャンブル、ポルノなどを使って、多くの人々を支配しているのではないでしょうか。もし、子どもたちがゲームに際限なくのめり込んだら、どういう状態になるでしょうか。彼らの心を聖書の御言葉によってリセットしてやらなければ、健全な発達の危機ではないでしょうか。

 イエス様は、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」(マルコ5-8)と命じ、悪霊を追い出す権威をお持ちの神様です。ですから、いつもイエス様を礼拝し、悪いものから守っていただきましょう。「サタンさえ光の御使いに変装」(Ⅱコリント11-14)して、常に私たちを惑わそうと狙っているからです。



無題 | 16:21:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
豊かな心を養う音楽は?

しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33篇1節)

 先日来、息子が携帯用音楽プレーヤーが欲しいと主張していました。私たちも当時の流行歌を聞いて育ったのですから、むやみに制限するわけにもいきません。ただ、殻に閉じこもって、好きな音楽に浸り込むことの弊害が思われて、「うん」と言えませんでした。そんなときに、妻が子ども会の集まりで、長年クラッシック音楽にたずさわった方と同席したそうです。我が家が教会であることを知ったその方が、「バッハの教会音楽があるから、今の音楽があるんですよ。」と言われたそうです。そのことを聞いて、音楽に関して、教会が負っている責任を再認識させられました。

 私たちも施設慰問で、賛美歌以外に季節の歌や人間の情愛も歌います。しかし、中心にあるのは、「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。」(詩篇40-3)とあるように、神の愛に応答する褒め歌です。私たちもかつてはラジオやテレビから流れてくる音楽だけしか知りませんでしたが、聖書を通して真の神と関わるすばらしさを知って初めて、自然の造形美を愛で、家族愛や隣人愛を育むことができるようになったのです。

 「バイブル」には「ものさし」という意味があります。聖書を学んでいく中で、私たちは正しい基準を身につけていっています。聖く美しいものに心動かされ、俗悪なものを嫌悪する心が、次第に育っているのです。これがキリストの救いをいただいている者の幸いであり、天国へ通じる「永遠のいのち」です。

 ところが、今の子どもたちを取り巻いている文化は、それとは全く異質なものです。イヤホーンをして音楽に浸り込み、けいたいを握りしめ、ゲームに嵌り込んでいる姿を、どう見なしたらよいのでしょうか。このような状態を放置しておけば、彼らの心は確実に滅びへ向かっていきます。イエス様は、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(ルカ18-16)と、彼らを招いておられるのです。

 教会の賛美は、ますます豊かになってきています。今年は更に、神を褒め称える音楽の輪が広がっていくことを期待します。若者たちも大きな声で聖書を朗読し、讃美歌を朗々と歌えるように導いてあげましょう。土の中で新芽が春を待っているように、彼らの心にも、小さな信仰の芽が顔を出そうと、時を待っているからです。



無題 | 15:38:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
「心の貧しい者」が幸いである訳は?

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(詩篇100篇3節)

 年頭主日礼拝をお捧げした後、私たちは人吉の妻の実家へと向かいました。息子は待ち切れずに、一足先に行っていましたので、二人だけのドライブでした。せっかく遠くまで行くのですから、母の通うデイサービスで歌の奉仕もさせていただくことにしていました。ただおもてなしを受けて過ごすより、そうした方が、遠くまで行った甲斐があるというものです。

 特に、今回は大きな手話を付けて、天国の希望を表現した讃美歌を二曲入れてみました。後で、一人の職員の方が、「讃美歌を聞くと、どうしてあんなに涙が出てしまうんでしょうか。よっぽど、心が汚れているんでしょうね。」と言っておられました。何かしら、心探られる機会になったのだなあと、主に感謝しました。利用者の方からお礼の言葉をいただき、写真を一緒に撮って、施設を後にしました。

 翌日、同系のもう一つの施設を慰問する門も開かれました。聴かれた人数は、そちらの方が三倍くらい多かったのではないでしょうか。新年早々、初対面の訪問者を温かく迎えてくださった施設の皆さん、ありがとうございました。リズム感の良い手拍子で協力してくださったり、問いかけによく反応してくださったりで、気持ちよく歌うことができました。

 今週の暗唱聖句に、「まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。」とあります。「まことに楽しく、賛美は麗しい。」とも。新年の歌の対外奉仕は、こうして始まりました。主が更に今年、教会に新たな奉仕の門を開いてくださることを期待しましょう。

 イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。」(マタイ5-3)と語られました。どうして、「心の豊かな人」ではなく、「心の貧しい人」が幸いだと言われたのでしょうか。それは、その人が偉大な神様を知っている人だからです。イエス様の真実な愛に触れた人は、己の罪深さに恥じ入り、神に依り頼む生活を始めるからです。

 また、「義に飢え渇いている者は幸いです。」(5-6)とも語られました。私たちが今年、どれだけ、イエス様の聖さと正しさに近づこうと欲しているか吟味してみましょう。どれだけの期待をもって、イエス様への礼拝に臨もうとしているでしょうか。

 始まったこの年も、幾度も「貧しさ」や「悲しみ」を経験することでしょう。しかし、私たちは、そこで終わりではありません。死を打ち破って復活された主に信頼する信仰者の群れです。イエス様の励ましのみことばを持っています。主が意図されたような「幸い」な教会へと、ますます成長し続けてまいりましょう。



無題 | 15:25:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたを覆う御翼がある!

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。(詩篇91篇4節)

 皆さん、2010年、明けましておめでとうございます。年初に、共に主イエス様を賛美できる幸いを感謝します。温暖化を心配する私たちに、神様は祝福の雪まで降らせて、ご自身のあわれみの深さを示してくださったかのようです。きっと、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1-18)ということを思い起こさせたかったのでしょう。

 また、主は年頭に、私たちを、ご自身の「羽でおおって」くださるとも約束しておられます。デフレの時代、温かな材質の衣料品が、信じられないような安価で売られています。それらで身を包めば、快適に過ごせます。しかし、「主の羽」に包まれる安心に優るものはありません。それは、人の心の深みまでも温めてくださるものだからです。

 今年の歩みの中で、私たちは幾度か、心の凍りつくような状況にも遭遇することでしょう。そんなとき、いつも主の羽が私たちをおおっていてくださることを思い出しましょう。主の約束に信頼することが、私たちを不要な落ち込みから守ってくださるからです。

 更に、主は私たちが身を避けることができるように、常に御翼を拡げて待っていてくださるとも約束しておられます。礼拝に、祈祷会に集い行くとき、いつもこの情景を心に描きましょう。イエス様は、「めんどりがひなを翼の下に集めるように、」(マタイ23-37)私たちが集い来ることを待っていてくださるのです。

 さあ、主の大盾に守られて、今年も主のお手伝いをさせていただきましょう。クリスマスに聴いた、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1-37)は、私たちに力を与えてくれます。己の無力さに落胆しても、神様の助けがあるのです。お互いに励まし合い、支え合って、信仰の歩みを続けてまいりましょう。



無題 | 17:32:23 | トラックバック(0) | コメント(0)