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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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百人力の味方を持つ幸い

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ書2章13節)

 先日、福岡盲信徒会のクリスマス会において、教会のジョイフルクワイヤが賛美奉仕をさせていただきました。今回は福岡在住のK姉、O姉も加わってくださり、賛美の恵みを共にできたことも感謝でした。翌日、会長さんから、「8名とは思えない美しいハーモニー」とのお褒めの言葉も添えて、お礼のメールをいただきました。特に、会の皆さんと共に合唱した三曲が、いまでも心に響いています。お一人お一人のイエス様への感謝が、全体のコーラスの中に溶けあっていたからでしょう。

 私たちは奉仕の後、すぐに失礼したのですが、会の皆さんはプレゼント交換をしたり、お蔵入りしていた品々の交換会をされたりしたようです。そこにも、イエス様を中心とする温かい交わりが育っていることを見て、主に感謝しました。盲信徒会の兄姉がそれぞれの地域で、良きキリストの証人として歩まれますよう、お祈りさせていただきましょう。

 さて、私たちは先週、バビロンに捕え移されたイスラエルの民が、70年ぶりに故郷へ帰って行く場面について聴きました。それは支配がバビロンからペルシャへ移っていたときのことです。不思議なことに、異教の王クロスが、ユダヤ人たちをエルサレムに返し、主への礼拝を再興するように取り計らったのです。この出来事の中で、私たちは「神の摂理」ということを学びました。

 常識的に考えれば、ユダヤ人たちは役立っていたのですから、わざわざ彼らの国へと返す必要はなかったはずです。しかし、彼らがエルサレムに返り、神殿を再建し、主に礼拝を捧げることは、神様が定められた計画でした。その計画を達成するために、神様は異教の王の心さえ動かして、彼らの帰還を導かれたのです。

 私たちの信じるお方は、「万物を創造された神」(エペソ3-9)であり、今なお万物を支配しておられる神様です。このお方は、ご自身のご計画を遂行なさるために、あらゆるものを、意のままに用いることができるのです。果たして、私たちは、この神の「全能性」について、どれだけわかっているでしょうか。

 私たちの周辺にイエス様を信じる人は少ないのが現実です。しかし、イエス様は、「わたしにとどまりなさい。」(ヨハネ15-4)と招いておられます。イエス様に繋がっている私たちは、実に百人力なのです。なぜなら、私たちのために、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8-28)と約束されているからです。



無題 | 19:35:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
日曜日の正しい過ごし方は?

明日、教会のジョイフルクワイヤが福岡盲信徒のクリスマス会で賛美奉仕をさせていただきます。私も詳しく学んだわけではありませんが、日本の視覚障害者の福祉に果たしたキリスト教の働きは大きかったようです。特に、イエス様が生まれながらの盲人について語られた、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9-3)という御言葉は、多くの視覚障害者たちに希望を与え、彼ら自身を「世の光」へと変えていきました。各地の点字図書館、盲人福祉施設は、こうした盲人クリスチャンによって始められた働きであると聞いています。

 そうした、すばらしい歴史の中で、全国に盲信徒会が組織され、信仰の交わりを続けておられます。これらの会は教会に代わるものではありませんが、同じハンディを持つ信徒同士が励まし合う会として、有意義な役割を果たしてきています。今回、私たちも賛美奉仕を通して、多くの盲信徒の皆さんと、信仰の喜びを分かち合い、クリスマスの栄光を主に帰させていただきましょう。

 さて、今、私たちはヘブル書を学んでいますが、「信じた私たちは安息にはいるのです。」(4-3)という、みことばについて考えてみましょう。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出20-8)という戒めはモーセの十戒の四番目に記されている神の命令です。イスラエルの民は六日間働き、七日目は神への礼拝に専心しました。では、イエス様を主とするクリスチャンたちは、安息日を、どう解釈したらよいのでしょうか。それはイエス様以前のイスラエルに限られた戒めであって、今日のクリスチャンには関わりのないものなのでしょうか。

 ヘブル書には、「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、」(4-11)という促しが続いています。私は救われて以来、礼拝に集えなかったことは、片手で数えられるほどしかありません。それを誇るために言うのではなく、主への礼拝の恵みに勝る喜びを知らなかったので、ごく当たり前のこととして、礼拝を第一としてきたというだけです。イエス様が待っていてくださるというのに、それを、すっぽかすなどということに強い恐れを感じていたことも確かです。

 最近、突然の事故で命を落とされた方々についてのニュースを、いくつか耳にしました。当事者の方々の悲嘆は、いかばかりでしょうか。人生の終わりが、思いもかけないような形でやって来ることがあるのです。聖書は、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っている」(ヘブル4-9)と促しています。明日延ばしにせず、今すぐ、主イエス様のみもとへ立ち返って、心からの礼拝をお捧げしようではありませんか。



無題 | 17:49:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
チャンスを掴んで変化を起こそう!

機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(エペソ書5章16節)

 先日、小学校、公民館、商工会の主催する「輝き祭」が開かれました。ステージイベントの募集があったので、私は腹話術をすることにしました。当日は汗をかくほどの日和でした。時間になったので出かけてみますと、ステージ周辺には人がほとんどいませんでした。かなり広範囲が会場となっているため、子どもたちが皆、ゲームの方へ行ってしまったようです。そういう状況ではありましたが、私は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6-31)をテーマにした腹話術をさせていただきました。

 なにしろ、聴く人がほとんどいなかったのですから、私の惨敗と言えるかもしれません。しかし、そんな中でも、歌の奉仕に行っている施設の職員さんが声をかけてくれたり、何人かの人たちに、私の別の面を見ていただくことができました。久しぶりに、かくし芸を引っ張り出していただきましたので、また、場を見つけて、神と社会のために用いさせていただきたいと思っています。

 今、学んでいるヘブル書に、「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかった」(4-2)という表現が出てきます。知らされていながら、そのことを実践できなかったというのです。いつの時代でも、このような残念な事態は、とかく起こりやすいものです。イエス様はタラントの例えで、預かったものを地に隠した者を、「悪いなまけ者のしもべだ。」(マタイ25-26)と呼ばれました。私たちが神様よりお預かりしている賜物を活用して働ける時は限られているのです。手をこまねいていて、宝の持ち腐れをしては、せっかくお預けくださった神様に申し訳ありません。

 先日の市民音楽祭のプログラムを見ながら、ある女の子が、「今年もバプテスト教会の人たちが歌ってくれるかなあ。」と言っていたそうです。私たちが主の証を続けるとき、どこで誰に、どういう影響があるか予測できません。私たちの歌った讃美歌が、その子の心に残っていて、今年も楽しみにしていてくれたのでしょう。

 これからも、クリスマスに向かって、私たちには、多くの福音の証の機会があります。それを、ただ「良い音楽を聴かせていただきました。」で終わらせては残念です。主が私たちの計画を用いて、光の方へと歩み出す人を起こしてくださるよう祈りましょう。クリスマスは、「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9-2)と預言されている「救いの日」だからです。



無題 | 16:09:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の痛みを癒すものは?

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。(詩篇19篇7節)

 私たちは先日、「心の痛みを癒すもの」と題する集まりを持ちました。多くの人々が各種の心の問題で苦しんでおられるのを聞いているからです。こうした問題に陥った場合、普通、精神科の治療を受けることが勧められるのではないでしょうか。私はそうした治療の是非を論じるつもりは、全くありません。そうではなく、聖書のみことばが、人の精神の安定に大いに有益であることを紹介したいだけです。

 まず、神様は詩篇において、「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(147-3)と語っておられます。つまり、心の傷を癒されるのは、その人を形づくられた神様であるということです。では、具体的に、神様は、どのように心の痛みを癒してくださるのでしょうか。

 同じく詩篇には、「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。(107-20)とあります。つまり、ひとり子イエス様をお遣わしくださり、その語られたみことばによって、人々は罪の苦しみから救われたのです。たとえば、12年間、医者の手に負えない病に苦しんでいた女性は、イエス様の、「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(マタイ9-22)という御言葉によって、「全く直った。」のです。

 二千年前語られたイエス様のみことばは、聖書を開くとき、今も私たちを慰め、癒し、希望を与えてくれます。私自身も主のみことばによって救われ、励まされています。それは、私がイエス様のみことばの力を信じているからです。イエス様は、「信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11-25)とさえ語られ、「信じる」ことが、いかに大切であるかを説かれたのです。
 良き忠告者を身近に持つ人は幸いです。しかし、逆に身近な人たちから心の痛むような言葉を聞くことも、結構多いものです。そういう人たちに、イエス・キリストのみことばは人を新しく生まれ代わらせ、「永遠のいのち」を与えるものであることを話してあげましょう。そうすることが、私たちに与えられた使命なのですから。



無題 | 19:07:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
この問題解決法を私はお勧めします。

私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。(詩篇34篇1節
 
今年も朝倉市民音楽祭にジョイフルクワイヤ(7名)が出演し、10分間に6曲の讃美歌メドレーを歌い上げました。曲目も重厚なバッハから、親しみやすいゴスペルまで、幅広く聴いていただけたと思います。4曲には、一部のメンバーが手話も付けて、信仰の喜びを表現してみました。一曲終わるごとに拍手があったので、感動が伝わったものと感謝しています。当日の賛美をホームページにアップしましたので、アクセスしてみてください。

 全体として4時間にも及ぶコンサートでしたが、プログラムがバラエティに富んでいたので、長いと感じませんでした。特に、中高生たちの演奏は、どれもこれも、身をのり出して聴き入ってしまうほど、洗練されていました。A高校のブラスバンドのダイナミックな演奏を聴くに及んでは、「この町に、これほど質の高い高校生たちがいるんだ。」と感心させられました。これからクリスマス、彼ら中高生たちにも、真の神様を紹介させていただきましょう。

 さて、私たちは先週、ヒゼキヤ王の信仰について学びました。アッシリアの威嚇のなかで、ユダの国に信仰復興をもたらした王様です。彼は敵の大群に包囲される中で、主に堅く信頼し、熱心な祈りによって、国を危機から守りました。彼は会堂の真ん中に立ち、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」(第二列王19-16)と祈ったのです。神は彼の祈りに応えて、一夜のうちに大群を打ち破り、ユダを危機から救い出されました。

 ヒゼキヤは軍隊を強化することによって敵に勝利したのではありません。敵の威嚇に対して、黙して、全能の神に祈ることを勧めたのです。人の怨恨や敵意から出る争いは癒しがたい傷を残します。それに引き換え、神様のくださる解決は赦しと平和をもたらします。ですから、黙して、神に祈ることは、きわめて価値ある選択なのです。

 また、ヒゼキヤは難問に直面したとき、「主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」(第二列王19-14)とあります。私たちも礼拝、祈祷会に出かけて行って、胸の奥にある悩みを主のもとに下ろし、全能の神の知恵を待ちましょう。みことばに、神が「試練とともに、脱出の道も備えて「(Ⅰコリント10-13)いてくださるとあるからです。

 今年も残すところ2か月となりました。クリスマスには多くの新来者をお招きしたいですね。「ひとりとして滅びることなく、」(ヨハネ3-16)というみことばが胸に迫ります。互いに励まし合って、信仰の歩を進めてまいりましょう。



無題 | 20:03:16 | トラックバック(0) | コメント(0)