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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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賛美は単なる音楽を超越します!

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。(詩篇40篇3節)

 今日の午後、私たちは春から準備してきた朝倉市民音楽祭を開催します。あえて、「参加します。」と言わずに、「開催」という言葉を使ったのは、私たちも実行団体の一つだからです。今年は三つの中高の合唱、吹奏楽も参加し、昨年以上に内容豊かな音楽祭となることが期待されています。合唱は教会の聖歌隊によって発達してきたのですから、私たちジョイフルクワイヤも、その歴史にふさわしい、堂々たる主への賛美をお捧げしましょう。

 ほとんどの出演団体は、日ごろの練習の成果を発表されるのだと思います。しかし、私たちには、それ以上に、明確な参加目的があります。讃美歌の中に歌われている「キリスト信仰」のすばらしさを証することです。ひとり子さえお与えになった神の愛、ガリラヤ湖周辺で為されたイエス様の力あるみわざ、イエス様の十字架の受難、神の恵み、日々の守り、天国の希望を、全身全霊をもって歌い、語り、お伝えするのです。

 音楽は調和です。演奏する人たちと、聴く人たちとの間に感動が響き合います。もちろん、その前に、演奏者同士の中にも、豊かな共感がなければなりません。それに加えて、賛美者には「御霊の一致」(エペソ4-3」があります。罪の赦しを受け、「神との平和」(ローマ5-1」をいただいた者たちが、感謝にあふれて救い主を褒め歌います。このことによって、賛美は単なる合唱とは一味ちがうはずなのです。

 聖書は、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43-7)と、人間存在の目的を明らかにしています。ですから、この目的に適って、創造者を褒め称えるとき、人は喜びにあふれ、満ち足りることができるのです。

 また、多くの合唱団の参加する音楽祭ですから、イエス様の、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6-31)という御教えを心に留め、コンサート全体の成功に寄与させていただきましょう。時間の許すかぎり、他団体の演奏も傾聴し、その精進を称えることは、キリスト者にふさわしい態度です。気持ちよく挨拶を交わし合い、楽しい音楽祭とさせていただきましょう。参加の叶わない兄姉も、お祈りの支えをお願いいたします。



無題 | 20:29:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
ちがいを理解し、弱さを補い合いましょう。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ伝10章45節)

 先週、礼拝に来られたJ姉が礼拝堂に入れずに、お帰りになるという残念な出来事が起こってしまいました。通常、礼拝が始まった後には、玄関との間の間仕切りは閉まっています。姉は少し遅れて来られたのですが、その横開きのドアを開くことができなかったようです。これまでは、N姉が気づいて、開けてあげていたそうですが、そのときは、教材の奉仕をしていたために、気づいてあげることができませんでした。人影に気づいたL君が母親に告げたのですが、外に出てみると、車の中で電話しておられる様子だったので、終わり次第、入って来られるだろうと礼拝堂に戻りました。なかなか来られないので、また、外に出てみると、既に車がなかったというのです。

 私たちは、いったいどうしたのかと、あれやこれや考えてしまいました。しかし、スライド式のドアを開けることができなかったとは、思いも及びませんでした。その番に、電話で、そのことを知り、実際、閉まっているドアを横に引こうとすると、結構重いのです。姉は、「ロックされていると思い、ノックもしたそうですが、誰も気づいてあげれなかったのです。もちろん、一時間もかけて来られたのですから、ドンドン叩いてほしかったし、玄関のピンポンを押すなり、電話するなり、してほしかったです。では、この出来事から、私たちは何を学び取ったらよいのでしょうか。

 私の心に浮かんだのは、「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。」(Ⅰコリント8-9)というみことばです。イエス様は、すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と招いておられます。ということは、イエス様のもとへ集まって来る人たちは、さまざまな弱さを負っておられるということです。そうして集められた教会に、主は、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13-34)と、弱さに同情し合うことを教えておられるのです。

 そして、もう一つ、誤解してほしくないことは、J姉がドアを開ける力がなかったわけではないということです。文化のちがいから、スライド式のドアに慣れていなかったというだけだと思います。「少し重いけど、開きますよ。」と教えてあげれば、開けることができるのです。そのように、ハンディというものは、ちょっとした気遣いで取り除ける場合が多いのです。

 さて、私たちは先日、卑弥呼の湯で「秋の爽やかコンサート」を開きました。回を重ねて、私自身慣れてきたこともあり、聴衆を身近に感じたコンサートだったような気がします。あちこちから、「よかった!」という感想が漏れ聞こえてきましたし、帰りがけに、田川や直方から来られたという方々が、フィナーレの「神共にいまして」は、「歌詞を用意して、皆さんで歌っては。」と言ってくださいました。あの讃美歌が一般会場で、そこまで歓迎されたとは驚きでした。

 いよいよ来週は市民音楽祭で、教会のジョイフルクワイヤが讃美歌メドレーを歌います。イエス様の救いの素晴らしさを証する、またとない機会です。祈りを込めて、主の栄光を賛美させていただきましょう。



無題 | 20:02:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
栄光のバトンを握ってはしりましょう!

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ書3章13、14節)

先日、絶好の日和の中、小学校の運動会が行われました。息子も五年生になり、チームワークが問われる組み体操、勇猛にぶつかり合う騎馬戦、加えて、係の仕事と、大忙しのようでした。私が期待していたのは運動会の花、町対抗リレーです。予選を2位で通過、いよいよ決勝のスタート。ところが、低学年は優しい子が多く、「お先に、どうぞ。」の譲り合いで、息子は最下位でバトンを引き継ぎました。大歓声に力を得たのでしょう、快走に次ぐ快走で二人を抜き去り、4位に浮上、更に、アンカーが一人抜き、めでたく三位入賞を果たしました。大きく出遅れることがあっても、全力を出し切っていけば、いつか逆転のチャンスは来るということを教えられたレースでした。

 終わってみて、「最近は障害物競争がないんだね。」と話しました。幼稚園レベルの種目になってしまったのでしょうか。人生は障害物競争のようだと感じることが多いので、単純な「かけっこ」よりも、教育的価値を含んでいると思うのですが。「やぐら」や「ピラミッド」と名付けられた組み体操は、誰か一人が弱くてもコケてしまうのですが、全組が見事に決めて、拍手喝采でした。七転び八起きの練習の末の成功だったにちがいありません。味わった達成感が、次へのチャレンジのバネになることでしょう。

 イエス様がお命じになった教会を立て上げる働きも、組み体操のように、一人一人が踏ん張って立たなければなりません。縁の下の力持ちの肩に、次の人が立つのです。更に、その人の肩に、次の人が。誰かが「一抜けた。」と言ったら、どうなるでしょうか。全体が崩れてしまいます。

 パウロは教会に宛てて、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Ⅰコリント12-27)と書きました。教会の働きによって、主イエス様は、この時代に生きて、人々の悩みに耳を傾け、福音を語り、バプテスマを授けておられます。神は今なお、教会を通して、失われた魂を救わんと、御手を伸べておられるのです。その教会とは、イエス様の御愛によって罪赦された私たち一人一人に他なりません。

 イエス様の福音のバトンを持って、最初に走ったランナーたちの記録が「使徒の働き」です。その後半はパウロの宣教の足跡を辿っていますが、彼は、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、」(Ⅱテモテ4-7)と言い切ることができました。私たちもイエス様から手渡された福音を、ペテロ、パウロから引き継いで、今の時代を走っているのです。この栄えある宣教のランナーとして、精いっぱいの走りをしようではありませんか。



無題 | 20:33:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
目的をわきまえて、貴重な時を用いましょう!

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2章42節)

 日曜学校で預言者エリシャをもてなしたシュネムの婦人の話を聴きましたが、教会案内の途中、そのような親切な老婦人にお会いしました。ある集落に向かって歩いて行くと、農作業をしておられたご婦人が、気持ちよく挨拶してくれました。配布を終えて、車へ返っていると、また、先ほどのご婦人が、「「あんたたちはゴリを食べなさるかね?」と明るく声をかけてくれました。「ゴリって何だろう?」と思いましたが、ゴーやのことでした。「ええ、大好きですよ。」と応えると、ご自身が食あたりで入院して、畑の世話ができなかったが、来てみると、地をはった蔓に、たくさんゴーやが生っていたというのです。おいしい食べ方までご教授してくださり、たくさん持たせてくれました。案内を差し上げて、およその場所をせつめいしました。何の面識もないにもかかわらず、私たちを待っていたかのように、気持ちよくもてなしてくださったご婦人を、神様が恵んでくださるようお祈りしました。

 最近の暗唱聖句に、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4-2)とありましたが、無反応な地に語り続けることに、私たちは疲れ果ててしまうことがあります。出て行く勇気が萎えてしまうのです。しかし、イエス様は、「目を上げて畑を見なさい。」(ヨハネ4-35)と、私たちの視野を拡げてくださることがあります。「そこはだめでも、こちらならば。」ということも、「その方法はうまくいかなくても、こういう方法ならば。」というように、柔軟に発想してみることができるのではないでしょうか。

先日のバイブルの集いで、「心のスッキリ整理」というお話をさせていただきました。家を上手に整理するには、どういう点を考慮する必要があるでしょうか。まず、家で何をしようとするかによって、整理は違ってくることでしょう。子育て中心であれば、応接間の立派な家具よりも、子どもの成長を促す遊具が優先されるべきでしょうし、老夫婦の生活に、広い収納は必要ないでしょう。過程を快適な場にするためには、どうしても、家族構成にあった整理が不可欠なのです。

 私たちに与えられている時間にも限りがあります。整理をつけないと、時を浪費してしまいます。イエス様は私たちを召してくださり、教会を立て上げる務めに任じてくださいました。この目的に立ち返るとき、私たちの時間の用い方が整理されます。

 パウロが述べている「時が良くても悪くても」とは、場をわきまえずに、やみくもに福音を語るという意味ではないでしょう。相手が信頼感をもって、心を開いている場合にだけ、語られたみことばは芽を出すのですから、信頼を獲得するための長い、普段の付き合いが、既に宣教の働きなのです。

 「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12-2)というみことばも正しく理解されるべきです。多くの人との関係において、クリスチャンとしての己の遣わされている目的を忘れてはならないということです。この秋も、私たちが集められたのは、イエス様の教会を立て上げるためであることを覚え、積極的に周囲の人たちに関わらせていただきましょう。



無題 | 17:38:44 | トラックバック(0) | コメント(0)