FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

07 | 2009/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

信じて前進する勇気を持ちましょう。

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(へブル書10章39節)

 今年も、数々の感動のドラマを残して、高校球児たちの熱い夏が終わりました。特に、決勝戦での日本文理高校の最後の猛追を聞きながら、何事においても、あそこまで、「渾身の力を振り絞って取り組まなければ。」と思わされました。一緒に観ていた野球少年に、「あの大舞台に立ちたいか?」と尋ねてみました。

「うん、立ちたい!」と、即座に返事が却ってきました。よほど感激したのでしょう。「その夢が実現するように、神様に祈っていこうね。」と声をかけて、今夏の甲子園も締めくくりとなりました。

 私たち教会は、主イエス様に召され、チームとなりました。総監督はイエス様です。初めは、いったい何のために集められたかさえ、わからなかったような者たちでした。

しかし、今、私たちは少しづつ、「失われた人を捜して救うために来た」(ルカ19-10)と語られたイエス様の働きのために集められたのだと、わかり始めています。どこかの高校の監督が、「うちは全員野球です。」と言っておられましたが、教会も誰であれ、手抜きをする者があれば、目標を達しえません。

 イスラエルの民は出エジプトの弐年後、約束の地へ、もう一歩という所までやって来ました。そこで、リーダーのモーセは入って行こうとする地を調べるため、12人の偵察隊を遣わしたのです。彼らは40日間、その地を行き廻り、帰ってきて仲間に様子を報告しました。

二人は希望的で、前向きな報告をしたのですが、10人は悲観的で、戦意を挫くような報告をしました。この二グループの見方は、残りの民に、どのような影響を与えたでしょうか。

 残念ながら、民は10人の後ろ向きな報告に引きずられてしまったのです。自己憐憫からリーダーを批難し、「エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」民数14-3)とまで言い出す有様でした。カレブとヨシュアの、「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。」(14-7)という積極的な励ましも及ばないほどに、悲観病が民全体に蔓延してしまったのです。この不信仰は神様を悲しませるのみならず、怒らせもしました。

 私たちはカレブとヨシュアのように、「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(14-9)と声を掛け合い一歩一歩、前進しようではありませんか。スタンドからの声援は選手たちを励まし、実力以上の好プレイを引き出します。

祈りの応援も同様です。祈りのネットワークに支えられてこそ、教会の働きは身を刈り取る、喜びの日を迎えることができるのです。誰ひとり、「つぶやかず、疑わずに」(ぴりぴ2-14)、それぞれに与えられた「主のしもべ」(Ⅱテモテ2-24)としての役を忠実に果たしてまいりましょう。



無題 | 21:07:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
信じて前進しましょう!

イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。(マタイ伝14章27節)

 六年近く、教会の働きに用いてきたパソコンに、いろいろと不具合が生じるようになり、状態を診断してもらおうと、お店に持ち込みました。まだ不具合を診る前に、店員さんが、「パソコンを冷やしているファンが消耗しており、このまま使い続けると、火事になる恐れがあります。」と言われました。これは買い替え以外にないと判断しました。週報や案内を作成、ホームページの掲載と、休むことなく活躍してくれたパソコンも、その役目を終わる時がきたのです。イエス様の、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)というみことばを拝借して、労をねぎらいたい気持ちでした。

 今回の週報が新しいパソコンの初仕事です。前機にも増して、主の御用に役立ってくれることを期待しています。お店には多くのパソコンが並んでいましたが、この一台が「尊いことに使われる器」(Ⅱテモテ2-21)として選ばれました。私たちも同様、主イエス様に召され、尊いお働きに加えていただいたのです。全能力を捧げて、「走るべき道のりを走り終え」(Ⅱテモテ4-7)る日まで、忠実に主にお仕えさせていただきましょう。

 さて、私たちは奴隷の苦しみから解放され、約束の地へ旅したイスラエルの民について学んでいます。彼らは荒野の旅の過酷さに音をあげ、出発前の奴隷時代を懐かしむようにさえなったのです。そして、彼らは次々と不平を鳴らし、感謝の言葉は「どこへやら」でした。どこか、その愚かしさが哀れで、他人事と思えません。

 しかし、彼らの不平不満の連発は、どのような結果を招いたでしょうか。彼らの不従順は厳粛な結果を刈り取ることとなりました。それは、彼らが全能の神に期待することを止めてしまったからです。このような不信仰は最も神様を悲しませることであり、何ひとつ良いものを生み出しません。彼らは不平をつぶやく度に、自分たちの前から希望を消し去っているのだという、恐ろしい事実に気づきませんでした。

 私たちは、「望みえないときに望みを抱いて信じ」(ローマ4-18)たアブラハムの信仰に倣いましょう。また、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ない」(ぴりぴ2-14)ましょう。「信仰は勝利」(聖歌514番)だからです。ますます、信仰の祈りが感謝の賛美を生み出す教会として成長してまいりましょう。



無題 | 14:41:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
平和のカギは、ここにある!

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ伝5章9節)

 昨日、日本は64回目の終戦記念日を迎えました。「二度と戦争をくりかえさない!」と誓いを新たにする日です。世界で唯一、原爆投下の惨劇を経験した国民の一人として、平和のために、私も何かしなければと促されてきました。そして、めぐり合ったのが、「長崎の鐘」という歌です。最近は、慰問コンサートの中で、参加者の皆さんに、「一緒に平和を祈りましょう。」と語りかけ、この歌を歌うようにしています。

 この歌のモデルとなった永井隆博士は、ご自身が被爆によって負傷しながらも、自ら陣頭指揮に立たれ、多くの負傷者の救護に当たられた医学者です。同じ原爆により奥様を失い、お二人の愛児を残して、自らも去って行かなければならなかった無念さは、いかばかりだったでしょうか。しかし、博士は病床に苦しみつつも、主イエス様に習い、「仕える者の心」を貫き通されました。せめて私も、「長崎の鐘」を歌うことによって、平和の尊さを語り告ぐ人たちの仲間に加えていただきたいと願っています。

 つい最近も北朝鮮が核実験を断行したとのことで、再び戦争の脅威が現実感を帯びて語られ始めています。パキスタンなどでは、核兵器がテロリストの手に渡る恐れさえ、あるとのことです。アメリカのブッシュ前大統領は力によって、敵と見なした勢力を駆逐しようと試みましたが、未だにゲリラ戦が続いています。今度は、オバマ大統領が核兵器の廃絶を明言したということで、人気を高めていますが、その道が多難であることは確かでしょう。なぜ、皆が平和を希求しつつも、どの時代においても、その実現への道のりは、かくも遠いのでしょうか。

 それは、すべての人が貪欲な罪人だからです。神がどれほど、「殺してはならない。」(出20-13)と命じても、人の命は信じられないほど軽く殺められ続けています。「盗んではならない。」(20-15)という命令が、神の十戒の一つであることなど聞いたこともないような、不幸な人たちが増え続けているのです。惑わしの情報に心を奪われて若者たちの間に、「主のことばを聞くことのききん」(アモス8-11)が、深く進攻しているかのようです。

 しかし、私たちは、泥沼へ沈んで行く時代の流れを変える「救いの道」が、イエス様の福音にあることを、夏季キャンプを通して再確認できました。その集いのいたるところに、「キリストの平和」(コロサイ3-15)があったからです。子どもたちはニコニコしながら、「歩こう。イエスの道を!」と歌っていたし、青年たちは進んで、不自由な人たちを手助けしていました。己の罪に気づかされ、イエス様に信頼して、新たな思いで人生を再スタートする人たちの姿も見ました。神のみことばは確かに罪人を、「平和をつくる人」(ヤコブ3-18)へと生まれ変わらせてくださるのです。

 キャンプで歌った「小さい灯、、光りましょう!」(B先生は、「大きい灯」と歌うように勧めました。)は、印象的でした。私たち自身は光ではありませんが、私たちの中に住んでいてくださるイエス様は、「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1-9)です。その光を掲げることができるのが、他ならぬ私たちであるとは、なんと幸いなことでしょうか。



無題 | 13:55:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
平和を来たらすため、共に働きましょう!

して自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 (第一ペテロ2章24節)

 先日、私たち家族は、熊本の妻の実家を訪ねてきました。義母の健康を気遣いながら祈ってきましたが、数日でも一緒に過ごしてあげたいと願い、久々の長距離ドライブに出発しました。往復とも天候にも恵まれ、快適に行き返りすることができました。期間中に、義母が通っているデイサービスで、歌の奉仕もさせていただきました。義妹が、私が牧師であることを話してくれていたらしく、地元での奉仕以上に、讃美歌を多く聴いていただくことができました。「久々に、心が洗われるような思いでした。」という感想も耳にすることができ、熊本にもう一軒、大家族の親戚が増えたような気がしました。

その翌日、 脚も回復し、次々に遊びをリクエストする孫に連れ回されて、おばあちゃんはクタクタだったのではと思いますが、健康でいていただくためには、あの程度の刺激も、たまには必要なのかもしれません。箴言には、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」(23-25)とあります。感謝なことに、義母は祈りに「アーメン!」と信仰を合わせてくれています。デイサービスの仲間の皆さんと共に、娘夫婦が歌う讃美歌を聴けたことも、夢のようだったのではないでしょうか。これからも、主が道を開いてくださるところへは、どこへでも出かけて行って、イエス様のすばらしさを証させていただきたいと願っています。

 さて、日本は政権の座を賭けて、衆議院戦に突入しています。各党の公約はといえば、甘い砂糖菓子の大ぶるまいのようです。それにヒキカエ、モーセを通して与えられた「十戒」は、どのようなものだったでしょうか。神は決して妥協を許さず、まず、神を神として認め、敬い、従うことを求めたのです。これは我が子に対して、父親が父であることを主張し、母親が母であることを明らかにするのと同様、当然の宣言でした。そして、民は虞をもって、「私たちは聞き従います。」(出20-19)と応答しました。

 6日の広島に次ぎ、今日、長崎で64回目の原爆の日が記念され、平和への祈りが捧げられています。なぜ、人はあれほどの惨事を引き起こしてしまったのでしょうか。それは、十戒の一つ、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出20-3)という神の戒めの破棄に関っています。つまり、加害国も、被爆国も、共に高ぶり、神の聖なる戒めを無視し、出口を見失って、闇の中へと暴走してしまったからです。

 人は今日、ますます、神の聖い法を破り続けています。真剣な悔い改めをもって、神を礼拝しようとする人々の少ないことからも、神に対する人の反逆は明らかです。この原爆の日に、イエス様が全人類の罪の身代わりとなり、恐ろしい刑罰を受けてくださった事実に目を向け、罪赦されている恵みを感謝しましょう。そして、一人でも多くの人が、神との平和に返ることができるよう、キリストの救いを証してまいりましょう。



無題 | 14:34:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
「聖さ」を見とどける幸い

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。(ルカ伝5章8節)

 我が家の息子は丈夫な身体を授かったようで、これまで、どんな行事にも体調不良で参加できないようなことはありませんでした。ところが、五年生最大のイベントのキャンプへの参加が危ぶまれる事態が発生しました。前前日、良くなりつつあった膝痛が再燃し、おまけに、熱まででてしまいました。キャンプの目玉は古処山登山、「これは、あきらめよう。」という話になっていました。

 しかし、すぐに、それが信仰的な態度でないことに気づきました。たとえ、登山はあきらめたにしても、参加できる部分があるはずだと思いました。ちょうど、祈祷会だったので、兄姉にも祈っていただきました。すると、翌朝、「まだ脚は痛いけど、風邪は治ったみたい。」と言って、床に起き上がりました。そこへ、学校からの連絡で、雨のため、登山は中止とのこと、大あわてで支度し、最初から参加することにしました。「膝が伸ばせなかったのに、熱があんなに高かったのに。」真剣に主の癒しを祈ったとき、主は一晩のうちに、キャンプに参加できるだけの体力を回復してくださいました。ハレルヤ!

 また、膝痛の方も、大学病院の専門医に診ていただくことができました。結果は関節に特段の異常は認められず、運動のし過ぎによる痛みとのことで、安心しました。イエス様は、「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7-11)と語られましたが、私たちが信じて祈り続けるならば、主は必ずや、最善の道を開き、ご自身の栄光を拝させてくださるのです。

 私たちはシナイ山での、イスラエルの民の礼拝について学びました。聖なる神が山に下りて来られ、罪ある民に会見される場面です。モーセは民に、身を清めて、聖なる神との間に垣を設けるように命じました。それは、罪ある者たちが、神の聖さに撃たれることのないためでした。

 先日の皆既日食を観るためには、専用の眼鏡が必要でした。用意もなしに、裸眼で太陽を中止するような愚を侵せば、目を火傷してしまいます。それと同じように、私たちが神を礼拝させていただくためには、心を整えて臨む必要があります。まず、第一に、救い主イエス様の十字架の蔭に立つことです。イエス様の十字架は日食眼鏡のように、私たちを守り、神の豊かな恵みに預からせてくださいます。

 私たちはイエス様の愛と恵みを曲解し、神様が聖であることを忘れてしまうことがあります。つまり、何をしても赦されると考えてしまうのです。しかし、イエス様は、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4-24)と教えてくださったのです。ますます、私たちが礼拝を通し、神様の聖さを拝させていただきましょう。



無題 | 13:20:04 | トラックバック(0) | コメント(0)