FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

05 | 2009/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

心の傷は、こうして癒されます。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6章23節)

 先日、「けがをしない少年スポーツ」についてのセミナーがあったので、受講してきました。子どもたちの運動能力の低下が指摘される中、熱心にスポーツに打ち込む子どもたちが大勢いることは嬉しいことです。しかし、肘や肩、膝などを痛め、治療を要するようなケースも増えています。そんな中、故障せずに、運動能力を高める方法が研究されています。

特に少年スポーツの指導において気をつけるべきこととして、少年たちの身体が発達途上にあることから、練習量が度を過ぎないことと、早期から専門のスポーツだけに偏らず、体遊びや、幅広く他のスポーツにも親しむことの効用が指摘されました。また、お菓子や清涼飲料水の摂り過ぎについても注意していただけたので、息子同伴で参加した価値がありました。

 受講後、私は心に傷を受けた人たちのことを考えさせられました。肘や膝が痛むように、心の痛みを感じている人がいるということは、とかく見過ごしにされがちだからです。そして、体の痛みであれば放っておきませんが、心の痛みは、「がんばれ」の一喝で済まされたりします。しかし、故障を抱えた選手の成績が振るわないように、心が萎縮してしまっていては、どうして、頑張れましょうか。まず、十分な心の休息が必要であり、傷が癒されて、活力がみなぎってこなければなりません。

 隠れたところをごらんになるイエス様は、概して見過ごされがちな内面の傷を取り扱われる名人です。そして、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11-28)と、そのような人たちを招いておられます。また、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5-32)と語られたように、苦悩する人をこそ助けんとしておられるのです。

 では、心が傷つく大本の原因は何でしょうか。それは、神の法に従おうとしない「罪」だと聖書は教えています。「すべての人は、罪を犯したので」(ローマ3-23)とも断定されています。しかし、己の中にある罪を認めることは心の苦しみが増すことです。そこに解決の手立てがなければ、人は延々と罪の呵責に苦しみ続けなければなりません。

 しかし、先にも示したように、イエス様は罪人を救うために世に来られ、私たちの罪を代わりに負い、十字架に架かって、罪の代価を払ってくださったのです。この一方的な神の愛を信じ、感謝するときに、その人は、「新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5-17)とあるように、罪の全き赦しをいただくことができるのです。

 イエス様は今、この世におられません。しかし、教会に満ち満ちておられます。聖書を開けば、今も、ありありと語ってくださいます。讃美歌によって讃えられています。祈りの中に告白されています。そして、罪を悔い改める者に今もなお、はっきりと罪の赦しを宣言しておられるのです。



無題 | 21:09:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
心のクリーンアップ

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ペテロ5章7節)

 梅雨時は清潔に気を心がけないと、いろいろな所にカビが生えたりしがちです。そうならないためには、こまめにお掃除し、風通しを良くする必要があります。人の心も同様ではないでしょうか。辛さを我慢しすぎたり、誰かを憎み続けたりすれば、やがて、その人の心はいじけてしまうか、ゆがんでしまうかすることでしょう。また、恨みや悪意の気持ちが、カビのように心に広がりかねません。そこで、心も絶え間なくクリーンアップする必要があるのです。

 ダビデは己の罪深さに気づいたとき、神の前にひれ伏して、「私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。」(詩篇51-7)と赦しを祈りました。彼の正しい選択は、秘めたる問題を神様の御前に持ち出し、権威ある解答を求めた点にあります。究極の解決をくださるお方がどなたであるかを、幼少の頃より、よく知っていたのです。その結果、彼は心にのしかかっていた罪の呵責から解放され、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」(詩篇32-1」と、晴れやかに神を褒め称える者へと変えられました。

 私の心に常に置かれているみことばの一つが、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3-6)です。私たちは世の流れに迎合したり、人まねをしたりしているうちに、いつの間にか自分を見失ってしまうことがあります。そんなとき、このみことばは、人の思惑に振り回されてしまうのでなく、神の基準に立ち返るべきことを教えてくれています。遠回りし、迷路に迷い込んでしまっても、そこで気づいてイエス様の導きを祈るなら、私たちは祝福の道へと軌道修正していただけます。そして、恐れや不安から解放されて、平安と希望を持てるようになるのです。

 問題をあいまいにし、解決を先延ばししていくのでなく、イエス様にいのり、解決に関っていただきましょう。なぜなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1-9)と約束されているからです。主は、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、」(黙示録3-20)とも招いておられます。内カギをはずし、この救い主を心の真ん中にお迎えしましょう。なぜなら、イエス様が私たちの重荷を負い、共に歩もうとしておられるのだからです。



無題 | 15:28:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
こういうわけであなたは価値がある!

私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。(詩篇139篇14節)

 去る水曜の午後、H温泉において、「初夏の爽やかコンサート」を開かせていただきました。入梅宣言もあって、小雨降る中であったにもかかわらず、大勢の来館者が私たちの歌や演奏に耳を傾けてくださいました。私たちが会場に着くと、一人の男性が近づいて来て、「今日は、どんな歌を聴かせてもらえますか。」と声をかけてくださいました。「ああ、聴きに来てくださったんだなあ。」と思い、嬉しくなりました。また、会場係の人が私たちのチーム名「ヘヴンリードロップス」を梅雨時に合わせて、「甘い雨」と紹介してくださいました。これもまた新しい解釈で、歓迎でした。始まってみると、手拍子あり、拍手あり、掛け声までかかって、落ち着いた雰囲気の中にも、聴衆と心通うコンサートだったのではないでしょうか。あたたかい拍手でお聴きくださった皆さん、ありがとうございました!また、八月をお楽しみに。

 さて、私たちは今、テモテ第二の手紙を学んでいますが、そこに出てくるいくつかの表現に、新たな驚きと感動を禁じえません。その一つが、「この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」(1-9)というみことばです。パウロはエペソ書において、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、」(1-4)という表現も用いて、私たちがイエス様を信じるようになったのは、深い神のご計画に基づくものであると説いているのです。「えっ、神様が永遠の昔から、私に特別に目をかけていてくださった!」と思うとき、自分の価値の大きさに、思わずひれ伏して主を礼拝せずにはおられません。

 私たちはしばしば、誰にも理解されていないと感じ、すっかり勇気をなくしてしまうことがあります。そんなとき、これらのみことばを知ってほしいのです。更に、ダビデは自らの生まれについて、「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」(詩篇139-13)と感動をもって、創造主を讃えています。また、パウロはキリスト信徒について、「私たちは神の作品であって」(エペソ2-10)とも述べています。これほどまでに、神が私たちを育んでいてくださるのですから、私たちは今どのような状態であっても、主を見上げて、そこから歩き出すことができるのです。

 しばらく前に人気者歌手が酒に酔って醜態を曝したということがニュースになっていました。私は、そこまで酔っ払った彼のこと以上に、そんな状態の人を置き去りにした彼の周囲の人たちに首を傾げてしまいました。家まで送り届ける友達さえいれば、あのように世間を騒がす必要はなかったのではと感じたのです。そのように周囲に思いやりさえあれば、未然に防げる事件は相当にあるのではないでしょうか。
 だから、多くの人たちに、いつも私たちを助けようと、見守っていてくださるイエス様を知ってほしいのです。なぜなら、イエス様はすべての人に、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6-37)と約束していてくださるからです。



無題 | 19:17:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
価値ある遺産とは?

わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ伝22章32節)

 先日、学校関係で、「子どもからのSOS」と題する講演会が催されました。聴講した妻から聞くと、問題行動に走る子どもたちは、必ず親子関係の問題を抱えているとのことです。親の愛情と保護を必要とする子どもたちが、それらを得られないとすれば、その結果が屈折した形の行動として現れてくることは、想像に難くないことです。そこで、そうした不足を補おうと、いくつかの心のこもったサポート活動が続けられているそうです。それを聞いて、教会もそうした働きを担わねばと思わされました。

 パウロは若輩のテモテに宛てた手紙の中で、「私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし」(Ⅱテモテ1-3)と書き送っています。パウロはこのとき囚われの身でしたから、テモテのために実際的な助けを何もできない状態でした。しかし、彼は絶望して嘆いていたのではありません。彼には、全能の神に訴える祈りという尊い働きが残されていました。そして、彼は不断の祈りによって、まだまだ未熟だったテモテを支えることができたのです。

 私たち自身であっても、「誰かがいつも私のために祈っていてくれる。」と思えるなら、どれほどたのもしいことでしょうか。いかなる困難に直面しようと、決して、問題行動に走ろうなどとは考えもしないでしょう。それどころか、どうにかして道を切り開こうと努力することでしょう。教会に、これほど美しく、力強い祈りという奉仕が委ねられているとは、身に余る光栄ではありませんか。

 パウロはテモテの信仰の質を「純粋な信仰」(Ⅱテモテ1-5)と高く評しています。そして、そのような良質な信仰がテモテの祖母ロイス、母ユニケの真実な信仰生活から強い感化を受けて育まれたものであるとも述べています。身近なところに「純粋な信仰」のモデルを見て暮らすうちに、テモテの中に、キリストの品性が形づくられていったのでしょう。彼女たちが全うした真実な信仰の生き方は、すばらしい遺産を後代に譲り渡すこととなりました。

 ロイスやユニケは講壇から説教を語ったわけではありません。しかし、いつも神を讃え、絶えず祈り、すべてのことを感謝する、彼女たちの裏表のない普段の生き方が、強い感化を周囲に及ぼし続けたのです。私たちも、そのような純粋な信仰を次の世代に譲り渡せるよう、真実な信仰生活に励んでまいりましょう。



無題 | 16:42:08 | トラックバック(0) | コメント(0)