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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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誇大宣伝か?本物の希望か?

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(第一ヨハネ5章11節)

 朝、起きてきた息子が何をしているかと思うと、ボーッと広告を眺めては、「お母さん、。。ストアで、お菓子がこんなに安いよ。」とか、「。。電気で、パソコンが一円で買えるよ。」などと報告し、「必ず行ってね。」とせがんでいることがあります。それを聞く度に、「こうして買い物に出かける人が大勢いるんだろうな。」と思わされます。しかし、誰が考えても、精密な携帯電話がただで 貰えたり、パソコンが一円で買えるはずがないのであって、ちゃんと裏で儲ける仕組みが隠されているわけです。そして、宣伝文句に引かれて買い物をした人が、結果的に、それを得と感じるか、損と感じるかは何とも言えないところです。

 私が聖書を読み始めた頃、そこに「永遠のいのち」という言葉を発見し、強く引かれたことを覚えています。なんとなく、パッとしない生活をしていたものですから、この言葉がまばゆいばかりの輝きを持って、私の心に飛び込んできたのでしょう。それに、身近な人の死に遭遇し、人のいのちのはかなさを恐れるようにもなっていたのかもしれません。そんなときに聞いた「永遠のいのち」という言葉は、私を元気付ける希望の言葉となりました。

 今回のテトス書の学びにおいても、「永遠のいのちの望み」(3-7)という表現を見つけ、心の震えるような喜びを感じました。しかし、同時に、「これはすごい宣伝文句だなあ。」という考えも頭をかすめたのです。どんな健康食品の広告であれ、「不老長寿の薬」という表現を使えば、誇大宣伝として訴えられるのではないでしょうか。しかし、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3-16)というみことばは数限りない人々に信じられ、失望のどん底にあった人を新しいいのちに生まれ変わらせ、希望を与え続けてきたのです。そして、讃美歌や聖歌は、この「永遠のいのち」を経験した人たちの証の歌集と言うことができるでしょう。

 更に、「永遠のいのち」の約束に次いで、「相続人となる」とも約されています。この天地はやがて終焉となりますが、私たちにはキリストを王とする「新しい天と新しい地」黙示21-1)が用意されているというのです。これもまた、あまりのスケールに、頭がクラクラするような希望かもしれません。しかし、私たちはそのことを「信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」(Ⅰペテロ1-8)いるのです。

 永遠のいのちは先にあるものではありません。イエス様を信じているすべての人の中に、既にあるものです。そして、この約束が決して誇大宣伝ではなく、事実であることを、私たちの希望を歌い、語り、生活することによって証させていただきましょう。



無題 | 19:17:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
究極の「良いわざ」とは?

金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。(使徒の働き3章6節)

 今月から、M 町でののバイブルの集いが第三月曜に変更になりました。オバマ大統領が「チェンジ」を流行らせたこともあり、何か変化をと思い、話の途中で、私たちのデュエットを入れてみました。話し手もリセットされて、新鮮な気持ちで後半の話ができました。聴く側にとっても、緊張がほぐれて、よかったのではないでしょうか。讃美歌の背景にある物語なども紹介しながら、六月も、途中でミニコンサートをさせていただこうと思っています。

 それから二日後、高齢者施設に歌の奉仕に伺うと、「これから、インフルエンザ対策の会議をするんですよ。」と言っておられました。一日遅ければ、私たちの奉仕はキャンセルになったかもしれません。既に関西地区では、社会活動が麻痺しかねないような厳戒態勢が取られています。幸い、毒性があまり強くないようにも聞きますので、早く終息に向かうよう、神のあわれみを祈りましょう。

 皆さんに喜んでいただき、「さあ、帰ろうかなあ。」とすると、まだ若い車椅子の方が声をかけてこられました。そこで、廊下のベンチに腰を下ろし、その方の辛さを聴かせていただくことになりました。聴き進んでみると、その方の苦悩の中心が見えてきました。それは、身近に胸襟を割って話せる友のいない辛さでした。それがために、時々、周りに八つ当たりしてしまうと、申し訳なさそうに話しておられました。

 その場で祈らせてもらおうかとも思いましたが、場を気遣って、「あなたの苦しさは、よくわかります。お祈りしていますね。」とだけお伝えしました。毎日、ピンポンでもしているかのように、気持ちを受け止めあえる家族や仲間がいることは、何と幸いなことでしょうか。また、それ以上に、いつでも、私たちの祈りに耳を傾けていてくださる「天のお父様」を知っている幸いは、いかばかりでしょうか。

 私たちは「良いわざに励む」(テトス3-8)ように勧められていますし、人の話の聴き手になってあげることは、「良いわざ」であるにちがいありません。しかし、私たちの良いわざが、そこで終わっては残念です。その方の悩みを100%負ってくださる救い主イエス様を紹介してあげることこそ、私たちに課せられた究極の「良いわざ」です。

 パウロは、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント(13-13)と述べています。私たちは幸いにも信仰、希望、愛の三つの宝をイエス・キリスト様の中に見出しました。いや、むしろ、私たちこそ神様に見出されたのです。そして、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって」テトス3-5)とあるように、真新しいいのちを賜りました。今度は私たちが、道を求めてさまよっている多くの人たちに、永遠のいのちをお与えになるイエス様を、ご紹介させていただく番です。



無題 | 15:13:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
良いわざに励めることは幸せなことです!

それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。(テトス書3章8節)

 先日、朝倉市の市民祭が甘木公園を会場に行なわれました。卑弥呼女王コンテストをはじめ、さまざまなイベントが催されましたが、私たちも特設ステージでミニコンサートをさせていただきました。4曲目の聖歌の480番「輝く日を仰ぐとき」をデュエットしながら、10年前、甘木に来た頃の思い出がよみがえり、感慨ひとしおでした。

 そのころ、私たちはしばしば甘木公園を訪れました。息子が池の鵞鳥やブランコが大好きだったからです。ついでに裏の方に回ってみると、そこには立派な舞台がありました。係に問い合わせると、ほとんど使われていないとのこと。それでは、讃美歌を歌わせてもらおうということになり、聴衆のほとんどいないミニコンサートが始まりました。そのとき、よく歌ったのが、今回歌った「HOW great Thou art!」でした。

 歌いながら、歌詞のとおり、「How great Thou art!(神様、あなたはなんと偉大でしょうか!)」という讃美の思いがこみ上げてきました。当時は散歩で通りがかる人たちが、「何をやっているんだ?」と怪訝そうに見ている程度でしたが、今回は100名を越す聴衆が心を開いて聴いてくださったのです。ステージを下りると、スタッフの皆さんが、「よかったですよ!」と拍手で迎えてくれました。あれほどのイベントを運営する人たちの心遣いは、いかばかりでしょうか。少しでも協力できたと聞き、安堵しました。

 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2-13)というみことばが、一つ一つ実現しているのを感じます。点検してみるべきは事をするに当たっての私たちの動悸です。私たちは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Ⅰコリント10-31)と教えられています。ヨハネがイエス様を指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と叫んだように、私たちのすべての言動が主イエス様に直接、間接に栄光を帰すものでありたいと願います。

 私たちが救われたのは、「良いわざに熱心」(テトス2-14)に励むためであると聖書は教えています。まずは、これまで続けてきた「良いわざ」を熱心に続けましょう。そして、更に、新たな「良いわざ」にもチャレンジしてまいりましょう。



無題 | 15:21:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
神の教えを「飾る」とは?

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。(詩篇40篇3節)

 先日、K教会の主宰で行なわれたAファミリーバンドのカントリーゴスペルのコンサートに参加してきました。私たちも歌のプレゼントに回らせていただいていますので、「どういう歌を歌うのかなあ?」とか、「どんなトークで進行するのかなあ。」など、興味シンシンデ聴かせていただきました。バンジョー、ギター、フラットマンドリンの演奏テクニックも立派なものでしたし、四人のハーモニーにも信仰の喜びと、イエス様への愛が溢れていました。メンバーの大半が視覚のハンディを負っていますが、奏でる音楽は快晴の五月の空のようでした。賜物が異なりますので、まねはできませんが、彼らが示してくれたスピリットは、私たちのこれからの奉仕に良き刺激となっていくことでしょう。

 今回開いているテトス書の中に、「私たちの救い主である神の教えを飾るようになるため」(2-10)という表現を発見し、ハッとしました。「主のみおしえは完全で、」(詩篇19-7)とあるように、聖書は今さら飾る必要のない神のみことばですでは、この箇所で言われている「飾る」とは、どういう意味でしょうか。それは、とかく難解と思われがちな聖書のみことばを、どなたにでもわかるような形で話してあげることではないでしょうか。
 世にいろいろな食材がありますが、単品で出されたらノドを通らないような物でも、他の食材と組み合わされ、良い味付けが施されていれば、おいしく食べることができ、滋養にもなります。それと同じように、聖書の真理も聞き手の生活に当てはまる形で話されれば、どなたでも解り、神を崇めることができるはずです。

 あのファミリーバンドも、この教えを実行していました。彼らの讃美の中に、聖書の真理が目で見える、耳で聞こえる形で、見事に表現されていたからです。まず、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16-31)というみことばが、否むことのできない事実として証されていました。また、「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(33-1)という詩篇のみことばも、同様でした。彼らは実に見事に神の教えを飾って見せてくれたわけです。

 では、私たちの教会の中にも、聖書の真理が目に見え、耳で聞ける形で表されているでしょうか。もちろん、大いに表されています。しかし、もっともっと、イエス様の救いのすばらしさを巧みに飾れる教会を目ざし、成長を続けてまいりましょう。



無題 | 15:02:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
ピンチをチャンスに変えていく生き方は?

なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ伝7章11節)

 先日、○年生になった息子の初めての授業参観に行ってきました。国語の授業で、「水の心」という詩を朗読し、感想を発表し合っていました。水を掌で掬うときの緊張感が伝わってくる詩でした。「そっと大切に」という句が印象的でした。そして、その詩は「人の心も」という言葉で終わっていました。ある子が、「人の心を水の心に例えていると思います。」と発表しました。先生は、「良い点に気がつきましたね。」と反応していました。まだまだ、バチャバチャと水しぶきを上げるのが大好きなような子どもたちが、「水の心」などという繊細な表現を、どれだけ感じ取れたかわかりませんが、学校で優しさを育むような教材が用いられていることに、ひとまずホッとしました。

 その数日後、野球の地区大会の応援に行きました。見事なシャットアウト負けでした。息子もチャンスに凡退。ところが、それが発奮の転機になったようです。「毎日、。00回、素振りをする。」と言い出し、自主トレを始めています。パウロがピレモンに宛てた手紙の中で、「あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」(14)と書き送っているのを思い出しました。人から言われてするときには、数十回で飽きていたのに、目標がはっきりした途端に、あれやこれやと工夫しながら、。時間もバットを振り続けていられるとは。こちらも、何か大事なことを学んだような気がします。

多くのクリスチャンの信仰の証の中で、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8-28)というみことばが引用されているのを聴くことがあります。損としか思えないような出来事を、神は転じて祝福の基としてくださるという意味です。「ピンチはチャンス!」と意気込める人は幸いです。その人は、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8-31)という、神の祝福を信じているからです。

 野球のコーチは、「努力は裏切らない。」と子どもたちの「やる気」を促しているそうです。私たちが抱いているイエス様への信仰について、聖書は、「この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5-5)と私たちを励ましてくれています。たとえ、一時的に闇のようなトンネルを通ることがあっても、そこが終わりではないのです。イエス様が死を打ち破って復活されたように、イエス様を信じる私たちも、必ず立ち上がるのです。

 100年に一度の経済危機、そして、今回の豚インフルエンザの脅威と、暗雲垂れ込める状況が続いています。このようなピンチのときにこそ、私たちは、「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55-7)と招いておられる神様の愛を証してまいりましょう。



無題 | 13:41:48 | トラックバック(0) | コメント(0)