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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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この「希望」を知ってください!

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15章52節)

 先週、私たちはイエス様の死からの復活を祝い、イースター(復活祭)の礼拝をお捧げしました。実は、毎日曜礼拝はキリストの復活を記念しているのですが、特に、冬枯れしていた自然界が芽を吹くこの時季に、世界中のキリスト者たちが、「イエス様の復活、おめでとうございます!」と、喜びの挨拶を交し合えるとは、なんという幸いでしょうか。宣教者パウロが、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、」(Ⅰコリント15-17)と語ったように、イエス様のよみがえりは、クリスチャンたちの生命線なのです。そして、この復活の希望に堅く立った信仰の父祖たちによって、キリストの救いの福音は全世界へと宣べ伝えられていきました。

 棕櫚の枝を振り、歓呼しながらイエス様を迎えたエルサレムの人々が、次の瞬間には、「十字架につけろ。」(マタイ27-22)と叫んで止めなかったとは、人の心の変容ぶりに驚きます。宗教指導者たちの妬みに駈られた先導により、人々の歓呼の声が、激しい罵倒の叫びへと、容易く変わってしまうとは。しかし、そこにはイエス様の十字架の場面をしっかりと目撃し、それを詳細に書き残した忠実な弟子たちがいました。彼らは、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23-46)という最後の御言葉が聞こえるほど、イエス様の傍近くに留まっていたのです。

 そして、ついに栄光の朝はきました。悲しみに沈んで墓を訪れた女たちが告げられた言葉は、「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ伝24-5;6)という驚くべき知らせでした。実は、イエス様は弟子たちに再三、ご自身の死と三日目の復活について前もって話しておられたのです。しかし、誰一人、それらが現実に起こるとは想像だにしていませんでした。二千年前でさえ、死者がよみがえるなどとは、「たわごと」(ルカ24-11)と思われるような出来事だったのです。

 今、私たちはイエス様の復活を信じています。そして、ついにこの体が滅んだとしても、やがて、私たちもイエス様と同じく「栄光の体」を着せられるという希望を持っています。この希望はお金で買うわけにはいきません。信じる人だけに与えられる宝です。この宝を証する教会として、ますます主イエス様に忠実に仕えてまいりましょう。



無題 | 18:55:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
「少しばかりの力」でも価値があるんです!

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ伝20章21節)

 今年も春休み恒例のジュニアキャンプが開かれ、全国から250余名のジュニア+引率者たちが岡崎に集い合いました。私たちファミリーも、L君が立てた旅程に従い、順調に中部セントレア空港を経て、会場の青年の家に到着。さっそく、なつかしい先生方、兄姉たちから歓迎のご挨拶を受け、魂の故郷に帰ったような清清しさを感じました。今年のテーマは、「主イエスに向かって宝物を見つけよう」。熱気に圧倒されて気後れ気味の初参加者たち、オーケストラに加わって主を讃美するジュニアたち、キラキラ輝いて、見つけた宝物を証する少年兄姉たち。みんな、イエス様の幸いなファミリーの一員であることを、思いっきり楽しんだ三日間でした。

 説教者のI先生の三回のメッセージによって信仰を強められ、参加者たちは全国各地へと再び遣わされて行きました。また、彼らは新たな友達を連れ、一回り成長した姿で来年、CBT主催のキャンプに返ってくることでしょう。それまで、置かれた場で、どれだけ忠実に主イエス様にお仕えできるかが問われます。L君をはじめ、多くのジュニアたちが、クリスチャンの友達が一人もいないような環境に置かれるかもしれません。そこで、イエス様の小さな兵士として、どれだけ輝けるでしょうか。彼らがヘコむことなく、胸を張ってクリスチャンジュニアとして闘い抜けるよう祈りましょう。

 今回はキャンプの終了日が水曜でしたので、久しぶりにNBBCの祈祷会に出席させていただくことにしました。今秋、甘木に遣わされて10年の節目を迎えることもあり、宣教の報告をさせていただきたいと思ったからです。御教会の牧師ご夫妻をはじめ、あい兄姉たちが歓迎してくださり、お互いの課題を分かち合い、祈り合うことができました。この幸いな主にある交わりに加えていただくことにより、更に、甘木でベストを尽くして主にお仕えさせていただこうという気力がみなぎってきました。

 主はフィラデルフィアの教会に、「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙示録3-8)という讃辞を送られました。私たちも決して他に比して、力のある者たちではありません。かといって、全く無力なわけでもありません。イエス様を信じる「少しばかりの力」をいただきました。なお、日ごとに、イエス様にお仕えする「少しばかりの力」も増し加えられているではありませんか。教会が各自に与えられている賜物を結集すれば、神は相当のことを可能にしてくださるにちがいありません。

 神様は、「ひとりとして滅びることなく」(ヨハネ3-16)、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ(Ⅰテモテ2-4)るのです。それなのに、私たちが、どうしてあきらめてよいものでしょうか。滅びに向かっていた人が救われて、永遠のいのちに移されるのを見ることほど、すばらしいことはありません。甘木でも必ず救われる魂が起こされると信じて、イエス様の十字架と復活の福音を証してまいりましょう。



無題 | 20:50:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
この愛に、あなたは、どう応えますか?

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
(第一ペテロ2章24節)

 先日、春休みでもあり、子どもたちが隣の空き地にやってきて、野球を始めました。そのうちに、時々ボールが教会の建物に当たる音が聞こえてきました。今までにも、そのようなことはあったのですが、子どもたちがのびのびと遊べる場所が少ないこともあり、注意するのをためらっていました。しかし、いくらポンポン当たっても、いっこうに「ごめんなさい!」が聞こえてこないので、出て行って、リーダーの子にどう思うかを尋ねてみました。すると、少年は、「当ててはいけないことです。」と応えました。私は、教会の建物は多くの人たちの祈りと尊い捧げ物によって、「ここに建てられているんだ。」と説明し、「君も何度も叩かれたりしたら、どういう気持ちになる?。教会の人たちはこの建物をとても大事にしているんだ。」と話しました。

 私たちはイエス様が、「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19-14)と弟子たちを諌められたのを知っています。学校では、ボールが当たってガラスを割ることもあるでしょう。注意したことによって、子どもたちが教会に近づかなくなることもあり得るかもしれません。しかし、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1-7)とあるように、神に無礼を働く罪を戒めることは教会の務めにちがいありません。
 イエス様の御苦しみを思う「受難週」を迎え、イエス様が十字架の上で祈られた、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34)という祈りが胸に迫ります。あの子どもたちがボールをいくら教会にぶつけても平気でいたように、私たちも知らずとはいえ、どれほど神様に非礼を働いてきたことでしょうか。イエス様はそんな私たちのために、「お赦しください。」と父なる神様に祈ってくださったのです。

 私自身、醜い罪の言動を繰返していたような者でした。まことに恥ずべき過去を持つ者です。しかし、イエス様への信仰によって、「新しく造られた者」(Ⅱコリント5-17)と変えられました。自分で自分の過去を清めて回ることはできませんが、イエス様の十字架の血潮が私の罪を聖めてくださったのです。
 罪なき神の御子が、私たちの身代わりに十字架の苦しみを耐え抜いてくださったのです。私たちは、その大きな愛に、どう応えましょうか。「イエス様。ありがとうございます!」とお仕えさせていただくことこそ、恩返しの道ではないでしょうか。
この大きな愛に、どう応えますか?



無題 | 19:58:41 | トラックバック(0) | コメント(0)