FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

02 | 2009/03 | 04
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

こうして「健やかな心」を養う

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ書1章7節)

 過日開かれた集いにおいて、「健やかな心を養う」というテーマで語らせていただきました。まず、出席者の皆さんに、「健やかな心」と聞いて、何をイメージするか尋ねてみました。まず、A姉は、「思いやり」とお応えになりました。次に、B姉は「寛容さ」、C姉は「赦し」とお応えになりました。そして、最後に、D姉が「揺れ」という言葉を使われたのです。これはおそらく、ご自身の今の心情を吐露されたのでしょう。わたしは、前者三つはモチロン「健やかな心」の特徴なのですが、適度に「揺れる心」も、意外に健全なのではと考えさせられました。

 確かに私たちは、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」(Ⅰコリント13-4)と教えられています。そして、そうなりたいと願います。しかし、そうなれない自分に落胆することもしばしばです。つまり、心が揺れているわけです。目ざしている理想と、現在の到達レベルとの間でもがきながら揺れていると言ってもよいかもしれません。そして、このように揺れている者であるからこそ、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11-25)と語られたイエス様にお頼りしているのではないでしょうか。

 また、私たちのすべての罪はイエス様の十字架によって「帳消しにされた」と信じています。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちは過去の失敗を思い起こし、自責の念に苦しむことがあります。そんなとき、「信仰が足らないから、私はまだ救われていない。」などと考え始めることがあります。そうした揺れを静めてくれるのは、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」(マタイ9-2)と語りかけるイエス様のみことばです。そして、このみことばを聞いて、「100%罪が赦されている!」と受け止め、感謝の生活を始めていくのが「健やかなクリスチャン」であるにちがいありません。

 今、イースターの案内を配布した足で、甘木公園の桜並木道を歩いてきました。帰りにお饅頭も買ってきました。すべての恵みをくださる神様を讃美します!こんな晴れやかな気持ちで過ごせるのは、イエス様の十字架によって、私の罪がことごとく赦されていると確信しているからです。そして、教会こそが、イエス様を信じているすべての人に、「あなたの罪は赦されました。」と宣言する権威を授かっているのです。



無題 | 13:10:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
「仕える喜び」とは?

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ伝10章42節)

 先日、小学校の卒業式があり、四年生以下は休みになりました。そこで、子どもたちが相談し、連れ立ってスポーツ遊技場へ行くことになったようです。しかし、子どもだけでは行けませんので、妻が7名の男の子たちを引率することになりました。まず、これがただの遊びで終わらず、子どもたちにとって、社会勉強の機会になるようにと願い、いくつかの目標を立てました。一つは電車を乗り継いで、公共交通機関を体験してみることにし、L君がネットを使って綿密な旅程を立てました。それを見た一人のお母さんが、「学校の先生みたいですね。」と感心していたそうです。

 甘木駅で天のお父様に守りを祈って出発しましたが、スポーツゲームに夢中になっているうちに、ハプニング発生、T君がバッグを置き忘れてしまいました。しかし、神様の守りをいただき、バッグは無事届けられていたそうです。みんなで心配し、みんなで感謝したにちがいありません。こうして、「友情を深め合う」という目標も達せられたことでしょう。子どもたちにせがまれ、追加のゲームをしたため、帰宅は遅くなりましたが、どの子も、「楽しかった!また行きたい!」と言っていたと、お母さんたちからお礼の電話がかかりました。今の教会の力からして、子どもたちのために出来ることは限られていますが、これからも地域に仕える小さな働きを続けたいと願います。

さて、私たちは先週、聞きなじみのない人物について学びました。我が子アブシャロムの陰謀に合い、野山を逃亡するダビデ王を助けたバルジライの信仰についてです。(第二サムエル17-27~29) ダビデの一行は取るものも取りあえず王宮を去らねばなりませんでしたので、放浪生活で疲労困憊していました。そのことを知ったバルジライは、援助物資をかき集め、陣中見舞いにやって来たのです。大荷物を遠路運ぶのは、80歳の彼にとって、骨の折れる奉仕でした。では、その勇気と力は、どこから来たのでしょうか。
 信仰熱きバルジライにとって、神がお立てになった王の困窮を知って援助に出かけることは、神ご自身にお仕えすることに他ならなかったのです。彼は神への愛に基づいて行動する信仰の人でした。傷心の旅を続けていたダビデは、この愛の行為によって、どれほとの慰めと励ましを得たことでしょうか。事実、この援助によって力を回復したダビデの軍は敵を打ち破ることができたのです。

 イエス様の教会の働きも、踏みとどまって十字架を負い続ける、名もなき聖徒たちの愛の行為に励まされて前進し続けていきます。私たちもバルジライのように、主の必要に迅速にお応えする者でありましょう。主イエス様のために為された愛の行為は、一つ残らず神の実旨に書き留められているのですから。



無題 | 20:11:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
すばらしき人生の方向転換!

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ書40章8節)

 先の礼拝に聖霊が働いてくださり、と言うよりも、聖霊は常に働いておられるのですが、「救いを求めておられる魂がそこにおられた」と解すべきでしょう、三人の方々がイエス様を信じる決心に導かれ、一人の方がバプテスマ志願を表明されました。ある姉妹が、「甘木教会の真ん中にイエス様が立っておられますね」と喜びの言葉を述べられました。この言葉を聞いて、私は更に嬉しくなりました。教会において頭なるイエス様が崇められ、福音が正しく信じられ、集う方々が主との霊の交わりを持ってこそ、「祝福された礼拝」と言えるからです。

 また、聖歌隊員の中から、「うまく歌うというよりも、魂に訴えかけるような讃美を歌いたい。」という言葉を聞くことができました。これもまた、「すばらしい気づき」だと感じました。それで思い出したのが、私が長年奉仕させていただいたC教会の聖歌隊の奉仕の姿勢です。午後に一時間、礼拝前に15分練習しましたが、よく祈りもしました。その祈りの一致によって、福音の証人としての聖歌隊が育てられていったのです。奉仕の心構えが整えられることにより、聖霊がますますジョイフルクワイヤーの讃美を通して働いてくださり、救われる魂が起こされますよう祈ってまいりましょう。

 イザヤは来るべきキリストについて、「主は羊飼いのように、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き」(40-11)と予言しました。そして、イエス様が来られ、傷ついた人々を優しく包み、信仰を呼び覚まし、輝いて生きる者へと造り変えてくださったのです。

 それのみならず、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10-11)と語られ、事実、私たちを罪の束縛から救うために、ご自身のいのちまでも捧げてくださいました。今朝、ジョイフルクワイヤーがバッハ作曲の受難曲を歌いますが、その中に、主の御苦しみが、ありありと表現されています。その歌詞を噛みしめ、私たちもまた主に献身して生きる者でありたいと願います。

 とは言え、私たちは弱い者であり、願うところとは裏腹な歩みをしがちです。そんなとき、私たちの信じる神は、「永遠の神、地の果てまで創造された方。」(イザヤ40-28)であることを思い返しましょう。主は、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」(40-29)と約束しておられます。クリスチャンの勝利と希望は、死をも打ち破り復活された救い主イエス様にこそ在るのです。



無題 | 20:25:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
思いやりの実践から始めてみましょう。

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5章16節)

 前回、M兄を訪問した折、「この施設群のどこかにコンサートのできるところはないか?」と尋ねながら歩いてみました。すると、最終的にデイサービスの応接室に通されました。所長さんがおいでになって、びっくり!お互いに子どもを介して顔なじみだったのです。わけを話すと、「喜んで!」ということで、ミニコンサートをさせていただくことになりました。

 当日は10名ほどの高齢者の方々と、5名ほどのスタッフ、そして、私たちのミニミニ音楽会となりました。季節の歌とトーク、フィナーレの「神共にいまして」という定番の内容でした。最後に所長さんがご挨拶くださり、「ヘブンリードロップスのお二人とは少し知り合いで、神様の守りを祈りながら歌っていただきました。」と涙ぐみながら、再訪問の依頼をしてくださったのです。

 私たちは何とか世の人々と共感し合う機会を持てないものかと、コンサート活動を始めましたが、その願いを主が祝していてくださるのを感じます。それまでは、出会えば挨拶を交わすだけの間柄でしたが、今回のコンサートを通して、お互いの生き方をしっかりと見交わすことができました。これから先、どういう展開になるかはわかりませんが、お一人の口から、「神様の守り」という言葉を聞き、主が働かれたのを感じました。

 イザヤは、「主の道を整えよ。」(イザヤ40-3)と呼ばわりましたが、何事であれ、目的を達成していくためには下準備を要します。「険しい地は平野となる。」(40-4)とあるように、種を蒔こうとすれば、開墾し続けなければなりません。人々はいきなりイエス様の救いについて聞いても気持ちがそこにないために、反射的に拒否して、それで終わりということになりがちです。そのために、リラックスして福音を聴けるように工夫したり、配慮したりしてあげる必要を感じます。

 私はかつて自分勝手な者でしたが、イエス様を知ることによって、少しは人を思いやれる者に変えられたと思います。思いやり(compassion)のある社会は、景気などに左右されない幸せな社会です。その実現のためには、イエス様が歩まれたように、草の根的な思いやりの実践が不可欠です。教会もあらためて、一隅を照らす小さな思いやりの実践から始めてみましょう。



無題 | 20:11:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
「共に生きる」とは?

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ書2章8節)

 先日、精神的な弱さを持つ方々の協同作業所をお訪ねし、30分ほどのミニコンサートをさせていただきました。お忙しい作業の合間、こころよく迎え入れてくださった作業所の皆さん、ありがとうございました。季節の歌や、思い出の歌に共に唱和してくださり、和やかなひとときを過ごすことができました。最後に歌わせていただいた「明日をつかさどる方を私は知っている」は、私の「人生の歌」とも言える一曲です。日々弱さと闘っておられる方々に、天に私たちを見守っておられる神様がおられることを知ってほしいと祈りつつ歌わせていただきました。

 中にはボランティアとして作業に協力しておられる方々もいらっしゃいました。自らを低くして、弱さを持つ方々と共に重荷を負い合おうとする姿勢に、謙遜の実践を見る思いがしました。今学んでいるイザヤの預言において、イエス様は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」(42-3)と表現されていますが、その生き方は、まさに弱者の只中で奔走されたご生涯でした。イエス様は果たして今日の教会に、どのように歩むことを臨んでおられるのでしょうか。

 イエス様がナザレの会堂に入り、ご自身について語られた、「貧しい人々に福音を伝えるように」という預言の書をお読みになられた(ルカ4-18)という箇所に感動を禁じえません。私たちが礼拝に集い、聖書を公読するように、二千年前、イエス様も会堂に立たれ、イザヤ書を開き、お読みになられたとは、時の隔たりはあるものの、親近感を感じるのです。イエス様は巻物を解かれ、ヘブル語のイザヤ書をお読みになられ、私たちは日本語で読んでいます。しかし、同じみことばを拝読できるとは、神様のご計画は何と偉大なことでしょうか。

 救い主イエス様は預言どおり、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれ」(イザヤ53-5)ました。その尊い「打ち傷によって、私たちはいやされ」、今日、救いをいただいているのです。すべては神の恵みなのですから、私たちもイエス様の心を心として、謙遜に神と人に仕える歩みを続けてまいりましょう。



無題 | 13:31:24 | トラックバック(0) | コメント(0)