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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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赦された者だけが赦せるのです!

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。         (コロサイ書3章14節)
日本丸はひどい嵐に遭遇して大揺れに揺れているのですが、舵取り役の一人、中川財相が辞任されました。理由は国際会議の後の記者会見で醜態を曝したからとのことです。その立場の重要性を思えば、当然なのかもしれません。しかし、私はあえて、別な視点を書くように導かれました。それは、社会の根底に愛が流れていてほしいという視点です。愛は人の恥を暴露するものではないはずです。そっと覆い隠してやるものではないでしょうか。

 国家財政の中心にあって施策を講じるという責任の重さはいかばかりでしょうか。そうした中で、切り替えよく安眠に就くということが容易くできるものでしょうか。更に、体調の悪い中で国際会議に列席し、国益のために奔走する、その結果、弱さを露呈してしまったとしたら、幾分かの人たちが擁護に回ってやるのは当然ではないでしょうか。皆が「思いやりのある社会」を願うのであれば、このような場面においても、愛の片鱗を見たいものです。

 弟子のペテロが人の罪を幾度まで赦すべきでしょうかと問うたとき、イエス様は、「七度を七十倍するまで」(マタイ18-22)とお応えになりました。つまり、限りなく赦すということです。これを聞くと、「そんなことはあり得ない。それでは、社会正義が成り立たない。」と言われることでしょう。それも、もっともなことです。しかし、真に思いやりのある赦しを経験したひとが、平気で同じ過ちを侵し続けることができるでしょうか。失敗者に回心を促すのは厳しい叱責ではなく、期待のまなざしでみつめる愛ではないのでしょうか。

 先日、健康福祉館で行なった「春待ちコンサート」のためにお祈りいただき、ありがとうございました。前館長さんも来場しておられ、閉幕後に、「すばらしかった!」と声をかけてくださいました。度を重ねるごとに、歌う方も聴く方もリラックスして、気持ちの距離も縮まってきているように感じます。
 私たちは生来、どれだけ人を感動させる資質を持ち合わせていた者だったでしょうか。少なくとも、私はそのような者ではありませんでした。私を生まれ変わらせ、神と人に「役に立つ者」(ピレモン11)としてくださったのはイエス様の福音です。

 教会にこうした証の機会が与えられれば与えられるほど、イエス様の下に一致することの大切さを感じます。イエス様が「ぶどうの木」(ヨハネ15-5)であり、私たちは枝にすぎないからです。ますます礼拝を尊守し、みことばを蓄え、祈りに励んでまいりましょう。



無題 | 15:53:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
不況の中でも「幸い」な生き方とは?

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ伝6章33節)

 いよいよ今度の水曜日はH温泉でのヘブンリードロップスの「春待ちコンサート」です。各自で準備しており、そろってのリハーサルもしませんので、どんな内容になるかは当日のお楽しみというところです。とは言え、温泉の効能に加えて、私たちの奏でる音楽が集われる皆さんに感動と希望を与えるものとなるよう期待しましょう。

 先日、イエス様が七つのパンと少々の魚で四千人を養った奇跡について学びましたが、イエス様は私たちを用いて、人々の空虚な心を養おうとしておられるのではないでしょうか。私たちは確かに「少々の魚」程度の者ですが、イエス様が祝福してくださるとき、虚しい心を満たして余りあるものとなり得るのです。可能性というものは今なお未知数であり、神は信じる者に驚くべき結果を見させてくださいます。

 世の中不景気で、物が売れず、労働力が削減されて大問題になっています。しかし、車にしろ、テレビにしろ、いくら作っても売れ続けるということがあり得るでしょうか。オーストラリアでは、異常な熱波から火災が発生し、大災害になっています。気温が40数度にも上昇したとなれば、そのような事態が起こっても不思議はないでしょう。地球環境がそれほど危機的であっても、なお物の消費を煽ることが、果たして得策なのでしょうか。

 イエス様は人々に、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6-27)と語られました。果たして、人は何のために働くときに最も幸福なのでしょうか。もちろん、最低限の物がなくては困りますが、それ以上に物に執着し続けてては迷路に迷い込むだけです。そのような生き方を神が祝福されないからです。

 人には平等に「神を喜ぶ」という仕事が与えられています。これは神に造られた人としての「聖なる義務」です。しかし、多くの人々は暇をもてあましても、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53-4)と予言された救い主イエス・キリストを知ろうとは努めません。それが実に神を悲しませていることに気づいていないのです。

 私たちは幸いにも「神を喜ぶ」者とされました。もはや失業はありません。永遠に神を褒め称え、祈り、感謝を捧げるのです。イエス様が導いてくださったこの町で、揺るぐことなく、「永遠のいのちに至る」働きを続けてまいりましょう。



無題 | 15:43:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
チャレンジに、どう対処するか?

2004年11月週報より
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
(エペソ書4章3節)

日本中が大きな自然災害を経験した今秋、私たちはイエス様のご人格、お働き、みわざについて学ばせていただきました。自然の猛威に怯えるようなこともありましたが、イエス様がその支配者であることを知り、救われている身の幸を感謝したのではないでしょうか。

また、私たちは新会堂のために具体的に考え、決断を迫られることとなりました。自分ひとりのことについて選択するにも、迷いが生じるものです。ましてやイエス様の教会のこととなれば、決断に躊躇します。そこで、問われるのがイエス様への信仰です。どれだけ我を棄てて、イエス様のお導きに委ねられるかということです。

イエス様ご自身、十字架を前にして、どれほど祈られたことでしょうか。聖書は、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」と伝えています。私たちの罪のために、罪のないお方が、これほど苦悩してくださったのです。

イエス様の御苦しみの故に罪赦された私たちが、イエス様の教会のために苦しむことができないものでしょうか。私たちもイエス様と共に、ゲッセマネの園で祈りましょう。イエス様のご計画が成ることを求め続けましょう。

特に、会堂建築は大事業ですから試行錯誤して当然です。しかし、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」とみことばは約束しています。

主のみこころを求めて進む時、示されることには何かの意味があるものです。足踏みをしてでも祈ってみましょう。必ず、御霊の一致が与えられます。



無題 | 09:48:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
このお方には出来る!(Yes, He can!)

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15章58節)

 先日、ある認知症患者さんたちの施設に歌の慰問に行ってきました。私たちを出迎えてくださった後、看護士さんがドアに鍵をしておられました。患者さんたちの身の安全のためなのでしょう。そういう方々ですが、いざ話しかけてみると、結構反応してくださるのです。用意していった春の歌を歌い出すと、きちんと付いて歌える人もありました。最後に「神共にいまして」を歌い、「また会う日まで」のところで手を振ると、皆さん笑顔を見せながら、手を振り返してくれました。お茶をいただいた後、帰り際にもう一度挨拶に顔を出すと、さっきは無反応だったおじいさんが、前進で別れを惜しんでくれました。誰一人席を立つこともなかったのですから、鍵を掛ける必要はなかったようです。

 イエス様は集まってきた群集が空腹で、弱り果てているのを見て、「かわいそうに(マタイ15-32)思われた。」とあります。一人一人が負っている苦悩に同情してくださったということです。その人の痛みを同じように感じ、悲しみを共に悲しんでくださったのです。私たちも深刻な介護の現場に招き入れられ、衰えたご老人方、試行錯誤しながら介護に取り組んでいるスタッフの皆さんと、しばしの和みを共有することができました。そして、この地に立てられた教会として、負っていくべき具体的な働きが見えたような気がしました。

 ヨハネはイエス様について、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(1-11)と記しています。聖書の預言を聞いていた人々でさえ、世の救い主を拒んだのですから、今、この地の人々が福音に無関心なのは、やむを得ないでしょう。「なぜ、聖書だの、キリストだのと、時代錯誤なことを言うのか。」と冷笑する人たちが多いのも無理からぬことかもしれません。しかし、イエス様は変わることなく、「力ある神、永遠の父」(イザヤ9-6)なのです。

 私たちは病に苦しむ人たち、失業者、失敗者をかわいそうに思い、同情することはできても彼らを救うことはできません。しかし、私たちは真の救い主を知っています。そして、そのお方を紹介できます。全能者に向かって、その人の傍らで祈ることができるのです。まさに、「私たちはできる!(Yes, we can!)なのです。

 自分を見て落胆するのでなく、主の栄光を仰ぎ見て、日々力をいただく教会でありましょう。イエス様はいつも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20-27)と励ましていてくださるのですから。



無題 | 19:43:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
ここに「The Hope(真の希望」がある!

2004年11月週報より

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ伝24章5,6節)

甚大な被害をもたらした中越地震の中で、一筋の光明を見せてくれたのが、2歳のゆうたくんの救出でした。土砂に押しつぶされ母や姉が亡くなったのですが、彼の生命は4日間保たれ、ついに救助隊によって助け出されました。

愛する人たちの死ほど辛いものはないでしょう。しかし、一人の生命の回復は喜びと希望を与えてくれます。
イエス様に期待し、付き従ってきた人たちにとって、十字架上のイエス様を見上げることは挫折でしたし、先の見えない行き止まりの経験でした。うなだれた彼らの足はどこへ向いたらよかったのでしょうか。この絶望の中で、彼らはイエス様の復活の知らせを聞いたのです。

弟子たちがイエス様のからだを盗んだという者、イエス様は気絶していただけだという者、弟子たちは悲しみのあまり、幻覚を見たと主張する者、信者の心の中に生き返ったと言う者がいました。しかし、これらのいずれの説も、キリストの復活の事実の前には泡のように虚しい反論だったのです。

迫害を恐れて戸を閉じていた臆病な弟子たちを、あれほど大胆な宣教者に造り変えたのはキリストの復活の事実でした。彼らのメッセージの中心は、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」というものでした。

この世は天国ではありません。ますます混迷を極めています。テロや内戦の頻発、環境汚染と自然災害の多発、人はどこに平安を求めたらよいのでしょうか。
私たちの主は罪の支払いを終えて、死を打ち破ってよみがえられました。ここに、何者も奪うことのできない喜びと希望があります。



無題 | 09:34:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
祝福を得るために、どうすべきか?

それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。(ルカ伝24章50、51節)

 今年初の「バイブルの集い」のテーマとして、「祝福」を掲げてみました。年賀状の多くに、「ご多幸を祈ります。」という言葉を見かけるように、年初に幸せや祝福を願う思いは万人に共通していると思うからです。では、祝福は単なる願掛けで転がり込んでくるものでしょうか。それとも、しかるべき手続きを踏んでこそ、与えられるものでしょうか。

 聖書は実に多くの箇所において、神様が人を祝福なさることについて言及しています。まず、「神は彼らを祝福し」(創世5-2)とあるように、人間は神様の祝福を受けて、この世界に存在するようになったということに感動します。本来、人は神に愛され、祝福されていたのです。ところが、今日、多くの人が苦痛を抱え、絶望の淵をさまよっています。神の祝福から遠いところにある人たちが増えているように見受けます。この悲しい現実を、どう受け止めればよいのでしょうか。

 まず、考えてみなければならないのは、神様が無条件に、かつ盲目的に人を祝福されるかという点です。聖書を読めば読むほど、神様の祝福には条件が付されていることに気づくにちがいありません。たとえば、「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し」(詩篇5-12)とあるように、神様は心根の「正しい者」を祝福されると約束しておられるのであって、神に恩知らずな生き方をする者まで祝福するなどと語られた箇所は一つもありません。ですから、祝福を祈る前に、神様に向かう私たちの信仰の姿勢を点検してみる必要があるのです。

 箴言には、「忠実な人は多くの祝福を得る。」(28-20)とあります。神様に真実な礼拝を捧げている人で、人に対して不誠実であるということがあり得るでしょうか。私たちは真の神様を拝し続けることにより、人を愛し、隣人をいつくしむ者へと変えられていきます。その結果として、祝福は巡り巡って私たちのもとへと返って来るのです。

 私たちの信仰は真っ直ぐにイエス様に向き、神様の祝福を余すところなく受け取る状態にセットされているでしょうか。礼拝、感謝、祈り、奉仕・・・。修正すべきは英断をもって正していただきましょう。そして、文字どおり、祝福された群れとして、主イエス様にお仕えしてまいりましょう。



無題 | 16:51:49 | トラックバック(0) | コメント(0)