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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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「参加できる」喜び!

2004年11月週報より
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(第二コリント5章21節)

今回の新潟県中越地震の被災者への義援金が100億円を超えたと報じられました。被災者の皆様と苦難を分かち合いたいとの思いの表れでしょう。そして、多くの人々の中に眠っていた思いやりの心が揺り動かされたことは、過酷な状況の中にあっても、確かな希望の光を見せてくれます。

私たちの地で起こったかもしれない災害を、新潟の方々が身代わりに受けてくださったと感じた人たちが相当数おられるのでしょう。聖書はイエス様の十字架の苦難を、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」と伝えています。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」のです。

ねたみに宗教家たちは不当な裁判で、イエス様に十字架を負わせました。人々は散々イエス様をからかい、侮辱しました。弟子たちさえ主を裏切ったのです。そんな中、たまたまその場に居合わせたようなクレネ人のシモンという男が、イエス様を助けて十字架を負うことになりました。

学識を積み、教養を身に付け、財力を持った人たちがキリストを排除するために知恵を絞ったのに対し、シモンは事情もよくわからないような状態ながらも、イエス様の十字架を負うために身を挺したのです。このご奉仕の故に、彼の人生は輝きました。

ペテロは説教し、パウロは福音の宣教師となりましたが、イエス様が十字架を負って歩まれた時、彼らはその場にいませんでした。それに引き換え、シモンは何の目立った活躍もしませんでしたが、イエス様の十字架を共に背負って歩んだのです。

今、私たちはイエス様の会堂を建て上げようとしています。この場に居合わせたことは神の恵みです。私たちもイエス様の尊い事業に、喜んで参加させていただきましょう。



無題 | 11:00:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
現状認識から始めて、勝利へ進もう!

死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ローマ書6章13節後半)

 先日、オバマ氏がアメリカの第44代大統領に就任し、演説を行ないました。なんと200万人もの人々が氏の大統領就任を祝うために集まったそうです。その中の多くは日々の生活にさえ困窮している人たちであったかもしれません。しかし、人々は燃えていました。新しいリーダーに期待し、共に国の再建に立ち上がろうとする意欲がみなぎっているように感じました。

 オバマ氏はその演説において、アメリカがあらゆる面において、危機的な状態にあることを正直に伝えていました。どこへ向かって、どう踏み出して行くかは現在位置の正しい認識から始めなければなりません。イザヤの預言活動も同様でした。彼は、「あなたがたの国は荒れ果てている。」(1-7)と民に現状認識を促しました。歯の浮くような言い方ではなく、ストレートに民の背信の罪を指摘したのです。

 体の健診を受けるのも億劫なものです。どこか悪い所が見つかるのを恐れます。生活の習慣を変えたりしたくないからです。そうこうして一日延ばしにしているうちに、突然病を発症することがあります。そして終に、体が上げていた悲鳴を無視し続けた愚かさを後悔することになるのです。これもまた、現状認識がいかに大切であるかを教えてくれる例です。

 イザヤは神の聖さに触れたとき、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で」(6-5)と、己の罪に目が開かれました。その結果、彼は神のメッセージを正直、かつ大胆に語る預言者へと引き上げられていったのです。罪に穢れたままで、聖なる神にお仕えすることはできません。神による「きよめ」が必要です。それがイエス様の十字架への信仰です。

 神に対する己の罪を自覚することは決して敗北ではありません。それどころか、勝利への第一歩です。イエス様の十字架の救いを信じるだけで、いっさいの罪を赦していただけるとは、なんともったいないような恵みではないでしょうか。この特赦を感謝して、主に喜んでお仕えする歩みを続けてまいりましょう。



無題 | 13:47:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
人が今、立ち返るべき所は?

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
(イザヤ書1章18節) 

私たちは年初にイザヤ書を開き、そのメッセージに耳を傾けてみましょう。イザヤはバビロンの侵略を前に、存亡の危機に立たされていたユダに向かって、神のメッセージを伝えた預言者でした。エルサレム神殿において儀式としての礼拝は行なわれていましたが、その内容は形式的であり、信仰心の伴わないものへと堕落していました。そんな状態のユダに向かってイザヤは、「背を向けて離れ去った。」(1-4)と、彼らの背信を厳しく断罪したのです。

 その時代から2,700年も経た今もなお、同じパレスチナを舞台に残虐な殺戮行為が繰り返されています。それだけでなく、各地にテロが頻発し、人道援助に身を捧げているような人たちの命までが危険に晒されています。昨年末、「変」という字が選ばれていましたが、このように罪の熟した世に、果たして何が真の変革をもたらし得るのでしょうか。

 神様は激しく断罪した後で、「さあ、来たれ。論じ合おう。」(1-18)とユダに向かって、ご自身のもとへと帰るよう招かれました。そして今、私たちをも同じように招いておられるのです。自分たちのご都合主義の形式的な祈願から転じ、真の神のみこころを求める信仰へと一大変革することが求められているのです。

 招きのことばに次いでイザヤは、「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」(19)と祝福の約束を語りました。イエス様も、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と招いてくださり、「あなたがたを休ませてあげます。」と魂の安息を約束されました。ご自身に背を向けている世に向かって、神様は「なぜ、自らを傷つけ続けるのか。」、「立ち返って、いのちを得よ!」と声をかけ続けておられるのです。

 先日、教師を退官された81歳の方をお訪ねする機会がありました。その方は、「日本はどうして、こんな風になってしまったのか。」と嘆いておられました。しかし、お孫さんたちがキリスト教のミッションスクールで学んでおられるそうで、そこでの宗教教育に期待しておられるとのことです。ご本人はキリスト信仰をお持ちではありませんが、キリスト教に心を養う教えがあると感じておられるのだそうです。

 果たしてミッションスクールで神のみことばが文字通りに伝えられているかどうか知りませんが、キリストのもとへと帰らなければならないことは確かなことです。すべての人はイエス様の十字架を仰ぎ見て、罪の赦しを請わなければなりません。私たちもイザヤのように、イエス様に赦しがあり、救いがあることを大胆に証し続けようではありませんか。



無題 | 15:06:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
前進を促進するちからは、ここから来る!

2004年11月週報より
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」            (マルコ伝14章36節)

イエス様は弟子たちに請われて、祈りについて講じられましたが、それ以上に自らが祈りの生涯を貫かれました。事が重大であればあるほど、祈りのために時を割かれたのです。
イエス様の祈る姿は、父なる神への信頼の深さを表しています。どこまでも謙遜に、父に依り頼むイエス様こそ、私たちが模範とすべきお方です。

私たちは常識的であることを好みます。信仰に基づく判断が非常識であってはいけないでしょう。しかし、常識でがんじがらめにされていては、神への期待がわいてきません。祈りは常識的に生きるためではなく、神のみこころを行っていくための秘訣です。

祈りの中で私たちの企ては神の修正をいただきます。どこに問題があるかに気づかされ、誘惑のワナから守られ、祝福の道へ進むことができます。

私たちは時に行き詰まりを感じ、無力感に押しつぶされてしまいます。その閉塞感を打破するものは、イエス様への信仰と祈りです。ダイナマイトを仕掛けながらトンネルを掘り進んで行くように、祈りながら祝福の道を切り開いて進もうではありませんか。

ルカはゲッセマネの園での祈りを、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」と描写しています。会堂建築は容易い事ではありません。人が救われることはなおさら難しいのです。
しかし、神の尊い事業に加われるとはなんと幸いなことでしょうか。祈りつつ働き、天に宝を積む教会とさせていただきましょう。



無題 | 10:08:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
この「希望」に信頼して進もう!

このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル書12章1節)

 いただいた年賀状の一枚に、ある先輩牧師が退任なさるとの挨拶が書かれていました。新春に観た駅伝のように、福音のたすきも後継者へと引き継がれていくのでしょう。そして、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道3-11)にちがいありません。今、たすきを掛けて主の任に当たらせていただいている私たちは、この一年、ひたむきに主の御用に勤めさせていただきましょう。主の福音はいつの時代でも、行く手を照らす灯台だからです。

 年頭の暗唱聖句で、「日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。」(詩篇96-2)を覚えました。今年の教会の目標聖句にしましょう。イエス様が、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15-7)と語られましたが、一人でも多くの人が救いの道を見出すことができるように、皆が祈りと力を合わせて働かせていただきましょう。

 年初から体調を崩された方、手術を受ける方がおられます。速やかな回復を皆で祈っています。昨晩開いたみことばに、「すべてのものにいのちを与える神」(Ⅰテモテ6-13)、「神は祝福に満ちた唯一の主権者」(6-15)とありました。私たちは患うことも、つまずくこともありますが、神は回復を与え、祝福せんと見守っていてくださいます。ですから、主の約束を信じて、どんなときにも喜ぶことができるのです。

 今年の教会の歩みを皆さんで想像してみましょう。おそらく、イースターをはじめ、豊かな音楽プログラムの讃美礼拝を四度は計画するのではないでしょうか。秋にはまた、市民音楽祭にも出演したいですね。美奈宜の杜の集い、H温泉でのコンサートにも期待しています。こんな調子で、あっという間にクリスマスへと進んで行くのではないでしょうか。

 また、「人の益を計り、良い行ないに富み」(Ⅰテモテ6-18)というみことばにも教えられています。自分たちの目的が先んじ過ぎてしまって、人の心を閉ざさせるようでは、教会の門を自ら閉ざすことにもなります。イエス様はこの世に来られた目的を、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マタイ20-28)と明らかにされました。私たちも与えられている賜物を用いて、地域にご奉仕させていただきたいものです。

 この他にも、教会が取り組まなければならない幾多のことが起こってくることでしょう。それらを自分たちの浅知恵で解決しようとしても、力不足に落胆するだけです。常に、全能の神に信頼して、祈り抜きましょう。主は、「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6-17)と、いつも教会を励ましていてくださるのです。



無題 | 15:17:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
計画を成功させるカギは?

2004年10月週報より
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。            (ルカ伝11章9節)

先週の週報を書き上げて数時間後に新潟で大震災が起こりました。台風のつめ跡も癒えない間の大災害に世の終わりの警鐘を感じます。しかし、イエス様はこうした兆候に惑わされることを戒め、正しい信仰の道に歩むよう勧められました。

被災者の方々の上に神の見守りを切に祈いながら、私たちは決して揺らぐことのないキリストの救いに信頼し、この尊い福音の宣教に勤しんでまいりましょう。何事が起ころうとも、イエス様のみことばにとどまる者は安全です。

イエス様はご自身が祈る姿を弟子たちにお見せになりました。とくに、重大な場面では静かな所へ退かれ、祈りに専念され、父なる神のみこころを求められました。祈りは私たちに神の力を注ぎ込み、正しい判断力を養ってくれます。

神様は私たちに求めることを勧めておられます。ただし、私たちの願いが神のみこころに合致しなければ叶えられません。祈りは私たちをキリストに似た者へと造り変える過程だからです。

祈りについて学ぶことと、祈ることとはちがいます。私たちは祈りを通して、日々神と親しく交わることができます。そこは魂の避難所です。力に満たされる場です。
神のみことばが語られる会堂建築のために熱心に祈りましょう。それは明らかな神のみこころだからです。神が私たちに望んでおられる事業です。

イエス様は、「わたしの家は祈りの家」と語られました。神を褒めたたえ、永遠のいのちの福音を説き、悩む人々が救われる場を建て上げることは真に名誉なことです。その尊い事業に参加できることを感謝しましょう。

この大プロジェクトは既に動き出しています。誰も傍観者にとどまらず、この聖なる事業に、まず祈ることをもって参加しましょう。神は全能であり、私たちの信仰を見たいのです。



無題 | 17:02:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
新年、この姿勢を貫こう!

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37篇5節)

 二〇〇九年明けましておめでとうございます。この年頭の挨拶と共に、旧年の歩みはリセットされ、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5-17)とあるように、私たちは、まっさらな新年の門に立っています。先立ってくださる主イエス様が、来る365日にも、どのような、どんでん返しの奇跡を見せてくださるか楽しみです。実は、昨年のページが閉じようとしたとき、主は三つの「びっくりプレゼント」を教会にくださいました。

 まず、26日の子どもクリスマス会に、13名の子どもたちが集まってくれたことは大きな慰めでした。しばらく前から、中心になる子どもたちがやってきては、プログラムや飾り付けの準備をしていました。彼らが楽しみながら、クリスマスの本当の喜びを知ることができるにはと、こちらとしても、いろいろと工夫を凝らしてみました。ベストは尽くしたつもりですので、あとは神様が柔らかな子どもたちの心に、祝福のプレゼントを留めてくださるよう祈るのみです。

 二つ目の「びっくりプレゼント」は、年末感謝礼拝に送られてきました。ニュージランドからお帰りになったばかりのK様母娘が主に礼拝をお捧げせんと集ってくださったのです。「新来会者が与えられますように」と祈り続けましたが、いささか落胆しかけていたとき、主はこの導きをくださいました。しかも、中学二年生が帰国直後にもかかわらず、主の日の礼拝を守ろうと、教会を探し当てて来てくださったとは、なんと尊い信仰の姿勢でしょうか。

 三つ目は更に大きな出来事でした。N様が礼拝後に来会され、イエス様を主と告白し、救われたのです。そして、求め続けていた救いを受けた喜びに満たされて帰って行かれました。求道の過程については、いつかご本人からお聞かせいただく機会があることでしょう。イエス様ご自身が、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7-14)と語られたごとく、素直に聖書の教えに聴き従う方は皆無であるのが現実です。そんな中にも、主は救いに用意された方を残していてくださったのです。

 主の大いなる導きを見させられ、今私たちは更なる期待を抱きつつ、新年の門に立っています。主は私たちの前に広がる一年の歩みを、必ずや、みことばをもって導いてくださるにちがいありません。今、私の心に語りかけられているみことばは、年末礼拝で開いた、「まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」Ⅰテモテ6-19)です。「今」を大切にし、ベストを尽くす者だけに、祝福の未来は開けていきます。キリスト者は過去に生きるのでも、未来に生きるのでもありません。「今」、着実に主イエス様に学びつつ、従い続けて行くのです。

 昨年の教会の歩みに伴った実りは決して多くはありませんでしたが、皆が一致して祈り合い、精いっぱい主にお仕えした姿勢は立派だったと思います。その点については、年があらたまったからといって、気負う必要もないでしょう。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ない」(ピリピ2-14)ましょう。そして、主に期待し続けようではありませんか。



無題 | 19:14:31 | トラックバック(0) | コメント(0)